白鎮魂歌(完結) 哀と笑 遥か向こうにある空は、どんよりと重たくくすんでいた。黒い雲からは今にも雨が降り出しそうで、しかしこちらには一切干渉しない程にそれらは遠い。こちらはと言えば、少し雲は多いものの、天気は良好だ。それでも吹く風に肌寒さを感じずにはいられない。風向きを考えれば、数日の内に、あの雲はこちら側にも足を下ろすのではないだろうか。 一人、木々の開けた場所に佇む男は、まるで愚図る子どもの様な複雑な心境で無表情のままそんな空を見つめている。 「贖罪」 ぽつりと呟かれた声は遥か小さかった。 ある種の哀しみを含んだ声は、広い空間の中、どれに弾かれることもなく霧散していく。 「せいじゅ…?」 隣りにいた女児の心配そうな声に、男―晴珠はゆっくりと振り返った。 その時には、今までの無表情とは変わり口元にはあの見慣れた笑みを浮かべていたのだが。 「おや、陽桜。どうかしましたか?」 しかし、女児ー陽桜の瞳は笑わない。傷を悼む様な悲しい表情で、その小さな唇を動かす。 「どこかくるしいの?」 「…」 陽桜の声に、晴珠は口を閉じた。或いは戸惑った様に。 誤魔化す様に口元に笑みを浮かべれば、しかし、陽桜は変わらない表情のまま、晴珠の着物の袖を引っ張る。必然的に屈む格好になった晴珠が未だ返答しないでいると、陽桜はそのまるで晴珠を飲み込んでしまいそうなほど大きな瞳で彼を見つめた。再び、小さな唇が動く。 「かなしそうなかおをしてる」 舌足らずな口調で紡がれた言葉に、晴珠は無言で彼女の頭を撫ぜた。 「初めから、こんな顔でしたよ」 「せいじゅ」 「ええ…、初めから」 「…」 陽桜は、外見は幼児の容姿であるが中身は何百と時を過ごしてきた、朱援や晴珠よりも長生きの殻蟲である。特に大きな力は持っていないが、人の気持ちを察することには長けていた。洞察力に優れ、それが『良いもの』なのか『悪しもの』なのかを見極める。 「ひとりで、かかえこまないで」 そんな陽桜が、何を思ったか晴珠にそう告げた。 「…私は、大丈夫ですよ…」 晴珠は、陽桜に言われた通りに哀しげな顔をして目の前の女児を抱き上げるのだった。 *** 蘭角に促されるままに、狛は社へ足を運んだ。朝訪れなかっただけで随分と久し振りに感じるそこの空気が、どんよりとした向こうの景色と相俟って少し沈んだ様に見える。 不安げな狛は、蘭角に背中を押され戸惑ったまま歩み続けた。やがて近付く神木の大きな影。 その一本の枝に腰掛けている朱援を確認し、狛は声をかけた。 「朱援…」 応える声は、ない。 「…朱援、俺の話を、聞いてくれよ…」 無意識に、狛の声は小さくなってしまう。後ろで佇む蘭角でさえ、不安げにしている雰囲気が伝わってくる。 暫くして上から声が降りてきた。 「なんだ…」 それはあまりに疲れた声だった。 背を向けて腰掛けた朱援の表情は、更には木の葉が影になり良く見えない。しかしよく見れば、代わりに見える長く綺麗なあの白髪はいまは纏められることなく無造作に肩に落ちていた。 振り返る、気迫のない顔。 「…」 彼女のあまりの変わり様に、狛は一瞬声を失う。 しかし、いくらそんな外見であろうとも、存在自体が高貴に思える様な彼女は腰掛けていた枝から離れ、音もなく地に足をつけた。長い髪が、それでも綺麗に揺れる。 狛のすぐ傍に降りた朱援は、白によく栄える赤い瞳を真正面から向けた。哀しみが、或いは憎しみさえもないまぜになったそのまなざしに、蘭角でさえ息を飲む。 「決めたのかえ?」 「…」 「退治屋に、なるか?」 「…まだ、決めてない…」 狛の返事に、朱援は息を吐いた。 「なら早く決めろ…。退治屋にならないのならば、もう妾とは関わらない方が身のためだ」 そして、疲れ切った口調で朱援は言葉を紡ぐ。何かに憤りをぶつける様に背を向けて。 しかし、対話を拒否している朱援の背中に向けて、蘭角の促しに押される様に狛は声を張り上げた。 「でもそれは、俺が決めることだから!」 「何…?」 「俺が、自分で、決めることだから。朱援に指図される様な話じゃない」 振り向いた朱援に向けるそれはまるで、母親に対する反抗期の子どものわがままの様で。 「俺は、退治屋になって朱援の仲間を殺してしまうのがすごく怖い。だから、なるかならないかはまだ決めてない。だけど、ならないからって朱援たちと会わないのは嫌なんだ」 けれど、少しの甘えを残した言葉。 「…」 ぽつりぽつりと、それでもいくらか力強い口調で紡がれる言葉に、今度は朱援が言葉を失う番だった。朱援に動揺と言う新たな感情が生まれる。それは、また後ろを向いてしまった背だけを見てもありありと分かる変化であった。 そんな彼女を見て、叫んでしまわない様に、狛はあくまでも慎重に思いを吐き出した。蘭角がそうした様に。自らを主張しながらも、相手の考えを壊してしまわない様に。ただ、切々と。 「朱援は、俺が退治屋になっても、殻蟲を殺しても、友達だって信じてるって言ったよな?」 「…ああ」 「なら、今も友達なんだよな?」 「………そう、信じてる」 「なら条件なんていらないじゃないか」 「…、…」 「確かに俺に力なんかない。さっき、蘭角にも教えられた。それでも、俺にとっての友達を、いつか喧嘩してしまうだろうからって今なくすのは嫌だ」 不意にその時、それまで重鈍な動作しかしなかった朱援が、狛の言ったある言葉に反応して一瞬にして振り返った。 「喧嘩、だと…?」 理解出来ないと言った風に眉を寄せる朱援に、それでも狛は力強く頷いた。 「そう。喧嘩」 敢えて他の言葉で飾ってしまわない様に。とても短い言葉で応える。 はっきりとした口調。 はっきりとした答え。 はっきりとした意志。 あまりにもまっすぐで、あまりにも真剣な狛の表情に、やがて朱援はくしゃりと顔を歪めてしまった。 「お前は、馬鹿な子だ…」 俯く前の彼女の顔は今にも泣きそうで。 俯いた彼女の声音はとても嬉しそうで。 彼女よりも幾分か身長の低い狛は、それでも朱援の表情を盗み見ようとはしなかった。 後ろで聞こえた蘭角の小さな吐息につられ、狛の唇は微笑みを形取る。 「賢くなって友達をなくすよりましだよ」 優しい声音で呟けば、人間の耳より遥かに聞こえの良い朱援の耳に、鈴の音の様に浸透する。 「ありがとう…」 「!」 その時の朱援は、涙の滲んだ瞳で嬉しそうに笑っていた。いつも見せる様な気丈で勝気な強い笑みではなく。まるで一般女性が見せる様な、優しい笑みで。 途端に落ち着かなくなった狛は、 「って、…殆どは蘭角が教えてくれたんだけど、さ!」 そう、誤魔化す様に髪を乱暴にかきむしりながら後に付け足した。 「阿呆っ…」 その言葉に、蘭角は苦虫を噛み潰した様な顔をして、そのまま手で隠してしまう。 そんな二人の様子に朱援は一瞬きょとんと瞬き、しかし次の瞬間には全てを理解したのかいつもの笑顔を浮かべるのだった。 「格好がつかないな」 くすくすと笑う朱援の笑顔もまた、あまり見ない、彼女の心からの笑顔の様で。 「ほんまに阿呆や」 「仕方ないだろっ、本当のことなんだから」 「それでもやなぁ、…」 「最後は、全てお前の気持ちだと思ってはいけなかったのか?」 「……!それはっ…」 「きっと、そうやで」 「蘭角…!」 「おや。誤魔化してしまうなど、…それほど恥ずかしがり屋だったかな、狛は」 「ぅ、五月蠅いっ!」 