白鎮魂歌(完結) 龍の言 緑の中を駆ける狛は、下駄が石畳を蹴る音に混じる自分の荒い息を感じていた。しかし、逸る鼓動によって押し出される血流に、聴覚は麻痺する。朱援に稽古をしてもらえる朝の狛は、いつだってそうだった。 高揚した気分のまま雑木林を抜けると、見えてくる大きな社。その横に佇む巨木。 「朱援ー!今日も稽古、つけてくれよ!」 迎えてくれる白髪の女に手を振り――そしてその隣りに佇む黒髪の男に気付く。囲碁を打っていたのだろう、碁盤を挟んで二人は座っていた。 そんな二人に近付く度に、狛は隣りの男から目が離せなくなった。瞳は金色に怪しく光り、肩まで伸びた黒髪は生糸の様に柔らかに風に揺れる。今まで見てきた中で一番の美男子に、あんぐりと口を開けた。訳の解らない現状に答えを求める様に朱援を振り向くと、彼女は手を叩いて小さく笑う。 「ああ、そう言えば、狛にこやつの話をするのはまだだったか」 「し、…知り合い、なのか?」 潤滑油の切れた絡繰り人形の様に振り返ると、男は狛へ、やんわりとした笑みを浮かべる。 「名は、晴珠と申します。初めまして、狛くん。朱援からはよく話を聞いていたよ」 人らしからぬ様子だとは薄々感じていたが、どうやら朱援の『仲間』らしい。自分の知っているものだと言うことを理解し、更に晴珠と名乗った男の柔らかい物腰に、狛はやっと肩の力を抜いた。 「…初め、まして」 「いやはや、朱援の言うとおり、元気そうな子だ」 「妾の友だ。食らおうなぞと考えるなよ」 「分かっているよ、ふふ」 しかしまだ気恥ずかしさが残るのか、狛は、中性的な笑みを浮かべる晴珠から離れて、碁盤の脇に座っている朱援の横に隠れる様にして座った。そうして顔の見えなくなった狛に、晴珠は顔を傾ける。 「おやおや。私が恐いですか?」 「…違う」 「なら、どうして?」 「…別に」 ふてくされた様に朱援の裾を掴む狛の様子に、晴珠は小さく吹き出した。 「まるで母親を赤ん坊の弟妹に取られた子の様ですね」 「馬鹿にすんなよ!」 しかし笑みの晴珠とは対照的に、怒りを露にした狛は、いきり立って碁盤を蹴散らした。上にあった駒が地面に散らばり、小石と同化する。 あまりにも乱暴な狛のその振る舞いに、隣りにいた朱援は眉を顰めた。 「こら、狛。何と言う口のきき方だ」 「だって!」 「狛」 「良いさ、朱援。誰だって、自分とは違うモノが恐くて恐ろしい。少しずつ、警戒を解いてもらうことにしますよ」 「済まないな」 そう静かに言う晴珠に小さく苦笑した朱援は、途端に狛がひどく怒った顔をして立ち上がったことに驚いた。憤りで戦慄く拳を握り締め、狛は叫んだ。 「朱援の分からず屋!」 「狛、…!」 サッと身を翻して走り出す狛を追って立ち上がろうとした朱援を、晴珠の言葉が引き止める。 「大事な友が、出来たみたいだね」 「…ああ…」 「死す時まで、好なに」 「…………ああ」 「捜しに、行きますか」 「当たり前だ」 晴珠の言葉に同意した朱援は、頷くふりをして、その憂えた瞳を隠した。 再び来た道を坂戻り、雑木林を抜け、見慣れた家並みを無視しながら、狛は必死に走り続けた。息が切れても、四肢が悲鳴をあげても、足は止めなかった。朝の感情など一欠片もなく、ただ空しいだけだった。 「あうっ…!」 しかし、いつの間に入り込んだか解らない大きな森で、土からはみ出していた根に足を引っ掛け、倒れ込む。湿った土のせいで膝を擦りむくだけにとどまったが、周りを見渡した狛は唖然とした。 「何処だ、ここ…」 見知らぬ土地。きっと、隣りの村に来てしまったのだろう。森の中の辺りは薄暗く、不気味な鳥の鳴き声もする。狛は臆病ではないが、こればかりは何故か恐怖が沸き立って来た。 「…っ…!」 じんわりと冷えて来た尻をはたき、立ち上がろうとするも、足首をひねったらしい。激痛が狛を襲う。募る焦燥に落ち着きを無くした狛は、不意に隣りの草むらが揺れたことに、ぱっと首を振り向けた。 「しゅ、え、ん…?」 呼び掛けても、返事は無い。ただ、草むらが音を立てるだけである。 「朱援、いるんだろ?…ぉ、驚かしたら、もう遊んでやんないぞっ…?」 震える唇で強がった言葉を吐く狛は、しかし、あることに気付く。 ぞくりと肌が粟立つ感覚。 何かが、違うのだ。 腐臭、とでも言うのか、何か腐った様な匂いが鼻をつく。耳には、ぼとりぼとり、と何かが落ちる音、それにまじる不規則な呻き。 そして、『ソレ』は遂にその身体を狛の前に晒す。 『ぁ、あ、あ…童が、童が来た…』 人の形とは似ても似つかぬ、泥を組み合わせて作った様な外見。空気が抜けているのか、一部ではぶすりぶすりと黒い霧が吹き出ていた。 「な、なんだ、お前っ…」 途端に今までの腐臭が一段と強くなり、狛は鼻を覆う。競り上がって来た胃の中身を、唾を飲むことで必死に止めた。 『うま、美味そう、な…童、じゃ…』 そうしてソレが一歩踏み出す度に、爛れた肉片がぐちゃりと音を立てて地面に流れる。ぽろりと、不安定についていた目玉が落ち、跳ねた。 「ぉ、お前っ…殻蟲なのか?」 『し、し…知っておるのか…故に、甘美、か…』 溶けた腕を伸ばしてくるソレ―殻蟲に、狛は怖気を押さえられない。初めて感じる、殻蟲が与える死へ対する恐怖だった。 「や、やめっ…」 『ぁああぁぁ!若き血肉!生の糧!』 「っ―――!!」 殻蟲が大きな口を開き、狛を飲み込もうとした瞬間― 「狛くん、伏せなさい!」 「っ!」 清涼でありながら厳しい声音が響いた。 その声の通りに咄嗟に身を伏せた狛は、頭の上で小さな爆発音を聞く。微かに臭う肉が焼けた匂いに、再び胃の中のモノが蠢いた。 「その童から退きなさい」 狛と殻蟲の間に立ちはだかったのは、晴珠だった。そして、後から駆けて来た朱援が、狛の肩を抱き寄せる。 「朱援…」 「大丈夫だ、晴珠に任せろ」 短い応酬だったが、ただそれだけで狛は安心する事が出来た。ぎゅうと彼女の着物の裾を握り締め、狛は目の前で対峙する晴珠と殻蟲を見つめた。 「もう一度言おう。この童から手を退きなさい」 静かに言う晴珠の手からは、電流がほとばしっている。先の爆発音は、これが原因だった。 人型の殻蟲と、異形の殻蟲。 圧倒的な力の差に、しかし異形のモノは怯まず呻く。 『否、否、否否否!これが喰わずにいられるか!』 「下賎の者が…私を誰と知っての事か」 『貴様など知らぬ!』 異形のモノの言葉に、空気が震えた。返されるのは、轟く様な低音。 「だから貴様らは人型にはなれぬのだ…」 ばちり。 「…!」 大きく震えた大気に、狛は身震いした。殺意の光を称えた晴珠の金の瞳を見つめ、無意識に朱援の裾をきつく掴む。 「消え失せなさい」 『ぅ、お、ぁあ、ああ…!』 びしり、びしり。 雨が降ってもいないのに突然現われた稲妻が、竜の如く異形のモノを焼き尽くす。 鼻をつく、濃い臭気。 「怪我は無いですか、狛くん」 振り向けた晴珠は、相変わらず涼しげな笑みを口元にたたえていた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |