白鎮魂歌(完結) 未の葉 この場に置いて不自然な程綺麗な木漏れ日が、木立ちの隙間から降り注ぐ。その間に立ち、日に照らされることなく佇んでいた晴珠は、小さく息を吐いて垂れた髪を撫で付けた。そしてふと、唖然とした表情のままの狛の視線に気付き、先の殺意とはかけ離れた優しい笑みを向ける。 「すみません、醜態を晒してしまって。起き上がれますか?」 そう言って手を差し延べた晴珠に、狛は金魚の様に唇を開閉する。やがてそこから、小さな音が漏れた。 「…ぅ…」 「?」 「龍、…なのか、お前?」 「………」 狛の問い掛けに黙ってしまった晴珠は、暫くして口を開いた。 「見えましたか?」 「う、うん…」 幾分か戸惑った様に頷く狛に、晴珠は一瞬思案する。ふむ、と唸り、朱援へとその金色の瞳を向けた。 「やはり狛くんには、力があるようですね。殻蟲を見ることが出来ることですら珍しいと言うのに」 「狛の父親は殻蟲の退治屋だ」 「ほお…」 間髪入れず出された回答に、晴珠は嬉しそうに笑む。青い髪が、はらりと揺れた。 「狛くんのお察しの通りですよ。私もまた、朱援と同じ様に神木に宿る殻蟲ですが、龍を形どっています」 「殻蟲は、人の形を持つのに?」 「それは、あなた方も同じですよ」 「え?」 首を傾げた狛に、諭す様に晴珠は言葉を紡ぐ。 「人間は、人と言う形を持つ。けれど、決定的な違いがあります」 「違い…?」 「心の形です」 静かに晴珠が胸へと手を伸ばす仕草を、狛は目で追った。 「外は皆、同じなんです。大切なのは中身」 「心…、ってことか?」 「或いはそう。私たちは、魂と言いますがね」 「魂…」 「魂の清らかさ、汚れ、強さ、弱さによって、私たちの『姿』は様々に変化します」 「お前が、龍みたいに?」 「ええ」 それならば、先程の殻蟲との圧倒的な力の差の理由も理解出来ると、狛は納得した。 殻蟲でありながら『形』を持たない異形のモノと、殻蟲でありながら偉大な『形』を持つモノと。やはり昔、朱援に教えてもらった通り。『形』によって殻蟲の力は変わると言うこと。 目の前に佇む龍は、しかし柔らかな雰囲気で口を開く。神とも喩えられるその存在には、まるで酷似していなかった。 「いやぁ、それにしても、運動をしたせいで小腹が空きましたね」 「ふむ」 晴珠が歳を感じさせない表情でころころ笑うと、朱援も静かに頷いた。同意を受け、晴珠は笑顔のまま狛を振り向く。と、その時、小さく腹の虫が鳴いた。 「あ、…」 その音がした途端、頬を染めて俯いた狛に誰のものかと問う者はいなかった。 「聞く必要もなかった様ですね。ふふ」 「小さな童は正直で助かる」 「う…」 晴珠には苦笑混じりに、そして朱援には溜息混じりに言われ、バツの悪くなった狛は、未だ鳴き声の収まらない腹をぎゅうと押さえた。その様子に二人は顔を見合わせ、静かに笑う。 「戒紫の爺にたかりますか?」 「あそこの爺は気に入らぬ」 「おやおや、まだそんなことを…」 「気に入らぬものは気に入らぬのだ」 くすくすと笑う晴珠に苦い顔をした朱援を見て、狛はもとから大きな目をより一層大きくする。その口からは、驚きともとれる声が漏れた。 「朱援でも、苦手なヤツがいるんだな」 「苦手ではない。気に入らぬ、だ」 「同じようなものだろ?」 「…」 狛の言葉に更に苦い顔をした朱援を見つめ、晴珠は言った。 「昔からそうですよね」 「昔から?」 そして、興味深げな狛の丸い瞳に「ええ」と頷く。 「私と朱援、爺とは長い付き合いで…ああ、そう言えばあの時に朱援は…」 「晴珠」 しかし、静かな朱援の制止の声に、晴珠ははたと口を止めた。そんな彼を見つめていたのは、咎める様な切れ長の瞳だった。 困った様に肩を竦め、晴珠は息を吐く。 「おや、余計なことを話されるのは嫌いでしたか」 「妾のことは、妾自身で語る」 「そうですか」 「ちぇ、ケチ」 「どうとでも言うが良いさ」 そうして、小さく反論の意を述べた狛を鼻であしらいながら朱援は一人踵を返した。その背に、晴珠は問う。 「何処へ?」 「帰れば何かしら供えてあるだろう。それを見に行く」 「お供え物ですか…。神木、良い樹ですからね」 「ああ」 晴珠の言葉に、朱援は小さく口角を上げた。それは普段あまり見る事のない、本当の彼女の心が現れている様で、狛は一瞬目を奪われる。まさしく、初めて会い、死について話した時と同じだと思った。 そして、ざわり、と風が枝葉を掬い音を奏でる。呆然と朱援を見つめていたはずの狛が気付いた時には既に彼女の姿は目の前には無く、ぱちりと目を瞬いた。視界の端に居るのは晴珠の背のみで、あの綺麗な白髪は無い。 と、そこで、何かを思い出したのか、狛が「あ、」と声を漏らした。 「?」 突如、着物の袖を引っ張った狛に、驚いた表情で晴珠は振り返る。すると、居心地の悪そうな狛の顔が一段下にあった。 「その、…礼は言う」 ぶっきらぼうな物言いに、一時きょとんとした晴珠は、暫くしてくすりと笑う。 「無事で良かったです」 「突然…怒ったのも、謝る」 「私は気にしていません」 「飛び出して、悪かった」 「それは朱援に言っておあげなさい」 「…ありがとう」 「どう致しまして」 そう言って、晴珠が性格が現れでもしているのか四方に跳ねた狛の癖毛を撫ぜると、狛は気恥ずかしそうに笑った。 そんな表情を見つめ一瞬金の目を細めた晴珠は、その柔らかい毛を整えながら優しく言葉を紡ぐ。 「それよりも、狛くん。私は貴方に聞きたい事があるのです」 「何だ?」 「どうして私を避けたのです?」 別段、咎める訳でも憂える訳でもない声音に、しかし狛は気まずそうに瞳を伏せた。ぎゅ、と唇を噛んで、申し訳なさそうに息を吐く。 「…、………言わないよ」 「何故?」 「言ったら、きっと怒る」 「怒りませんよ」 「嘘だ」 「嘘を吐いたことは一度もないんです」 「……本当にか?」 「ええ」 「………」 渋る狛へ、安心させる様に晴珠は優しく笑んだ。そして、狛は逡巡し、やがてその笑みに促される様に、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎだす。所在無く伸ばした足が、かさりと音を立てて落ち葉を踏み付けた。 「…一瞬、お前が恐く思えたんだ。朱援とは違って、なんだか、すごく」 「ほう…」 「それに、匂いが違った」 「匂い?」 「朱援は、人みたいな匂いがしてる。だけど、お前は、あの殻蟲とは違うけど、…俺の嗅いだことのない匂いをしてた」 「………」 狛の小さな告白に、そのまま晴珠は黙り込んでしまった。話さなくなった晴珠が怒ってしまったのではないかと狛は不安になりその横顔を見上げた時、不意に晴珠が金色の瞳を狛へ向けた。綺麗でありながら怪しく光るそれはやはり細められたままで、口元には笑みがたたえられている。 「狛くん。キミは沢山殻蟲のことを知っているようですね」 「まあ…親父が、退治屋だったから…」 「しかし、色々な事を知り過ぎていて、それ故に何を知らないのか分かっていない」 「え、…?」 ざわり、と木立ちが耳鳴りを起こす。 「危ういんですよ。そんな存在は」 晴珠の言葉に応える様に、葉が揺れた。 「うわぁぁ!」 「―――――っ!」 風に乗って伝わってきた聞き覚えのある声に、供え物を両腕に抱えていた朱援はそれらを取り落とした。