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Marijuana




『他者と触れ合うことを何より
 恐れるのは、自らがどうしよ
 うもなく汚いと知っているか
 らだ』


 自らを不浄なものではないと宣った人間は、一体何を考えていたのだろう。
 満足することすら知らないその手が掴むのは、いつだって、薄汚く汚れた屑であるのに気付きすらしないで。

   ***

 後ろを拙い足取りで追いかける少女に、自分よりも小さなその手を握り締めた。長い前髪に隠れた瞳がそれに気付き、顔を上げる。何も言わずに包んでやれば、少女はそれだけで幸せそうな笑顔を浮かべた。
 どれくらいの距離を歩いて来ただろうか、後ろを振り返っても何もない。砂漠の様な不毛地帯が続くばかりだ。目印もなければ家もない。これでは迷子になってしまう。
 不安になって、立ち止まった。
 右を見て、左を見て、建物の影を探す。
 やはり周囲には何もない。
 上を見上げて、太陽の位置を確認する。
 雲ばかりで何も見えない。
 何処へ進めば良いかなど、分からない。既に忘れた。教えてもらってはいない。考えたことすら無かった。
 本当にあの場所から抜け出せたのだろうか。灰色で、無機質で、冷たくて、全てが制限されたあの場所から。
 しかし、ここはあの場所と何ら変わりはない気がするのだ。空は灰色で、周りは土ばかりで、肌を舐める風はひたすらに冷たくて、何の意思も働かない。
 途端に、怖くなった。
 身体が震えだし、止まらない。
 そんな時、不意に腕が引っ張られた。そちらに視線を移すと、そこには先程の少女がぽつんと立っていた。少女と手を繋いでいることも忘れていた。不安そうに、少女はこちらを見上げてくる。そして、今度は足元を見下ろした。
 あ、と声が漏れた。
 立ち止まっているうちに、踝までが砂に埋もれてしまっていたらしい。まるで蟻地獄や底無しの沼に入り込んだ様に、足が軟らかい砂の中に埋もれている。隣りでは、いつからそこにいたのか分からない生き物が、もがきながら砂の中へ飲み込まれて行った。聞いたこともない鳴き声が、断末魔として耳へ届いた。どうやら、立ち止まってはいけない様だ。だから仕方なく歩き出した。
 しゃくしゃくと土が鳴る。
 しくしくと何処かが泣く。
 隣りで、また何かが飲み込まれて消えた。悲鳴が上がる。それは次第に大きく響くようになる。また、消えた。悲鳴も、ぶつりと途切れてしまう。
 それを見るのが怖くて立ち止まる。そうすれば自らも飲まれてしまうのは分かっていた。けれども、足が竦んでしまって動かないのだ。涙が零れそうになった。泣いてもどうにもならないことを知っている。だから考えた。今なら、引き返せば、元の場所に戻れるのではないか。あそこから出さえしなければ、こんな思いはせずにすんだのだ。どれくらいの距離を歩いてきたかなど忘れた。それでも、また忘れるほどの距離を歩けば、帰ることが出来る。
 わずかな希望を胸に抱いて、後ろを振り返った。
 決して、あの場所も良い場所ではない。けれど、こちらの方が最悪だと感じた。この場所以外なら何処でも良い。そう思った。
 だが、そんなわずかな希望も、一瞬の内に断絶された。
 遥か後ろに続くのは、暗闇だった。
 踵から向こうには、何も無かった。
 先程まで見ていた光景の半分から向こうが暗闇に飲まれている。風に吹かれた砂が、暗闇の中に落ちて行く。消えてしまったのか、中にあるのか分からない。地面すらも、次第に暗闇に支配されている。
 とうに、帰る場所も無くなっていた。
 だが、やはり足は進まない。再び、踝から少し上まで沈んでいた。このまま砂の中に飲み込まれて消えてしまうのも悪くない。暗闇の中に消えてしまうのも悪くない。
 ぼんやりと立ち尽くしている内に、足元に暗闇が噛み付いた。身体を這い上がる冷たさに、目を瞑った。これが死への感覚なのだろうか。そう思うと、襲い来る浮遊感に、心地よささえ感じてしまう。このまま消えてしまうのだと思った。そちらの方が良いのだろうと考えた。
 ゆっくりゆっくりとした瞬間を、しかし今度もまた阻まれた。
 繋いでいた少女の手によって、暗闇から引きずり出される。気が付けば足は砂を踏み締めていて、手を引かれるまま、徐々に暗闇から遠ざかって行った。ほんの少し寂しさを感じながら、少女の後へ続いた。
 何処にそんな力があったのだろう。少女はぐいぐいと引っ張って行く。死ぬな、と伝えてくれているのかと思うと、嬉しい反面、申し訳ない気持ちになった。
 少女の後頭部を見て改めて思うが、綺麗な長い黒髪である。癖の強さなど無い。重力に任せたまますらりと下に伸びている。
 彼女は何処の少女なのだろう。
 どうして同じ様に、こんな場所を歩いているのだろう。
 先程から彼女の顔を見ていないが、彼女は恐れていないのだろうか。
 様々な疑問ばかりが頭に浮かんでくる。声をかけようかとも考えたが、今まで一度も会話を交わしたことが無かったために、話し掛けるタイミングを失っている様に感じた。やはり、思った言葉を飲み込んだ。
 やがて、固い土を踏んだ。
 気が付けば砂漠を越えていた。砂漠の中では建物の影に気付かなかったが、確かに街へと入っていた。アスファルトを踏んでいる。目の前では建物がズラリと並んでいる。あまりの風景の変わり様に背後を振り返ったが、暗闇に飲み込まれて消えてしまっていた。
 これで砂に飲み込まれる心配は無くなったが、まだ暗闇が迫っている。一息吐いた後、再び少女が先導をきって歩き出した。手は繋いだままだ。その手は、始めに繋いだ頃よりも随分と頼れる様に思えた。心細さ故の錯覚だろうか。アスファルトの固い地面を、ゆっくりと踏み締めた。
 進むのは大きな通りだ。きちんと整備されていて、大勢の人間が行き交っていそうで、しかし誰一人歩いていない通り。決して寂れてはいないのに、そんな物悲しい雰囲気に違和感を感じた。周囲の状況を眺めるために足を止めたいが、少女は先へと進んでしまう。仕方なく、少しずつ眺めて歩いた。
 角を右へ曲がる。
 次は左へ曲がる。
 次第に道は複雑になってきた。細かい筋が多くなり、いつか引き返そうにも来た道を覚えておけない。しかし、それは何処か記憶に引っ掛かる道だった。通ったことはないはずだ。しかし、通ったことがある気がする。
 少女が再び右へ曲がった。
 途端に映る大きな看板に、やはり既視感を感じる。
 次へ次へと進むと、風景は徐々に荒れたものへと変わっていった。錆びた遊具しかない公園、廃棄物しか置いていない空地。無感情に鎮座しているそれらの姿。それも全て過ぎる。
 やがて、また大通りに出た。
 そこに続く景色を見て、身震いした。知っている。ここは、紛れもなく知っている場所だ。途端にそちらへ向かうのが怖くなった。あの場所へ戻ろうとは思わなかったが、どうしてもその先へ進みたくなかった。
 進みたくない。
 そう声をかけようとした瞬間、驚いた。周囲にばかり気を取られていて気付けなかった異変が、目の前に起こっていた。
 前を歩く少女が、少女ではなかったのだ。肩幅や身長が自身と同じくらいの女性が、前を歩いている。手もいつの間にか包まれる形になっていた。時折ちらちらと見える横顔は、誰かに似ている気がした。しかし長くて綺麗な黒髪はそのままで、それがあの少女なのだと実感させる。
 異様な光景に驚いて、反射的に手を振り払った。
 しかし、少女は構わずにまだ先を歩いて行く。もとから手など繋いでなかった様な素振りだ。そして、その先にある場所へと向かおうとしている。
 彼女がその先に向かうと、向かうまいと、関係はない。それは知っていたし理解していた。
 けれど、怖かった。
 全てが自分のことの様に感じられた。
 唇が震えた。
『どこにいくの?』
 やっと、声がこぼれた。
 それはあまりにも小さくて、聞こえなかったか、女性はまだ数歩先へと進む。再び声を発する勇気など残っていない。諦めかけた時、しかし女性は立ち止まった。女性に隠れて見えないが、きっと向こうにはあそこがある。じっとそのまま待っていると、女性が動いた。振り返るのが酷くゆっくりで、少し苛々する。
 目に写るのは長い前髪だ。
 強い風が吹いた。
 砂埃が舞う。
 女性の前髪が掻き乱される。
 そうして露になったその奥にあったのは、真っ黒な空洞だった。
『守られているのは、本当に貴女なのかな』
 ニタリ。
 自分とそっくりな女性は、不気味な笑みを浮かべていた。




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