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Marijuana




 ファナが来てから数日が経った。人が一人増えたことで洗濯や料理の勝手は変わったが、他には何も気にすべきことは起きていない。彼女が持つ呪いの刻印も、未だ効果を発揮しない様だった。朝にはベッドから抜け出し、仕事に出掛けるトキを見送り、特にすることもなくのんびりと過ごし、夜には再びベッドへ潜る。同じ様に過ぎる日々に、そこに住む人間は内容は様々でありながらもひたすらに安堵していた。
 その間にも空は陰り、雨は降り続ける。ただそれが最も大きな災厄の前触れの様な気がして、不安が消えることは無かったが。
 今は、追っ手もファナの行く先を掴めていない。もしかしたら彼女のことを追ってはいないかも知れない。だが、逃げ出したあの瞬間、最後に垣間見たあの男の顔が、網膜に焼き付いて離れないのだ。それは夜、目を瞑れば必ず現われる様に。死に物狂いで彼女を探すかも知れない。いずれは簡単に見つけてしまうだろう。
 追われることは初めてだったが、見つかってしまうまでには彼らの居場所から離れなければならないと、直感で感じ取っていた。しかし一度居心地の良さを味わってしまえば、離れると考えるだけで再び孤独になることが怖く感じられるのだ。夜、一人で入ったベッドの冷たさに身震いしては、昼間に感じる温かさが恋しくなる。今までずっと独りであったはずなのに、よくもこんな数日で慣れたものだと、ほんの少し自嘲した。
 だが晴れる日は来るもので、五日ぶりの晴れの日には、少し気が安らいだ。晴れと言っても、空には重たい暗雲が立ち込めている。それでも所々から漏れる太陽の光の筋が、美しく見えた。天候が悪い日には控え目だった鳥の声が、久々の曇り空に盛大に盛り上がる。荒れた大地には、珍しく吹いた柔らかく暖かい風が土の上を滑る。その風に乗って、紅い髪がふわりと一束、さらわれて行った。
「もう少しだけ顔、上げてくれるかな?」
 ナズナに顎を抑えられたファナが、固い表情で目線を前へと直した。
 パサリ。
 また、髪が落ちる。
 ナズナが手にしている切れの良さそうな銀色の挟みがシャキシャキと揺れる度に、ファナの髪が少しずつ短くなっていく。
 そこは、ゼンたちが住む家の裏庭だった。裏庭がついているなど、荒んだ地域にしては意外に大きく立派な家だといつ見ても思う。柵で囲まれた向こうには今は使われていない道路が見えるが、内側は綺麗に整理されて、芝生まで生えているのだ。端には花壇まである。ゼンがいつか尋ねたことだったが、「家にいるだけだと暇だから」と、笑ってナズナが言っていた気がする。それはしばらく続いた雨に見舞われた筈だったが、今でも凛と佇んでいた。
 はらり、と、緋の髪に誘われたのか、一枚の花びらが落ちた。
 芝生の真中に出された椅子に座ったファナは、身体に大きな前掛けを被せられナズナに散髪してもらっているのだ。
 今日もトキは仕事だと言って家にいない。一週間に三日ほどしか家をあけないゼンと、一週間ずっと家にいるナズナと、ファナが残っていた。それなりに長い間同じ人間ばかりといると、やることが無くなってしまう。だから、ほんの少し前にナズナが提案したのだ。
 だいぶ長い間手入れされることなく放置されていた髪の毛は、彼女が指を動かす度に短くなっていく。
「あの…」
「大丈夫よ、大丈夫。私だって、自分のはいつも自分でだから」
「はあ…」
 ファナが不安げに声をあげたが、ナズナがニコニコと笑って肩を叩いてきたことに、ぎこちない笑みを返すしかない。古びた椅子が、気まずそうに小さく音を立てた。