脳裏を過ぎる最悪な状況に、握り飯がぐしゃりと音を立てたことにすら目もくれず走り出す。これ程までに、身体に纏った着物が鬱陶しいと思ったことはなかった。殻蟲であるが故に、普通の人間よりは丈夫で体力もあったが、焦燥に息を乱される。朱援は肩で息をしながら森を抜けた。 やがて視界が拓け、元居た場所に戻る。 「どうした、狛っ!!」 しかし、どう探しても見当たらない狛の姿に、朱援は目を疑った。狛が暴走した時には晴珠が止めると思っていたが、その晴珠の姿も無い。ただ、木の葉が風に揺られ擦れる音と、どくりどくりと脈打つ自らの血管の音しか聞こえなかった。 焦燥が募り、手にはじとりと嫌な汗をかく。もしやまた先の様なことがあったのかと考えた時、不意に頭上から何かが落ちてきた。良く見れば、小さな子どもの草履である。つられ上を見上げた朱援は、己を待ち構えていた光景に二の句を継げなくなった。 「な、…」 滝の様に流れる黒髪が、陽に照らされて枝葉の間から垣間見える。逆さにぶら下がり枝に足を引っ掛けた晴珠の手先には、はだけた着物を直そうともせずに呆然と揺れている狛の姿があった。ぶらりと、まるで首を吊った様に揺れる様は不安定で、今にも落ちてしまいそうだ。 「おまえ、たち…」 「おお、朱援。助けてくれませんか?先からどうにも戻せなくて」 「あ、馬鹿!揺らすなよっ!」 晴珠が笑い、狛が怒鳴る。 その状況に軽い頭痛を覚えた朱援は、二人に聞こえない様嘆息を吐いて、手を翳した。 「飛び降りて来い」 「はぁ?」 「飛び降りて来い。男なら出来るだろう」 「そんなこと、…」 投げやりな口調ながらも真顔で宣言する朱援に、狛は吊り下げられたままたじろいだ。人が飛び降りて易々と受け止められる程、登った木は低くない。確かに朱援は殻蟲ではあるが彼女の力を見たことはなく、余計に狛を不安にさせた。 しかし、 「あ、じゃあ投げますね」 「え、…」 軽々しくそう言って、晴珠が手放す。 「―――っうわぁああぁぁ!!」 突然自分を襲う浮遊感に、狛は情けない声をあげた。やがて、軽い衝撃を感じ、首がしなる。 「あ、…あ……ぁ…」 「情けない奴め」 「………」 堅く瞑っていた目を開ければ、そこには朱援の顔が間近にあった。呆れた様な、安心した様な、よく分からない表情だ。そして、視界の端では、笑顔のままの晴珠が静かに降り立つ。 「ふふ。楽しかったでしょう?」 「…」 呑気な彼の言葉に、疲れた様に狛は首を下ろした。 「朱援…、降ろしてくれ」 「吐くなら風下でだぞ」 「うん…」 朱援の皮肉にも肩を落としたまま素直に頷いた狛は、弱々しい足取りで去って行く。そして木々の間に狛の姿が消えるまで見送り、 「それよりも。何をしていたのかえ」 朱援はそう詰問する様に口を開いた。いつもは綺麗に整っている顔が、今は眉間に皺が寄せられ歪んでいる。そんな険しい視線を受けながらも、しかし晴珠は笑みを崩さないまま答えた。 「木に登って遊んでいたら、狛くんが足を滑らせてしまって」 「先の事もあったが、狛を危ない目には合わせたくない。配慮してくれ」 「すみません」 申し訳なさそうに肩を落とすと、晴珠は背を向けた。長い黒髪がなびき、着物の裾がはためく。 「ですが、朱援」 ぽつり、と零す晴珠の声は落ち着いていて、背を向けているこの状況では、表情すら掴めない。 「私たちは、…―――」 かさり。 葉を揺らす音がした瞬間には、晴珠は柔らかい笑顔で振り返っていた。 「…、肌寒くなってきましたね…。帰りましょうか」 少し赤ばんだ空が、晴珠の表情を隠した。 [*前へ][次へ#] [戻る] |