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白鎮魂歌(完結)
滲む影



 頭上を、風が斬る。
 先程まで、他愛もない会話をしていたはずなのに。腕に何かが掠り、巻いていた布が落ちた。
「ぅあっ…!」
 肩に衝撃が走り、視界が揺れる。漏れた呼気は、わずかな悲鳴となって霧散した。
 情報整理の追い付かない頭で懸命に思考する。
 どうなっているんだ、この状況は。
 頭が警鐘を鳴らしているかの様にぐわんぐわんと音を立てる。痛い。激しい痛みだ。再び、背中に重い衝撃が加わる。視界が反転した。背後で風切り音。首を竦めると、頭上で風が唸った。前方で何かが軋む音がする。
「っ…」
 たたらを踏んで転ぶのを防いだ狛は、目の前で倒れる樹木を見つめて息をのんだ。太かった筈の幹は無残にも粉々になり、何の抵抗もなく木の葉は地面を舐めている。有無を言わせない『何か』の驚異的な力強さに、背を悪寒が駈け登った。
「駄目、だっ…」
 震える足は、背後から迫り来る人外の生物に明らかに嫌悪感を表している。今にも逃げ出しそうな足が、草履と共に砂を噛んだ。
「逃げてるだけじゃあっ…」
 しかし、意思だけは襲い来る異形のものへと真っ向から対抗していた。本当は、全身はとっくに逃げる様に機能している。それを押し止どめているのは狛の心だ。
 恐れているだけでは何も変わらない。
 覚悟をしたはずなのだ。
 そう思い、汗ばんだ手をきつく握り締める。
『ぐ、ぅ、…ぐひっ…』
 目の前では、狼とも人とも付かない影が開いた口から声にならない音を漏らしている。この異形のもの――殻蟲は、振り返った狛を見て舌なめずりをした。肌を駆けるのは言い様もない嫌悪感だ。
 つい先程までは、楽しく平凡な日々を真っ当していた筈だったのだ。朱援と碁を打ち、陽桜と蘭角と共に遊び、晴珠と他愛もない話をして。別れて、少し歩いて。いつの間にか、こうなっていた。狛の周りにいる殻蟲の力は強い。そんな者たちから離れれば、守る殻を無くした狛はただの被捕食者でしかない。今まで度々この様なことはあったために、あまり驚くことはなかった。冷静にとまではいかないが、ただ一人でもなんとか今、こうやって逃げていられるのだ。そして、慣れるだけではいけない。対処出来る様に、力を付けなければいけないのだ。
「!」
 殻蟲の爪が眼球目掛けて突き付けられ、狛は急いで身を捻る。
「駄目だっ…」
 力が必要。
 否、それを駆使する度胸も必要なのだ。
 軋んだ背骨を鞭打ち、狛は咆哮した。
「ああ"あっ!!!」
 振り抜いた腕が弧を描いて殻蟲へと向かう。あれから何度も晴珠の手解きを受けて、随分と成長したつもりだった。後はそれに立ち向かう度胸だけが、狛には必要であるだけだ。
 しかし――
『げひゃっ!』
「いっ…」
 驚異的な脚力で飛び上がった殻蟲は、狛の手刀を軽々と躱したのだ。
「っ―――!」
 飛び掛かる黒い影。
 眼前に広がる広い口。
 ぬめついた粘液。
 黄ばんだ白が、ねっとりと嫌な笑みを浮かべて光る。
 もう駄目だと目を瞑った途端、しかし、狛の身体から重力が消えた。遅れて聞こえるのは稲妻の空気を裂く音。鼻に、何かが焼け焦げる臭気が届いた。
「っ、晴珠…!」
 雷撃が飛来した方向を見れば、そこには悠然と構える晴珠の姿が一つあった。冷たさを感じる程の凛とした瞳に、狛はごくりと唾をのむ。
 そして耳に届くのは、訪れた静寂を再び騒乱へと導く足音だ。
「まだいる!」
「っ!」
 狛の鋭い声に、目にも止まらぬ速さで晴珠は背後から跳躍した影へと掌底を打ち込む。そしてやはり、不思議な力で発生した青い輝きが、影を跡形もなく消し去ってしまった。
「…時には手を引くことも、確実な勝利への道ですよ」
「う…」
 手を払い振り向いた晴珠にそう言われ、狛は無謀にも死にに行こうとしていた己を恥じた。冷たい言い方なのは、そう聞こえてしまう程、晴珠が冷静だからだ。それは、ここ最近で色々と理解してきた。しかしいつまで経っても慣れないこともある。
「闘ってる時は別人みたいだな…」
 金色の瞳で見つめられて一瞬で逆立った産毛を撫で付け、狛は言う。刺す様な殺気には、どうしても慣れないのである。
「…笑顔でいることで、優しくあろうとしているので」
 その言葉に、晴珠は小さく笑うだけで応えた。
 ふ、と疲れた様に笑む唇に、狛は近頃の晴珠の様子を思い出す。
「お前、難しい顔ばっかだぞ」
 手合わせの最中に怖い表情であるのはいつものことだが、時折、そうでない時にも、晴珠は何か考え込んでいる。眉をしっかりと寄せて、唇を真一文字に結び。
「そう、ですね…」
「ん?」
 少し考え込む様にして切り出した晴珠に、狛は静かに続きを促した。
「狛くんには、教えておかなければいけないことかも知れません」
「え?」
「最近、低級の殻蟲たちの混乱が増えている様なのです」
「混乱?」
「我を忘れて、本来は手を出さない筈の人を襲ったりなどですよ」
