[携帯モード] [URL送信]

白鎮魂歌(完結)
負の音



 晴珠と別れてから、行く宛てもない狛はぶらりぶらりと気持ちの赴くままに足を動かしていた。体調はいつも通りと言えるまでに回復したが、一瞬で押し寄せた緊張のために感じた気怠さがまだ残っていて、何もやる気が起きない。空を優雅に飛ぶ鳥たちを見つめて、小さく溜息を吐いた。
 どうしてこうも上手くいかないのだろうか。紆余曲折してしまって、一向に目的地につかないのだ。誰かが邪魔をしている様な、或いは、自らが知らずに避けているのか。
 小刻みに振っていた枝が地面を叩く。
 と、その時だった。
 探していた人物が、目の前に現われたのだ。正しくは視界に入った、だが。目立つ赤髪をなびかせながらも誰にも見咎められることのない男は、狛の帰り道にぼんやりと佇んでいた。ぱきり、と地面を叩く小枝が折れた。
 こうまで偶然が――探していた人間がすぐに見つかる偶然が重なると、必然のかとも思えてくる。
 不意にそう思って小さく笑むと、狛は目の前の人物目掛けて小走りになった。そんな彼は狛に気付かず、何やらしきりに自分の匂いを嗅いでは首を捻っている様だ。何度も何度も自分の着物の袖に鼻を近付けて、難しい顔をして。それが原因でか周囲の音にはちっとも気付かない様で、狛は声をかけた。
「蘭角!」
「っ―――!」
 すると、それまではぼうっと何度も同じことを繰り返していた蘭角が、弾かれた様に顔を上げた。きょろきょろと辺りを探し、遠くから駆けてくる狛を見つけて首を固定する。急いで、何かを後ろ手に隠した。それに、狛は気付かないでいる。
「よお、…」
「何ぼうっとしてたんだよ」
「いや、別に、何でもないけど」
 そう狛に問われ、蘭角は困った様に笑う。その顔は、心なしか青褪めている様にも見えた。
「それより、何か用か?」
「ああ、あのさ、…」
 しかし、偶然の巡り合わせに気分が昂揚した狛は、些細な変化に気付くことが出来なかった。今度こそ言わなければ。それだけが心中を支配する。そう意気込んだ狛は、一度ぐっと喉をしめた後、真直ぐに蘭角の瞳を見つめて言った。
「俺、退治屋になるんだ」
「!」
 すると、蘭角は一瞬息をのんだ。渋っていた――むしろ嫌がっていた狛がそう決意したことが、それほど驚いたのだろうか。そして暫くしてから、見開かれていた瞳を、ふ、と伏せた後「そうか」とだけ小さく呟いた。
 そんな蘭角に、狛は彼が認めていないと思ったのか、心配そうに顔を覗き込む。
「なれると思う?」
「なるんやろ?」
「うん」
「なら、なれると思うで」
「わっ…」
 不安げに尋ね見上げてくる狛の頭を髪が乱暴に跳ねるまでくしゃりくしゃりとでて、蘭角は笑った。一人っ子であるが故に鼎と千代の様な兄弟を羨ましいと感じていた狛にとっては、蘭角こそが兄に近しい存在なのだろう。
 しかし途端に何かを思い出した様に、すぐに手を引っ込める。
「せや。…理由、聞いても良いか?」
「理由?」
「お前がそう決心した理由や。生半可な覚悟やったら、両極の生き物と関わることは出来へんで」
 きっとそれは、何よりも誰よりもその言葉の意味を体験した彼から発せられたもので。
「誰も…、人間も殻蟲も、皆が悲しまなくて良い様にしたいんだ」
 蘭角の言葉に後押しされたのが正直な所だった。
 未だ理由は分からないし聞く勇気も出ないのだが、朱援が苦しんでいる。
 見えない場所で、いつか話してくれると信じている晴珠が苦しんでいる。
 年端もいかない幼児の姿に見える何の力も持たない陽桜が苦しんでいる。
 そして、それはきっと、狛の知らない所で繰り広げられる日常の連鎖なのだ。人間にしろ、殻蟲にしろ。それを断ち切りたいと、狛は願う。
「お前みたいな人間ばっかりやったら、俺らももう少し住みやすいねやろうけどなぁ」
「きっと、そうなるよ」
「ほんまかぁ?」
 訝しげに問うて来る蘭角に、狛は苦笑するしかなかった。
「俺が、少しでも周りの人間を変えられれば、さ」
「少しでも?」
「………ちょっと、くらい」
 意地の悪い問い掛けに返答に詰まれば、ふん、と蘭角が鼻を鳴らして笑った。
「楽しみやな」
「!」
 それだけで、そう決意して良かったと思った。訪れたのは和やかな一時。それだけで、良い。
 笑う狛を横目に、蘭角は「あーあ」と呟いて頭の後ろで腕を組んだ。瞳はずっと高い空を見上げて、遠い過去を思い出している様で。
「朱援も、もっと早くにお前みたいな奴に出会っとったらなぁ」
「どうかしたのか?」
「あいつも、俺と同じ…いや、それ以上に――」
 そうやってぼんやりとした表情のまま言葉を紡いでいた蘭角が、不意に、はっとした様に口を噤んだ。
「…蘭角?」
 名前を呼ぶと、明らかに狼狽した様子で蘭角が言う。
「もしかして、聞いてへんかったか?」
「何を?」
「悪い、忘れてくれ」
「何だよ、それ」
 誤魔化されて、狛は憤慨する。ただ、蘭角に言いかけた言葉を隠されたからそこまで気に障った訳では無かった。
 朱援が狛に言っていないこと。
 朱援が狛に言おうとしたこと。
 それが未来に続く道の全てを握っていそうで、怖かったのだ。
「………」
 二人の間に気まずい空気が流れる。
 そうして降り落ちた沈黙が草木のさざめきを届けると同時に、軽やかな下駄の音が心地よい音を奏でて地面を叩いた。
 からん、ころん。
 道の向こうから、見掛けない女が一人やって来る。着物の裾が翻り、金色の長い髪がさらりと揺れる。目の前に佇んだ女の見たこともない程綺麗なその姿に、狛は息をのんだ。
「…こんにちは…」
 唇を少しだけ上げて言う女は、あまりに妖艶だ。少し吊り目の大きな瞳に、少し着崩されて大きく開いた胸元。朱援とはまた違った雰囲気の『女』を醸し出してある。くつりくつりと笑みを漏らす唇は、時折、濡れた舌を垣間見せた。
「ぁ、こ、こんにちは…」
 うろたえながらも応えた狛は、頭を下げる。ぎこちないその動きに、女は淑やかな素振りで口元を袖で隠しながら「ふ、ふ、ふ」と笑った。初めは優雅に、そして、何故だか彼女は顔を隠したままくずおれる。
「?」
 くつくつと笑いながら方を揺らす女に少し戸惑いを感じた狛は、女へと駆け寄った。
「あの、…」
 異様な空気の一線。
「――あかんっ、離れるんや、狛!!」
 びくりと身体を跳ねさせた蘭角が一喝し、狛の襟首を引っ掴んだ。ぐえと呻いた狛は意識を失いかける程まで痛みを感じたが、その途端、目の前に走る見たこともない物体に目を見開くことになる。
「っ!?」
 白く、固そうな尖った物体。
 一瞬で視界から消えたためにそれが何だったか詳しいことまでは分からないが、鋭利なそれは空気を振動させる程の速度で頭上を通過した。
 視界が暗転し口の中で土の味がしたかと思うと、短い風切り音が真上で起こる。正常な視界を取り戻した頃には、背後で大木の幹が大きな音を立てて倒れていた。伏せたまま視線をずらせば、その切り口は何かに喰われたかの様に抉らている。その様を目にして、圧倒的に巨大な力に、一瞬であの時のことを思い出した狛は背を駆け巡った戦慄に唇を噛んだ。
「殻蟲っ…?」
「ああ」
 狛の呟きに、苦々しく蘭角が頷く。その横顔は、あまり見ない険しい表情だった。
「お前、何もんや!」
 獣が吠えたかの様に朗々と響く声が原因か、はたまた、この領域に踏み入ったものが原因か。鳥たちが羽ばたき、飛んで行く。そして、無数の羽音に飲まれ、一つの姿が―――女の本来の姿が現われる。
『わガコの…カなしみ…アな、カなしや…』
 ぽつりぽつりと歌う様に女は言い、振り袖の下から現われたのは、狐の顔だった。狛は自分の目を疑う。目の前に立つのは、相も変わらず先程の女一人のみのはずだ。派手な着物を見に纏い、髪は長く美しい金色。どう見ても普通の女に見えていたものが、今は顔だけが狐へと変わってしまっている。しかし、そこに不穏分子が一つ――今気付いた、どうして気付かなかったのだろう、派手に見えた着物の柄が真っ赤な血であったことに。
「っう…!」
 それを理解した途端、狛は競り上がってきた胃液を押さえるために身を重ねた。そんな狛を一瞥して、蘭角は目の前に佇む女を見据えた。ただひたすらに正気ではない、女の弧を描いた唇を見て。しかしその顔は酷く青褪めている。思わず、掌を着物に擦り付けていた。
「稲荷の化身…。お前、人間を殺したんか」
『そコをどキなさイ。そのわコにも、せイさイをクださなケレば』
「無理やな」
 はん、と鼻で笑った蘭角に、女――稲荷は短い眉を寄せて、ことんと首を捻った。
『…オまエもカクちゅウでアるのに、なぜにんゲんのみカたを…?』
 めきり。
 音を立てて、女の腕が変形した。何かが破裂する様に一瞬で膨張し、その身体からは到底想像出来ない異形のものに、ち、と蘭角は舌打ちをする。
『どウほウだのに。オまエはクやしクなイのカ、ほコリをわすレたカ…』
「殻蟲としての誇を忘れてんのはお前や、稲荷!弱い人間をなぶり殺して、それで満足か!?」
 稲荷は笑った。
 まるで蘭角の問いを嘲る様に。
『しよウノナイこと』
「っ――あ!」
 刹那。蘭角の視界が揺れた。身体に襲い来る衝撃。稲荷との会話に構っていたばかりにとった遅れ。巨大な腕に弾かれ、蘭角は破損した大木の上に落ちた。逆立った木片が刺さり、蘭角は身を捩る。
「う"あ!」
「蘭角!?」
「っ…晴珠に聞いた通り、最近はこんなんばっかなんか…?はっ、…」
 駆け寄った狛に、それでも蘭角は強気に笑ってみせた。肩口からは血が流れ、着物をくすんだ朱に染める。そんな様子に、狛はきっと稲荷を睨み付けた。
 これが、始めの試練なのだろうか。
「なんでっ。なんで人間を喰らうんだよ!…人間を襲わなきゃ、お前たち殻蟲だって人間は、――」
『イナ。ニんげんは、むじょウけんでわたしたちを、クちクすル』
「っ…!?」
『わガコガ、コロさレてだまってイライでカ。アな、カなしや…』
「な、…」
 わガコ。
 我が、子。
「そん、な…」
 目の前が、真っ白になる。
 これが、始めの試練なのだろうか。
 これまでに、哀しく虚しい現実が。
「阿呆っ…!!」
 呆然と立ち尽くしていた狛の肩に鋭い痛みが走った頃には、何処か遠い所で蘭角の声が響いていた。




[*前へ][次へ#]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!