 髪型がどうなろうと知ったことではない。心配事は、そんな俗な問題ではないのだ。どれだけ目の前が広く明るく見えようとも、ずっと先が見えない。離れなければと思っている。全てをぶちまけてしまって、それでも引き止められることを望んでいる。夜は暗闇が怖いのに、昼になるとそれを忘れてしまう。それはエゴでしかない。そんな自分を嫌悪する。近頃より一層強くなるそんな考えに、じっとなどしていられなかった。しかし、ナズナが切り終えるまではいつまで経っても解放してくれないはずだ。取り敢えず思考を放棄するために、ファナは先程からずっと自分のことを見つめている男に視線を向けた。ファナの真横に位置した椅子に座るのは、ゼンだ。背もたれを前にして足を広げて腰を下ろし、じっとこちらを見つめている。何のためにいるのかは分からないが、ただじっと、黙ったまま座っているのだ。
「………」
 視線は確かに合わさった筈だが、目の前の男は顔の筋肉を、瞬きする時にくらいしか動かさない。まるで睨めっこをしている様な二人の間で、ショリショリと髪が切られて行く音だけが聞こえる。
 動かない。
 呼吸すら感じない。
 心臓の音だけが早くなる。
 寝ているのかとも思った。
 だが、探る様な目線が違うと告げる。心の奥まで見透かされそうな、考え事に気付かれそうな気がして、いたたまれない気持ちになった。
 その時だった。
「痛…」
 不意に、ゼンが小さく呻いて顔を伏せた。
 訳が解らずにそれを見つめていると、頭上からナズナの声が飛ぶ。
「長くなってるのにそうやって放っておくからよ〜?待ってなさい、後で切ってあげるから」
 その言葉で、何となく状況を理解したファナは緊張を解いた。
 恐らく、風にさらわれたゼンの長い前髪が、目を突いたので間違いないだろう。顔を押さえる手の隙間から、怨めしそうなゼンの瞳が見えた。
「そうやって自信満々に言っといて、トキの瞼突いて失明させそうになったのは誰だったか」
「う、…それは言わない約束でしょっ」
「いつしたっけな、そんな約束」
「むーっ」
 むくれたナズナに、椅子の背もたれに腕と顎を乗せたゼンがクスクスと笑った。合わせて、ナズナも表情を崩す。
 そんな光景に、ファナは話を合わせることも出来ずにぽかんとしたまま黙っていた。目の前で自然に溢れた笑いについていけない。ファナの知る『男』たちは、一度足りとも笑いはしなかったのだ。何より、ゼンはファナと会話する時には極端に口数が減る。そして何処かよそよそしくもあり、自然と交わされる会話などないのだ。だから、表情の乏しい彼も、男たちと同じ部類だと思っていたのだ。
「珍しい?」
 不意にかけられた言葉に、意図せずに肩が揺れた。
「え、?」
 振り返ると、ハサミを置いたナズナが、前掛けに付いた毛を払っている。
「ゼンが笑うとは、思ってなかった?」
「…ええ、まあ…」
 考えていたことをすんなりと当てられて、戸惑いながらもファナは頷いた。この位置にこの声の大きさなら、きっとゼンには聞こえていない筈だ。チラと向けた視線の向こうで、ゼンは暇そうに欠伸をしている。
 初めて会った頃からは、到底想像も出来なかった。人に囲まれて生きながら、何処かいつも独りでいる様な、そんな印象を一瞬で受けるほど。
「あれだけ楽しそうに笑う人だと、思ってませんでした…」
 素直に感想を漏らすと、ナズナは苦笑する。
「ゼンは、感情の起伏が小さいから。…昔は、そうでもなかったと思うんだけどね…」
「何かあったんですか?」
「………」
 ファナの問いに、ナズナの表情が曇った。
「ファナちゃんが気にすることじゃ、…ないから…」
 そして彼女がニコリと作った笑顔は、無理矢理で、悲しげな笑みだと思えた。そして、これ以上聞いてはいけないと本能で悟ったファナは、再び口を閉じた。
 櫛やブラシで髪を梳かれ、残った長い部分がまとめて切られていく。先程よりも居心地の悪い沈黙に、ファナは、こんな時間など早く終わってしまえば良いと思った。それでもやはり、ゼンは真横に位置している。変わらずにこちらを見ている。負けじと意味も分からず対抗心を燃やしたファナが意識を別の方に向けるためにそちらを見ていたが、いい加減横目ばかりしていると疲れるものだ。
 眉を寄せて目を瞑っていると、知らない間に前へ回っていたナズナが声をかけてきた。
「疲れたかな?」
「えっ?あ、…い、いえっ…」
「もうちょっとだけ、我慢してね」
 くすくすと大人びた笑みを浮かべるナズナに、ほんのりと羞恥に頬を染めたファナは無言で頷いた。
 そして、何秒も数えない内に、ナズナはファナの前掛けを取った。
「はい、終わったわよ」
「ありがとうございました。あの、ゼンに変わりますね」
「そうね。雲行きが怪しいから、早くしないと」
「じゃあ、私、洗濯物取り入れてきます」
「うん、お願い」
 前掛けを揺らすと、一際激しい風が吹いて、残った髪をさらって行った。




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