「なっ…!普通の人が、襲われてるってことか!?」
「ええ。退治屋を呼ばないと殻蟲関係のことは分かりませんが、私の知り合いがそう言っているんです。…間違いありません」
「そんなっ…」
 伝えられた真実に、狛はあまりの動揺に視線を彷徨わせた。
 通常、殻蟲は力のある人間にしか危害を加えない。ただ、それは力の無い人間には手出し出来ない訳ではなく、食べても意味がないからだ。殻蟲は力を欲し、それに対応する人間を求める。だからこそ、一般の人間を襲うということはあまりにも珍しいことなのだ。
「でも、どうして、そんなことが…?」
「分かりません。ただ、何か手がかかっている可能性は十分にあるかと」
「どういうことだよ」
「誰かが故意に惑わせている、…ということですよ。何の目的かは、分かりませんがね」
 晴珠の言葉に、狛は黙っているしか出来なかった。
「続き、やりますか?」
 それは、日々の鍛練を誘う言葉。
 今の話が本当であるならば、一刻も早くに太刀打ち出来る力が欲しい。
「…うん。俺、まだまだだもんな」
 そうして狛が頷くと同時に、晴珠が力強く土を蹴った。しかし、晴珠の拳が青く瞬いた瞬間、木々のざわめきが一際大きくなり、その間に女が現われたのだ。
「妾に隠れてこそこそと、何をやっているのかと思えばそんなことを…」
「朱援!」
 現われたのは、社に居るはずの朱援だった。
「どういうことだ」
「こ、これはっ…」
 白髪の間から見える赤い瞳は険しく顰められている。低く唸る様な声にたじろいだ狛は、ごくりと唾をのんだ。
 しかし、怒りを露にした朱援が詰め寄ったのは、狛に飛び掛かろうとしていた晴珠だった。
「どういうことだ、晴珠…!」
「っ…」
 着物の襟元を捕まれ、長髪が揺れる。く、と喉が鳴り、晴珠は言葉を紡いだ。
「狛くんに稽古を付けようとしていただけです」
「何故止めなかった」
「狛くんが望んだからですよ」
「狛が、だと…?」
 朱援の瞳が、狛を振り返る。
「本当なのか?」
「…、ああ」
 あまりにも必死な表情に気圧されながらも、狛は頷いた。しかしそんな狛の態度に、朱援は不満を露にする。
「妾に頼れば良いだろう」
「それじゃいけないんだよ…」
「何…?」
 頼まなかったのは、朱援が弱いと思っていたからではない。
 隠していたのは、朱援が怒るからではない。
「朱援じゃあ、本気では闘ってくれないだろ?」
「それは、…」
「それじゃあ、駄目なんだ」
「何故だ…!」
「殺しに来る相手に、太刀打ちが出来なくなる」
「!」
 今まで、小さな頃から大事に育てられてきたことは肌で感じていた。だからこそ、彼女は狛を無感情に傷付けることは出来ない。必ず、何処かで情が出て来る。心配をして、労り、手を止めて、これ以上は無茶だと休む。それだけでは、強くなれないと思ったからだ。
「退治屋に、なるのか?」
「…うん」
「妾から切り出したこともあるが…、やはり、…苦しくはあるな」
「でも、殺したりはしないよ」
「…?」
「俺は、殻蟲を退治する目的で退治屋になるんじゃないんだから」
「何…?」
 眉を顰めた朱援に、晴珠が助け船を出した。
「救うんですって、私たち殻蟲を」
「…っ、無謀だ…」
「同じ様なことを、頼まれた晩に言いました」
「…」
 晴珠の言葉に、朱援は緩く唇を噛む。普段澄ましている彼女が感情を表すということは、本当に狛のことを気にしているせいだ。
「難しいことだぞ、殻蟲と人間の共存は」
「俺は、…出来ると思う。今の俺みたいに」
「殻蟲に、野たれ死ねと言うのか」
「違う」
「人間に、食われてしまえと言うのか」
「違う」
「他人の領地を奪い合い殺し合うのが自然の生き物の摂理だ。変わることなど、ない」
「それでも、それで傷付いた生き物を、救ってやることが出来るだろう?」
「…!」
 風がさざめいた。
 今まで険しかった朱援の表情は、一瞬悲しそうに、そして寂しそうな笑みに変わる。
「…お前は、優しいな」
「そんなこと、ないよ…」
 形容しがたい笑みを浮かべる狛の背に、朱援は優しく手をあて押し出した。
「さ、母上の所へお帰り」
「うん」
 頷いた狛は、その小さな身体を押す力に逆らわずに歩き出す。振り向きはしなかった。
「やはり、あの人の子なのだな」
 その背を見つめて、朱援は溜息を吐いた。その瞳は狛の背を見つめているが、その姿を見てはいなかった。何処か遠い場所を見つめ、思いを馳せている様で。
 隣りに、晴珠が並ぶ。
「言わなくても、良かったんですか?」
「…ああ」
 頷くのと同時に、白髪が風にさらわれてなびいた。赤い瞳が伏せられる。俯く朱援に、晴珠はいつもと変わらない涼しい態度で踵を返した。
「隠したままでは、知れた時にどうなることでしょうね」
「死ぬならば、せめて、あやつの怒りを受けて死にたいのだよ…」
「…」
 俯く朱援の背を、晴珠は厳しい表情で見つめていた。




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