[携帯モード] [URL送信]

Marijuana




 青ざめた顔をしたナズナの後ろに、ファナが半歩下がった状態で俯いている。
「…何、してるの…?」
 ナズナの唇は無理矢理に弧を描いているが、その表情は困惑に呑まれていた。ファナの表情は、よく見えなかった。
「聞いてたのか…?」
 険しい表情でゼンがそう尋ねると、ナズナは視線を逸らして腕を押さえた。トキの襟首から手を放す。
 トキが再び咳き込んだ。
 そして、目の前で立ち尽くすナズナをトキがまだ涙の浮いた瞳で捕らえる。
「…ナズナ。オレたちは、きちんと話さなきゃいけない事がある」
 その言葉に、ナズナは拒絶の色を称えた瞳でトキを見た。後ろに佇んでいるファナを抱き締め、小さく首を振る。
「…嫌よ…」
「ナズナ…!」
「…だって、さっきで話は終わったでしょう?私たちは大丈夫よ。お風呂に入って、ゆっくり休みましょうよ、ね?」
「駄目だよ、ナズナ…。これはハッキリさせなくちゃいけない」
「トキは疲れてるのよ。だって―――」
「命がかかってるんだ!」
「―――っ!」
 突然の大声に、ナズナの肩が大きく揺れた。驚きに見開かれた瞳には、見たこともないトキの姿への恐怖が入り交じっている。大きなそれから涙が零れた。立つ力を無くした様に足から崩れたナズナに、トキが慌てて駆け寄る。
「っ、怒鳴って…ゴメン…。でも…」
「なんで…、どうしてっ…?」
「ナズナ」
「触らないでっ!!」
「っ―――!」
 ナズナの肩へ触れようとした手が、彼女によって拒まれた。乾いた音を立てた二人の手が、反発しあって跳ね返る。
「あっ…―――」
 それは彼女自身すら予想していなかった事なのか、赤くなったトキの手の甲を凝視している。そしてわななく唇で、必死に言葉を紡いだ。
「ご、めんな、さ…い。でも、私…トキが、そん、な……………」
 ナズナの声が止まった。
 彼女の碧い瞳が、トキがひどく傷付いた表情をしている事に気付いたからだ。目の前でフラフラとおぼつかない足取りで立ち上がり、トキは目の前を両手で塞ぐ。
「オレは、…会ったばっかりの奴を匿って…自分たちが危険になるより、お前らに罵られようが、平和な時間が欲しい…」
「…トキ…?」
「オレだって、嫌だよ…それでもさぁっ…何よりお前やナズナが傷付くのを見たくないんだよ…」
「…、それはっ…」
「今までみたいに、たった三人だったら何も変わらなかったのにさぁっ…」
「………」
 床を濡らす雫が一粒。それは、トキの頬を伝って流れ落ちた涙で。今までこれ程彼が悲しんだ姿を見た事はなく、ゼンは戸惑った。
「トキ…」
 何を話せば良いかなど到底解るはずなく、ただ名前が口から突いて出る。
 しかし一番困惑しているのはトキのはずだ。揺れる瞳を床に彷徨わせ、震える唇はやがて同じ言葉しか紡がなくなる。
「違う、…違うんだ…。ナズナを傷つけようとかさ、そんなこと、考えてなかった…こんな事、違う、思ってなかった、違うだろ…?オレはさぁっ…」
 錯乱した様に意味の伝わらない言葉を紡ぐトキを、ゼンが抑える。
「落ち着け、トキ…」
「でも、オレ…っ。オレっ…」
 嗚咽の入り交じった声に、ゼンは胸が鷲掴みにされた気分だった。
 その瞬間、唐突に凛とした声が響く。
「…、出て、行きます」
 ナズナの傍らに立つ少女が、言葉を紡いでいた。目の前の光景を映すその瞳には、悲しみも怒りも浮かんでいない。ただ、憂えているだけだ。
「もとより、長居する気は無かったですから…」
 少女の言葉に、トキは何も言わなかった。この状況で口を開けば、少女を傷つける言葉しか出てこないと思ったからだろうか。ナズナも口を開かない。ただ呆然と目の前の出来事を眺める人形の様になってしまっている。
 ただ、ゼンは自責の念に苛まれた。この場面を、よくもそのまま彼女に見せたものだと思った。押し流されたと言えばそれまでだ。だが、彼女をこの家に居させたいと思うならば、聞かせるべきではなかったのだ。
「出て行きます」
 再び紡がれた声は、感情など籠っていなかった。止めることなど出来ないと悟る。そんな資格などない。
 だが、まっすぐにこちら側を見つめてくるファナの瞳は揺らいでいた。肩が震えていた。唇は強く引き結ばれていた。
 彼女はこれからの不安に、必死に堪えている。
 全ては自己満足だ。突き落とし、それに手を差し延べ感謝されることに悦を感じる。反吐が出そうな程汚い理由だ。だが、それだけでないと信じたかった。
「俺も家を出て行く」
 ゼンが口を開いた瞬間、空気が震撼した。その場の人間全ての戸惑いが肌を通して伝わってくる。
「…ファナがいなくなれば、危険が無くなるのは解る。だが一人にはさせられない」
 こんな社会で生きて来た中で、いつ死んでも良い様に心構えはきちんとしてきた。今更する後悔など、無い。
 ただ守りたいと思った。
 更なる自己満足を生んでいるかもしれない。だが、それもどうでも良いと思った。
 そう言うゼンの言葉をファナは撥ね付ける。
「迷惑は、かけられません」
 しかし、ゼンはその声をまるで聞こえなかった様に扱った。
「お前たちも、近々この家を出た方が良い。いくら俺たちが出て行っても、関係者だと思われたら意味がない」
「だから、私だけが出て行ったら」
「けれど、二人で出た方が良い。この件が片付いたらまた――」
「ゼン!」
「……」
「だからっ、…私一人が出て行けば、貴方たちは一緒に暮らせるでしょうって、…言ってるのに」
 途切れ途切れに紡がれる言葉が震えている。今にも涙が伝いそうなその頬に、ゼンはゆっくりと指で触れた。温かい。
「頼むから…」
「っ、」
「お前を守らせてくれないか」
「でも、…でもっ…」
「俺が一緒に行きたいんだ」
「っ…」
 ゼンの優しい微笑みにファナの瞳が大きく揺れた。
 強がらなくても良い。
 言葉では形にせずとも、その意味に含まれた声。震える唇は、今にも漏れ出そうな嗚咽を押し殺す様に固く締められる。
「ゼン…!」
 不意にナズナがゼンに駆け寄った。見つめるそれは彼の死を恐れた色を称えている。震える唇が、弧を描いている。信じられない事実に対する拒絶の笑みだった。
「ゼンまで行く必要、ないじゃない」
「俺がいなくたって大丈夫さ」
「そんな、こと、…」
 不意に、碧と緑の視線が交錯する。
 碧の瞳が、虚ろな光を称える。
「これが、…呼び寄せられた『不幸』…?」
「!」
 血走った瞳が、目の前にいる緋の髪を持つ少女に向けられていた。ナズナの瞳に宿るのは、不安に駆られた人間の、暗闇。それを受けた少女は怯えた様子で後退り、見つめる女は力尽きた様に座り込む。
 それは明らかに拒絶を含んだまなざしで。
 それ以上の言葉は続かず、ただ一人が動いて静かに床が軋む音だけが、聴覚に響いた。


 長身の男と緋色の髪の少女が姿を消しても、ナズナはずっと床に膝をついていた。廊下の電球が、薄暗く辺りを照らしている。
「ナズナ…?」
 トキが控え目に呼べば、ゆっくりと顔をあげた。放心した様な状態の彼女は、それでも、自分を嘲笑うための笑みを浮かべる。
「私…、偽善者ね…」
「…え?」
「あの子の困った顔見てると放っておけなくて。…でも、いざ自分の身が危うくなったら、突き放して…」
「…」
「あの子に似てるからって、ゼンが大切にしてるからって、中途半端な感情で動いて、私の考えなんて殆ど無くて…」
 床の上で握り締めていた拳に更に力がこもる。
「でも、楽しかった…」
 力をこめすぎて白んだそこに、不意にトキの手が重なった。一回り以上も大きなそれに手を包まれて、ナズナはいつの間にか下がっていた視線をあげた。
 トキの手が、ナズナの頭に移る。
「今日は、もう寝よう。明日また、…考えよう?…疲れてるんだ」
 あやすように抱き締めてやれば、腕の中でナズナは深い息を吐いた。
「…狡い」
 誰にも聞こえないように小さく呟いた言葉が誰が発したものなのか、そして誰に向けられたものかは分からなかったが。

   ***

「行こうか」
 呆然と立ち尽くす少女の肩を、男が優しく叩いた。エメラルドグリーンの瞳が、その男を映す。暗闇にぼんやりと浮かんだ街灯の光が、少女の顔を半分だけ照らした。
「ごめんなさい…。ごめんなさい…」
 少女の瞳から、綺麗な涙が流れていた。はらはらと落ちるそれは、街灯に照らされ淡い光を放つ。光の筋だけが頬に残った。

 暗闇に、ポツリと二つ、影が落ちる。
 今日はやけに風が強い日だと思った。
 明日は、嵐になるかも知れない。





[*前へ]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!