「ふふ」 「へへっ」 自らよりも遥かに長生きである二人に笑われ、無意識に赤くなった頬を隠すために怒ったふりをして狛は背を向けた。小さな狛の背中に、しかし未だ幼いというのに成長した考えに朱援は表情を緩める。 「大きくなったな」 「…そ、そうか?」 狛は、背を向けたまま返答した。それでも、朱援は小さく頷いて続ける。 「まだ十五だと思っていたのに」 「もう、だよ」 「…そうだな、ふふ。けれど、あの時はもっと小さかった」 「あの時?」 「ずっとずっと昔に見た時だよ」 「ふぅん」 「…母上殿とは、上手くやってるか」 「今日、久し振りに二人で出掛けたよ」 「そうか。ならば、良かった…」 何処か遠くを見つめる様に彷徨った朱援の瞳は、しかし何処にも行き着く訳ではなく。その時聞こえた声によって、再びこの地に降りてきた。 「おや、仲直りですか?」 その声の主は、晴珠だった。陽桜を抱き上げ、雑木林の中から悠然と歩んで来る。 「みんな、なかよし?」 陽桜の柔らかい笑顔を受けて、朱援は少し気恥ずかしそうに答える。 「済まなかったな、迷惑をかけて…」 しかし、そんな朱援の言葉に、晴珠は軽々しい様子で肩を竦めた。ちらりと隣りに佇む蘭角を見つめ、意地悪く笑う。 「いえいえ。何処かの誰かさんよりは、ずっと落ち着いていましたよ」 「なっ!?」 「確かに」 「狛!」 更には晴珠の意図を汲み取った狛に頷かれ、言葉の矛先を向けられたことに気付いている蘭角は、信じられないとばかりに声を張り上げた。 「随分落ち込んでいた様子でしたよね」 「蘭角は他人のことには敏感だからな」 「ちがっ、それは、…っ…」 朱援の言葉に、必死に誤解を解く様に蘭角は抗議するがなかなか形にならない。 と、その時、何かに気付いた狛が言葉を切り出した。 「もしかして、蘭角って朱援のこと――」 しかし、それは全てを紡ぎ終わるまでに、蘭角の声によってかき消されることとなる。 「狛ぁああぁぁ!!!」 「うわっ」 「頼むから言わんといて。お願いやから言わんといてっ。俺の百年くらいの気持ちを晒さんといてぇえっ!」 両肩を鷲掴みされ、ぐらんぐらんと揺さぶられて狛は目を白黒させる。口から呂律の回らない言葉を吐き出す狛を見つめて、突然の蘭角の行動に朱援は驚いた様に目を見張った。 「どうしたのだ、突然…」 「皆分かっていることでしょうに、隠し事をしているのですよ」 「ほお」 実直な蘭角が珍しい、と続く言葉は小さく呟いて、しかしいい加減に止めてやらなければ狛が限界を迎えてしまいそうなので、朱援は蘭角の手に自らの手を添えた。途端に、石になってしまったのか如く、蘭角は固まってしまう。肩を掴んでいた手が大きく開かれ、自由になった狛の身体は石畳に投げ出された。転げた狛の身体を抱き上げつつ、朱援は蘭角に視線を投げ掛け、 「ありがとうな、蘭角」 そう、ふわりと微笑んだ。 その瞬間、一瞬で頬を染めた蘭角は、勢いよく背中を向けてしまう。後ろで結われた赤い髪がふわりと揺れた。 「べ!別に、朱援に礼言うてもらうためにやったんちゃう!」 怒っている様な口振りで、しかし耳まで赤くしてしまった蘭角の様子を見れば照れているのは一目瞭然だ。 「…けど、…良かったなっ!」 後に続けられた言葉に、唖然としていた朱援は小さく噴き出す。喉の奥でくつくつと笑い、言葉を紡ぐ。 「ああ、ありがとう」 「…」 そんな様子を見つめ、しかし狛だけは、蘭角の朱援への気持ちを確信し、ちくりと痛んだ胸を、首を傾げて押さえるのだった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |