白鎮魂歌(完結) 滴の記 夜。 細くなった月が、弱々しい光を放ちながら黒鉛の空に浮かんでいた。何時から鳴き始めたかは既に忘れてしまったが、じいじい、と言う虫の鳴き声が木の葉の小波にのまれながら響いている。時折鳴きやんではいただろうが、耳についたその音色は、幻聴の様に途切れることなく聞こえてくるのだ。 珍しく朱援に「帰れ」と告げられなかった狛は、彼女と月を見上げながら、彼女の宿る神木に寄り掛かっていた。 さわり、と冷たくも柔らかい風が吹き、髪をさらう。 「もう、大丈夫かえ?」 「うん…」 朱援に声をかけられ、狛は小さく頷いた。 何故倒れてしまったのかは、自らの身体であっても皆目見当がつかない。ただ、そのせいで晴珠たちが帰ってしまったと聞いて、申し訳ないという気持ちだけが胸にあった。 今は狛にかけられている晴珠が羽織っていた着物を手繰り上げ、その中へ顔を埋める。 「ごめんな」 少しくぐもった声が、耳に届いた。 「狛が悔いることではないよ」 うなだれる狛に、朱援は弱く微笑んだ。あまり見ない彼女の表情の理由が分からずに見つめていると、少しおいてから朱援が小さく唇を開く。 「…この神木はな…」 「?」 突然そう切り出した朱援の瞳は、遥か向こうに浮かぶ月を見つめていた。薄明かりに照らされた顔は、いつも以上に白く、何かを悔いている様に見えた。 「ずっと、ずっと昔から…妾が生まれた時から此処に佇んでいるのだ」 朱援の言葉の意図は汲み得ないが、狛は答える様に小さく問う。 「元は小さい樹だったのか?」 「正しくは、樹よりも、芽だったがね」 「ふうん」 「妾に寄り添う生き物は、殻蟲以外ではこの神木しか無かった。会話など、した覚えは無かった」 ぽつりぽつりと紡ぐ言葉は何処か自嘲の雰囲気を纏っていて、ふとした一瞬で消えてしまいそうな朱援を引き止める様に、狛は尋ねる。 「寂しくは、…無かったのか?」 その言葉に、朱援はただ小さく頷いた。 「妾が成長するにつれて、晴珠や、蘭角、陽桜と出会った。そして、…お前の様に妾と会話してくれる童がいたのだ」 「俺みたいな奴が、まだいたのか?」 「…ああ。そいつは、とても気が荒くてな。悪戯盛りで、きかん坊で、…お前によく似ていたよ」 「……」 その時、何故かどきりと胸が脈打った。これ以上聞いてはいけない様な、彼女が何かを全て吐露してしまいそうな、そんな気がした。この一瞬で狛を不安の縁に追いやる程に、今の朱援は悲しい顔をしていたのだ。 「妾は逃げている」 自らを嘲る様な朱援の表情に、狛は眉をひそめる。くつりくつりと笑ったその顔は、あまりにも歪んでいたからだ。 「……妾は、」 そして、震える声でも無理矢理に続けようとする朱援の堅く握りすぎて白くなった手の甲に、狛は無意識の内に手を重ねた。成長途中のその手は朱援よりもまだ遥かに小さかったが、驚いた様に朱援は言葉をせき止めた。止められた言葉は喉の奥に引っ掛かってしまったのか、再び唇に形作ることが難しくなってしまう。 「朱援」 きゅうと唇を噛んだ彼女が何を話そうとしたのかは分からない。しかしそうはっきりと名前を呼べば、ぴくりと肩が震えた。 「朱援。…どうして今日に限ってこんな話をするんだよ」 「…」 「朱援?」 見つめ続ければやがて、逸したままだった視線を月から離し、朱援は溜息と共に言葉を吐く。 「お前に、話さねばならぬことが出来た」 声になって現われたそれは、あまりに疲れた様子だった。狛は無意識の内に口内に溜まった唾をのむ。 「…話さなくちゃ、ならないこと?」 「お前が倒れた理由だ」 「……理由が、あるのか?」 「ああ…」 頷く朱援に、ただ狛は静かに呼吸する。一言も聞き漏らさないよう、その小さな声を拾い上げるかの様に。 何かの決意を促されている気がした。だがしかし、周囲の草木だけは平凡なのだ。 不平等な空間でも、平静そのものの上辺だけをした朱援は重たい唇を開く。 「あれは、妾たちのせいなのだ」 「!…なん、で…?」 予期していなかった言葉に、狛はただ、訳が分からないといった様に返すしか出来なかった。認めたくないことが起これば必然的に唇は弧を描く。狛の唇に象られのも、歪んだそれだった。薄く開いた口からは、小さくくぐもった笑い声が漏れる。しかしそんな抵抗も空しく、朱援の言葉は続けられた。 「お前には話していなかったが、殻蟲は、周囲の人間の生気を食らう。妾たちはそこらの殻蟲とは違い、多大に生気を奪ってしまう。その影響を直に受けたのだよ、狛は…」 「でも!