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Marijuana




「置くぞー」
「!」
 不意に、トキの声が記憶の深くに沈んでいたゼンを引き戻した。トキが机を降ろしたことで意図せず負担の増えた腕が、必然的に地元へと向かう。ゼンが力む間も無く、机の脚とアスファルトが、乱暴な音を立てた。
「……」
 木屑がはがれた。
 文句を言ってやろうと思ったが、目の前で久々の解放感に伸びをしているトキを見て止めた。それに、この机はずっと使われずに埃を被って眠っていたものだ。きっとこのまま解体され、ゴミとして何処かへ行ってしまう。机にしては可哀相な末路だが、それも仕方ないものだと思えた。壊される前にまで美しくあるものなど殆ど無い。全てがボロ雑巾の様に穴が開き、汚れにまみれてしまう。
 散らばった木屑を靴底で土に馴染ませながら、ゼンは苦痛でしかなかった姿勢から解放された身体を労うために、うんと唸って背を伸ばした。ポキポキと小気味良い音が耳を打つ。必然的に視線は上へと向けられて、そこには今ではすっかり馴染んでしまった空が浮かんでいた。まだきっと三時頃だ。それでも曇った空は日光を通さずに、黒いアスファルトを更に漆黒に染めている。午前中よりもほんの少し強くなった風は、軽くなった髪を揺らした。
「…珍しいな」
「んー?」
 詰まっていた息と共に言葉を吐き出すと、トキが机に腰をかけながら、ゼンを真似て上を見た。
「別に、こんな天気珍しくも何とも無いじゃん」
「違う。お前が早く帰ってきてることだ」
「あー。…あんね、ゼン。分かってないみたいだから言っとくけど、オレだって忙しいの」
「ただの放浪人間のくせにか?」
 茶化してみれば、トキは空を見上げたまま唇を尖らせた。
「オレにも色々あんの。人の事馬鹿みたいに言ってさー」
「馬鹿じゃなかったのか」
 心外だとばかりに大袈裟なリアクションを取れば、トキは更に頬を膨らませた。ジト目で睨み付けて、明らかに不機嫌であることをアピールしてくる。そんなあまりにも子どもらしい反応に、ゼンは苦笑を噛み殺す。
「ゼンは全然オレのこと分かってないね!」
 そんなことない。けれど、そうかも知れない。
 その言葉も飲み込んだ。
 子どもという不安定な立場から解放され、今は随分平和な毎日になったと思った。それでも不安は日々付きまとう。そんな日常の中でトキやナズナは、ゼンにとってはどうしても不思議な存在となり得た。苦労しかしてこなかったと言えば言い過ぎかも知れないが、ずっとしかめっ面をしていたのは確かだった。それを今の様にしてくれたのは、彼らなのだ。
 家にどれだけ埃が積もろうとも、それだけは隠れない真実である。
「オレがどんだけ頑張ってるか、分かってないだろ」
「へえ…遊んでるものだと思ってたな」
「ひっでー!」
 だが、それを敢えて口に出すようなことは、口下手なゼンにとっては難しいことだった。思ったことを、心の中で呟くくらいで精一杯だ。
 今も、本当にしたいはずの会話をせずに、駄々をこねる子どもの様に机の上で暴れているトキを見て笑っている。今更改まることが恥ずかしいのかも知れない。
「あー、疲れた」
 トキが、幾度目かの盛大なため息を吐く。それが何に対しての「疲れた」なのかは聞くまでもない。そして、それがどんな意味を隠しているのかも。
 机にへばり付いて今にも眠ってしまいそうなトキの背中を思い切り叩いて、ゼンは今までの考えを降り払って言った。
「ほら、次はタンスだぞ」
 しかしそうして家に戻ろうとゼンが踵を返した途端、後ろでジャリと砂をなじって後退る音がする。またトキの口から文句が飛び出すのかと思って待っていると、聞こえたのは大根役者の様な台詞だった。
「いやね、オレもさ、女の子に力仕事させる訳にはいかないって解ってるよ、解ってるつもり、うん」
「…」
「でもね、ほらさ。人間、得手、不得手ってあるじゃんか?どう頑張ってもどうにも出来ない事ってさ?」
「…………」
「オレ今解ったんだよ、閃いた。だから―――」
「トキ…」
 ゼンが低く発した声が仄かに冷たさを含んでいることに気付いたトキが、ヒクリと口角を痙攣させる。気まずい沈黙だった。ゆっくりと振り返ったゼンの顔には怖いくらいの無表情が張り付けられている。対するトキは、蛇に睨まれた蛙のごとく、固まってしまった。
「………」
「………」
 しかし、ほんの数瞬経ち、トキが意志を取り戻した。余程掃除をしたくなかったのか、吹き出る嫌な汗を拭って声を張り上げる。何も付いていないはずの腕を見て、しまったと言わんばかりに額を叩いた。
「う、うわ、いっけねー!オレ、この後仕事入ってたんだったぁー、やばいやばい忘れる所だったよ、あっはっはー!じゃあ…、行って来る!」
「あ、おい!」
 そしてまくし立てる様に言った後、トキはさっとゼンに背中を向けて走り出してしまった。ゼンが引き止めるために手を伸ばすが、その手は宙をかいてトキの身体に掠りもしない。元からかなり距離があったために仕方ないだろうが。みるみる内に小さくなって行くトキの背中に、呆気に取られたままのゼンは小さく零した。
「……逃げられた……」
 声は強く吹き付けた風にさらわれて行く。
 揺れる前髪に邪魔されることなくすっきりとした視界には、不必要になったがらくたばかりが並べられ、既に誰の影も映っていなかった。

   ***

 それから十分も経たずに、家を飛び出したトキは寂れた路地を独り唇を尖らせながら歩いていた。「ゼンのばかやろー」などと悪態を吐いてポケットに手を突っ込んで背中を丸めている姿は、何処か幼い印象を与える。蹴りつけた土が、足元でパラパラと跳ねた。
「ったく。やってらんないって、掃除なんか」
 茶色い髪をふわふわと気ままに揺らすトキは、砂利やら小石やらを手当たり次第に蹴っては小さく「仕事なんていくらでもあるけどさー」と呟いていた。言えば重労働から逃げたことになるのだろうが、ゼンにそう思われることだけは嫌だった。だから、とにかく何でも良いから即手柄を立てようと、トキは自分の仕事場である『アイ・エフ』へ向かっていた。
 初めて『アイ・エフ』へ訪れたファナたちへ説明するときには大部分を省いたが、実質、トキの最近の『仕事』とは裏の情報を売り買いすることである。確かに簡単な任務――例えば『さがしもの』など――ならば大した危険もなくすぐさま解決することが出来るが、一回の報酬がかなり少ない。反対に裏社会に繋がる依頼ならばある程度のリスクは伴うが、上手くやれば何の苦労もせずに大金が手に入る。同業者に情報を売っては、時に危ない情報を買い、更に高値でそう言った情報を欲しがる人間に売る。しかしそれは私益のためではなく、あくまで利他的な行為としてと、規約として定められていた。国家規模の試験を受けて認められた者だけが、国のために働く。そんな仕事だ。
 ただ、自分の関わりにしか興味のないトキにとっては、そんな規約はあってないようなものだった。国家も利他も何もない。時折、仕事場の人間と会話をするが、必要以上のコミュニケーションは取らない。取るとしても、それは自分たちの暮らしに関わると判断した時だけだ。全てにおいて、自分たちの幸せが中心で回っている。
「いっちばん働いてんのはオレなのにさぁー。扱い酷いよ、うん、帰って文句言おう」
 こうやってぶつぶつと呟いているが、少し経てばそんな些細な不満などすぐに忘れてしまうのだろう。ある意味で直線的な彼の性格は、この仕事に向いていると言える。
「っ…」
 不意に、嫌に湿った風が一陣髪をさらって行くと同時に頭上で烏が鳴いた。上げた視界に映ったのは薄暗い空だ。高いビルに挟まれたそれは、遠く続くはずなのにやけに小さく感じる。どうやら、ぼうっとしている間に路地裏に入っていたらしい。下に続く崩れたブロック塀やむき出しの鉄筋、そこかしこに放置されたままの『生ゴミ』に、顔つきが険しくなっていく。
「…汚い」
 無意識に呟いた言葉が、まるで泥沼の様にズブズブと自らの足に纏わりついて身体を沈めて行くのを感じた。息苦しさを感じて喉に手を当てる。『正規』の社会から切り離された世界。まるで陸に上がった魚の気分だ。
「どうも、今日も良い天気で」
「!」
 と、路地裏に入った途端に、目の前に怪しげな男が立った。ブカブカのフードを鼻の辺りまで下げ、ニヤリ、と汚ならしい歯を見せて気味の悪い薄ら笑いを浮かべている。
「アンタ、曇りは好きですかい?」
「別に」
「私はとてもこういった空が大好きでしてね。ほら、人の不幸は蜜の味、って言うじゃないですか」
 少し高めの引きつった声で、意図の掴めない話を切り出す男は、トキに詰め寄った。近付いてきた気味の悪い顔に、トキが眉を寄せる。そして、険しい目付きで応えた。
「…なんだよ」
「少しお尋ねしたいことが」
 男は前歯の二本が欠けた歯を見せて、更に口角を上げて高く笑った。




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