白鎮魂歌(完結) 迫る牙 雀が三羽、賑やかな声を上げて空に輪を描く。それを眺めれば嫌でも目に入る高く昇った太陽は、地に立つ生き物の影を最小限に短くした。 目の前では、子どもたちが鞠を蹴って遊んでいる。懐かしい光景だ。確か狛も、ああやって遊んでいたのではないだろうか。鞠が飛ぶ。それを追いかけるために輪から外れた影が一つ。それは、そう遠くない昔。そこから狛にとっての全てが始まった。 「…」 後悔はしていないかと問われれば、胸を張れる確信がない。しかし、今はとても爽やかな気分だ。 隣りに腰掛ける鼎にも、目の前で鞠を追いかける千代や子どもたちにも、何の負い目も感じない。尻に感じる冷たい石畳の感触も、嫌とは思わなかった。 人間と親しむことに抵抗を感じていたのは、殻蟲と共に居たからかも知れないと今になって考える。人間でありながら、人間を傷付ける殻蟲と親しむ。それは規範を破る行為で、後ろめたさを感じていたのかも知れない。どちから取らねばならぬ状況で、どちらとも決めあぐねていた状況。 それが『どっちつかず』であり『どちらとも』である状況に変わり、――否、そう思える様に自分が変わり、気持ちが大分と楽になった。 「最近、良く広場に来る様になったよな」 「そうか?」 「そうさ」 千代の姿を追いながら話しかけてきた鼎に、狛は首を捻る。そんな無言の問い掛けに、鼎は言った。その瞳もまた、目の前で遊ぶ子どもたちへ向けられている。 「いつもなら、村の外れにある社に行ってるだろ?何かあるのか?」 「うーん。ちょっと、さ」 「何だよ、はっきりしないなぁ」 「いつか教えるよ」 「本当か?」 「うん」 これは唯の誤魔化しではない。いつか本当に、人間と殻蟲が共存出来る様になれば叶うことだ。それは今ではない。そして、短期間で大々的に変える必要はない。少しずつ、周りから変えて行けば良いことなのだ。自らが退治屋として成長出来た時、連れて行ってやれれば良いと思った。茜とはまた違った、自らの育ての親に。 沈黙が降り落ち、狛は少し咳払いをした。 「それより、最近村で変わったことがないか?」 「変わったこと…?」 それに注意を引き寄せられた鼎が、ちらと狛を振り向く。 「何でも良いんだ。誰かが、変な怪我したりとか」 「それは、…特に聞かないけど…」 「親父さんも元気なんだな?」 「ああ。もう煩いくらいに元気だよ」 「そうか。…良かった…」 「変な奴だな」 ほっと胸を撫で下ろす狛に、鼎は小さく苦笑した。確かに、今の鼎では何故狛がこの様なことを尋ねてくるのかは分からないだろう。だが、無理に理由を問うてはこない。立ち入ってはいけない所に気付くことが出来る。そこが、鼎の良い所だと狛は思った。 尻に付いた砂を払い、狛は石段から腰を上げ鼎を振り返る。 「じゃあ、俺、そろそろ行くよ」 「そうか。じゃあな」 「うん」 そうして、鼎に見送られ狛は別れた。ざりざりと草履が砂を噛む音が少しずつ遠のいて行く。やがて小さくなった狛の背を見つめ、鼎は俯いた。視界に映るのはいくつもの砂の粒だ。そこに影が落ち、黒く染め上げる。じりと足元の砂をにじってみれば、心のこもらない音が耳に届いた。 「大人たちはあそこには怪がいるって言って近寄らないけど…」 再び狛の背を追いかけたが、目の前には何処にも見当たらない。 その時、背後で悲鳴が聞こえた。 夢は、現へと覚め行くもの。 永久の喜びなど存在しない。 親しみは憎しみへと変貌し。 愛は殺意へ変わって行った。 鼎と別れてからすぐに狛が足を向けたのは、やはりいつもの社だった。家に帰ろうかとも悩んだが、今の茜は少し不安定だ。彼女自身も何処かで何かと訣別しなければならないこともあるだろう。彼女が変わることを遠くから願い、見つめているしか出来ない。それまで暫く、家を空けるだけのこと。つい最近までと何ら変わらない生活だ。 それに、まだこの決意を話していない人物がいた。その人に話しておかなければいけないと、なんとなくそう思った。狛が知っている誰より乱暴で、本当は弱い人に。 やがて、草履の裏が社の石畳を踏んだ。固い感触が足に伝わる。通い慣れた雑木林を抜け立ち止まれば、途端に動きを失った頭から木の葉がひらりと地面に落ちた。世話をする人のなくなった、枯れ果てた社。しかしそこは、仮に住む生き物によって、その神聖な空気を保ったままであった。 そして横に佇む神木の下には、晴珠の姿。 「おや、狛くん。どうかしましたか?」 息を切らして駆けて来た狛へ、晴珠はいつもの様にゆっくりとした素振りで振り返る。周りには誰一人いない様で、少し違和感を感じる。この神木に宿っている彼女すら留守なのは本当に珍しい。 「蘭角、何処か知らないか?」 「蘭角、ですか…。今朝からずっと見ていませんが…」 「そうか」 「何か、用事でも?大事なことなら、私から伝えておきますが」 「いや、特に大事って訳じゃないんだけど…」 確かに急ぐ訳ではなかったが、何処か拍子抜けした部分もあった。今までの勢いをなくした狛は、手持ち無沙汰に次の会話を探す。 「朱援は?」 「少し用が出来たらしいので、空けているみたいです」 「そっか…。用事じゃあ、仕方ないよな」 どうも今日は日が悪いらしい。 用が何かと問えば、不躾だと怒られるだろうか。そう思うと、それ以上は何も言葉を紡げなくなる。 明らかに落ち込んだ様子で踵を返した狛に、晴珠は神木に凭れたままで声をかけた。 「手合わせ、します?」 手を軽く振り、誘いの格好をするが、しかし狛は首を振る。 「いや、今日は止めとくよ」 「…そうですか?」 「ああ」 背を向けたまま、うなだれた様子で頷く狛に、晴珠は軽く口を噤んだ。 と、その時だった。 「っ…」 「!」 突然、狛の足取りがおぼつかなくなり、膝からくずおれた。それほど離れていない距離。ほんの反射ですぐさま駆け寄った晴珠は、狛の上半身が地面に付く前に抱き留める。 「大丈夫ですか!?」 「ぁ、ああ。大丈夫、…」 しかし、そう答える狛の顔は蒼白だ。浮き出た脂汗が、かかった髪を額に貼り付ける。 「日頃の無茶が祟ったのでしょうか…」 「はっ、…かも、知れないな」 晴珠の言葉にそう答えながらも、本当のところは、狛には自覚があった。今朝、鼎と話していた時は何ともなかった筈だ。そこに、今になっての突然の眩暈。吐き気。突然に起こる、いつもの通りの症状。 蘭角は言っていた。 皆、気付いていると。 晴珠も、気付いていない訳ではないのだろう。 「無理、しないで下さいね」 「ああ…」 俯いた狛の額に浮かぶ汗の滴を自らの着物の裾で拭いながら、晴珠はその背中を優しく擦った。浅く短い息を繰り返す狛の様子は、一言で疲労と言ってしまうには異常過ぎる。そして、これが何度目かのことであることを晴珠は認識している。しかしこうやって狛が隠し通そうとするならば、乗ってやるしかないのだ。 「大分、ましになってきましたね…」 やがて落ち着いた呼吸を取り戻し、顔色も平常に戻り出した狛の様子を見て、晴珠は一息吐いた。その表情は心底安堵した様で、狛は未だきちんと言葉が紡げないながらも弱々しく笑みを返す。視界も白んだ風景から、いつもの彩り鮮やかな景色に戻った。 そして耳に届いた小さな足音に、晴珠は狛を支えていた両手を優しく解いた。 「陽桜が来たみたいですね…」 「…」 「今日の所は、家へ帰って休みなさい」 「そう、するよ」 人々が抜け入って来る雑木林とは逆の森から駆けて来る小さな影を見つめて、狛は晴珠の肩を借りてゆっくりと立ち上がる。少し辛そうではあったが、歩けない程ではなかった。何より、こんなに弱った姿を見せて、陽桜に心配をかけさせたくなかったのだ。誰より純粋な、陽桜に。喩え、この状態の原因を知られていたのだとしても。 一歩踏み出し、狛は小さく声をあげた。 「蘭角に、さ」 「?」 「退治屋になるって、言おうとしてたんだ」 「なら、残念でしたね。…彼が不在で」 「うん。だから、…陽桜には晴珠から、宜しく頼むよ」 「ええ。頼まれておきます」 「ありがとう」 「いえ」 互いに小さく会釈し、二人は別れた。狛はゆっくりとした足取りで去り、晴珠は近付く陽桜を迎える。 そして息を切らすことなく駆け寄って来た陽桜は、雑木林の中に隠れた狛の姿を追いながら、晴珠に尋ねた。 「こま、かえるの?」 「体調が優れない様でしたので、帰しました」 「ようかたちのせい?」 「本人は黙っていますが…、そうかも知れませんね」 「ほんとうに?」 「…」 不意に、陽桜の瞳が晴珠に向けられた。長い年月が過ぎていくつもの感情を忘れた瞳には、疑惑の色が浮かんでいる。緑と金の瞳が交錯する。それは果てしなく静かなやり取りで、それでいて入り込む余地などない雰囲気を持っていた。 「ほんとうのこと、いって、せいじゅ」 小さな唇が動いて発せられた言葉に、晴珠な小首をかしげた。その口元には、いつもの笑み。 「何を、言ってるんですか、陽―――」 「ようか、せいじゅがなにをかんがえてるかわかるよ?」 「……」 陽桜の真っ直ぐな瞳に、その言葉に、晴珠は唇を引き結んだ。静かな沈黙が降り落ち、耳に届くのは風の音だけ。雑木林に一度視線を向けようとも、再び陽桜に視線を返せば、彼女が微動だにした形跡はなかった。明らかな確信。 晴珠は、「ああ」と小さく息を漏らした。それは何処か投げやりで、何処か諦めた様子で。 「そう、でしたね。陽桜…きみは、人の心が読めた」 「ううん。ぜんぶは、ようかでもだめ」 「…」 「ようかがわかるのは…」 ざわり。 風が、さざめく。 [*前へ][次へ#] [戻る] |