…今までっ、ずっと一緒だったけど、…」 「それは、妾一人だったからだ」 「…、っ…」 「晴珠も加わり、…蘭角や陽桜まで来たせいで、お前は倒れるまでになってしまった」 済まない。 ただそう、朱援はぽつりと懺悔する。 「妾のせいでこんな目に合わせてしまって…」 「朱援の、せいじゃ、…」 「狛」 途中の声を遮って、朱援は哀しげな瞳で狛を見つめた。薄く赤らんだ唇を歪めて、無理矢理に笑顔を作る。狛の嫌いな、母親の作るそれに似た笑顔だった。あまりに痛々しい表情に、やはりいたたまれなくなった狛は視線を逸す。なにが、彼女をそうさせるのか。問えば問う程分からないのだ。 もどかしい謎に胸は紙屑の様にぐしゃりと縮む。 「狛。妾の言うことを、しっかりと聞いておくれ」 嫌だ、とは、言えなかった。 しかし、耳は塞いでしまいたい衝動に駆られている。 そして、 「退治屋になる気はないかえ?」 刹那。 その言葉に、一瞬、狛の思考は停止する。 「…ど、…う…」 詰まった息を口から一気に吐くと、形にならない言葉が漏れた。しかしそんな狛を、朱援は見ようとしない。正しくは、見れないだけなのかも知れないが。揺れる草木だけに視線をくれて、その紅い唇をぼんやりと動かすのだ。 「退治屋になれば、少しは妾たちの障気から逃れる術も見出だせよう。お前の父上殿を殺したのも殻蟲だ。復讐も出来る」 「だけど、それなら、…」 「妾共の敵ではあるが、な」 必死に震える唇で紡いだ言葉に、自嘲気味に朱援ははっきりとそう答えた。易々とした朱援の声に、憤りのあまり詰め寄った。 「そんなことなら俺はっ…!」 「狛。妾は、…お前たちとは違うのだ」 「…!」 「やがて気がふれ、お前たち人間に危害を加えるやも知れぬ。そう言う存在だ。それに立ち向かう術もないお前は、生きていけるのか?」 「……っ」 あの時の怖気を思い出す。非力でありながら力を持つ自らを救えず、駆け付けてもらわなければ今は存在出来ていなかっただろうあの瞬間を。 着物の襟に掴みかかった手を優しく外されて、狛は歯を噛み締める。 「お前が退治屋になったとしても、お前が殻蟲を殺したとしても…。妾はお前を友だと信じているよ」 「………」 「さ。今日はもうお帰り」 その声に、狛はただ返事もせずに力無く頭を垂れた。 帰路につくと、ぽつりぽつりと雨が降り出した。先程まで綺麗に見えていた月は、陰った雲に遮られ姿を隠してしまっている。しっとりと雨水を含んだ髪は頬にへばり付き、狛を更に陰鬱な気持ちにさせた。 何度とも反芻される朱援の言葉。 冷たく突き放してしまう様な言葉では無かったのだが、狛を空虚な哀しみに追いやるには十分だった。 彼女がどんな思いでそう言ったのかは分からない。それが故に、不安で仕方ないのだ。 やがて見えてくる町外れにある一つの明かりを見つけても、その気持ちが浮上することは無かった。逆に、近付けば近付く程、かかる重力が増えた様に身体が重くなる。手に持った柿の籠ですら石を担いでいる様に感じる。 しかし、重たい気持ちとは反対に、戸だけはからからと軽い音を立てるのだ。 「お帰りなさい」 俯いたまま敷居を跨げば、奥から狛の母である茜が現われた。 「あら、…あらあらあら」 そうして、途端に目に入った濡れた狛に小さな驚きの声をあげながら駆け寄ってくる。ペタペタと、大人の女性が走るにはあまりに可愛らしい音が鳴っていた。 「狛、…濡れてるわ」 「……雨、降ってたから」 「早く上がって」 「良いよ」 「駄目。風邪をひくもの」 「………」 茜は、それほど気の強い性格では無かった。けれど無類の世話好きで、困っている相手―例えば、捨て猫や道に迷った老人などには、自分に迷惑がふりかかろうとも手を貸さずにはいられない性分だった。 それを人は過保護と言うかも知れないが、そんな些細なことを茜は気にしていない。今でも、上がることをぐずる狛に対して、その場で彼の小さな身体を自分の羽織っている着物で拭いてやっていた。 その布の感触は、お世辞にも心地良いと言える物ではない。吸水性も良くない。温かい訳でもなかった。 しかし、 「…っ…、…」 くしゃくしゃと頭をかきわけられ、久し振りに触れた母親のぬくもりに狛は息をのんだ。 母親の優しさによって解された心が、正体の分からない何かによって刺激される。ちくちくとした痛みが、胸を締め付ける。 ばさり。 床に落とされた籠が音を立てて、中の柿をばらまく。 狛の頬には、新しい一粒の滴が流れていた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |