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白鎮魂歌(完結)
伝う意



 狛が目覚めた頃には、何故か布団の中で横たわっていた。
 見慣れた天井の板の目に、嗅ぎ慣れた炊事の匂い。身体にかかる重力は心地よい暖かみを纏っていて、耳に届く音はあまりにも平凡だ。
 穏やかな日常を肌で感じる。
 ぼんやりとした意識は、やがて完ぺきな覚醒へと導かれる。
「―――っ!」
 途端、狛は急いで身を起こした。
 急いで辺りを見回してみても、やはりここは住み慣れた自分の家だ。夜、行灯だけが唯一の灯である仄暗い中で良く見慣れた天井の木の目がある。今は明るくはっきりと見て取れいつもと印象は違うが、見紛う筈がない。狛に割り当てられた寝室だ。
 どうにも、どうして自分の布団で眠っていたのかわからない。晴珠に、稽古を付けてもらっていた筈だ。途中で意識が朦朧としていたのは分かるが、そのまま倒れてしまったのであるならば、外で倒れているはずだ。晴珠が放っておなかなったのならば、または社に。
 狛の顔に浮かぶのは明らかな狼狽だ。
 昨日の出来事は全て夢だったのか。
 そうであるならば、全てを否定された気がした。自らの覚悟も、それだけのものだったのかと。
「…っ、…」
 しかし、途端に身体中に走った激痛に確信を得るのは簡単だった。
 昨日のままである着物は土や赤茶けた血がついていて、布団の中まで汚している。袖をめくってみればそこには、沢山の裂傷や痣が見られた。酷い部分には布が巻いてあり、生々しいその跡は昨夜のことをありありと思い出させる。
「……」
 無意識にも、僅かに安堵の溜息が漏れた。
 そこでふつりと、疑問が浮かぶ。
 ならば、どうして家に帰り自分の布団で眠っていたのか。どうして、怪我をしている箇所に、手当てが施されているのか。記憶などない。日は高く、随分と時間は経っているのだろう。どれくらい気を失っていたのか。
 晴珠か、茜か、はたまた朱援か。
 そう思った時、襖が開かれた。
「母さん…!」
 そこから現われたのは、盆を手にした茜だった。
「あら、起きたの?」
 静かに足音を立てながら近付いてきた茜は、狛のいる布団の脇に座る。横に置いた盆には湯気の立つ粥があり、ほのかに良い香りを漂わせていた。
 現状理解についていけない狛でも、腹が鳴った瞬間、今が昼時であったことに漸く気付く。
「あ…」
 夢ではなかった確信に安堵したこともあってか呑気にもぐうと鳴った腹に、気恥ずかしさを隠し切れずに狛は俯いた。
「ほら」
 椀を手にした茜が熱い粥を掬えば、新しく見えた表面から湯気が増える。そのまま口元にまで運ばれて、口に含んだ途端、ほう、と小さく溜息が出た。
 久し振りの、落ち着いた時間だ。
「俺、どうして…」
 粥を飲み込んでからそう呟いた狛に、茜は次の粥を与えながら答えた。
「表に、傷だらけで倒れてたのよ」
「一人で?」
「ええ」
「……」
 それならばきっと、そうしたのは晴珠の判断でだろう。
 殻蟲は普通の人の目には映らない。茜も、その見えない人の類に入るはずだ。父が死んだのは狛が幼い頃の話だが、退治屋であった彼と狛は殻蟲について何度か話したことがあった。しかしそんな父が生きていた時すらも、彼女とは一度も殻蟲の話をしたことがない。そして茜自身も、殻蟲など『幻』の様なものだと言って信じていなかったのだ。
 それに、いくら茜が見ることが出来たと言っても、そう易々と傷だらけの息子を母親に見せる訳にはいかないだろう。殻蟲でなくとも村から追い出されるに決まっている。
 だからこそ、納得の出来る晴珠の行動に狛は嫌な気は起きなかった。
「元気になった途端に、こんな怪我をして帰ってきて…。何処に行ってたの」
「…ちょっと、さ」
 簡単には話すことの出来ない事情に、狛は誤魔化す様に言葉を紡ぐ。そんな狛の返答に、会話からの手持ち無沙汰に粥を混ぜていた茜は、あからさまに不機嫌そうな顔をした。
「どれだけ心配かけたと思ってるの!」
「!!」
 そして珍しく茜が声を荒げたと思った瞬間、視界が揺れた。右頬に衝撃。暫く理解出来ずにぼんやりとしていると、じわりと熱い痛みを感じる。
 平手で、叩かれたのだ。
「ぁ、…」
 目の前で眉を吊り上げている茜の目尻には、ほんの少しだが涙が浮かんでいる。
「手当てをしている間も全然目を覚まさないし、息をしているかなんて分からないくらい、弱っていて…っ。それなのに、ちょっとって、…何処が、ちょっとの怪我なのっ…!?」
「…ごめん、母さん…」
 震えた声で怒鳴る茜は、それでいて悲しげに眉を寄せていて。二度とこんな茜の表情を見ることは嫌だと思っていた筈であったのに、自らがそうさせてしまったことに狛はひどく後悔した。
 しかし、俯く狛の小さな身体を、母は涙を流しながら優しく包むのだ。
「お帰りなさいっ…」
「!」
 父が死んでしまった時にも、彼女はこれだけ泣いたのだろうか。否、狛は怪我のみだ。父の時など、今の比ではないのだろう。何が起きたか分からない、自分の知らない場所で起きていた惨事。自らを抱き締める茜の力強さに、狛は胸が痛む。
「っ…、ごめんなさい……」
「馬鹿っ…」
「…ただいま、母さん」
 しっかりと抱き返せば茜の柔らかな匂いが鼻孔一杯に広がり、狛は申し訳ないと思う一方、安らぎも感じた。
 きつくも優しい腕に、狛は瞼を閉じる。温かい。そう思った途端、緊張の抜けた身体は重力を増したかの様に重くなり、まどろむ意識は再び深い眠りに落ちた。


 夕方になれば随分と疲労も薄れた。
 今では、囲炉裏の前で狛は胡座をかいている。ぱちぱちと湿気を含んだ薪がはぜる音に紛れて、茜が夕飯の支度をしているのが聞こえてきた。
「今日のご飯は大盛りよ。沢山栄養を付けてもらわないとねっ」
 向こうから聞こえた声は、いつもより明るいものだった。包丁がまな板を叩き、ざくざくと刻まれた白菜が量を増やしていく。何度も心配そうに狛を見ながら話す茜の背を見つめ、それが空元気からくるものだと気付いていた狛は小さく息を吐いた。
 どうしたものか、と。
 茜は、退治屋と言う存在をあまり良くは思っていない。何より、自分が認知出来ないものを信じろと言う方に無理があるのだ。父が時折ふらりと仕事で出掛けている時も、幼い狛によく「何処かで遊んでいるのよ」と言っていた。そして何より、狛の父は退治屋であったからこそ亡くなったのだ。
 そんな彼女に、どう切り出せば良いのか。狛自身が何を考え、何を決意したのか。
「母さん」
「なあに?」
「……」
「どうしたの?」
 やって来た茜によって、鍋釜が囲炉裏にかけられた。一際高い音を立てて、火の粉が飛ぶ。話しかけたものの、何と切り出して良いか分からない。無言のまま茜に視線を向けると、茜はにこりと笑った。
「母さん」
 鍋の具が、ぐつりと揺れる。
「俺、退治屋になる」
 狛の声に、空気が震えた。
 茜が息をのんだ。
 ふるりと空気が鳴り、震えた呼気に混ざり言葉が発せられる。
「何を、言い出すのかと思えば、そんなこと…」
「なりたいんだ」
「だめ…。駄目よ、狛。そんな訳の分からないこと」
「俺も人になれって言われた時、どうしてって、思ったよ」
「なら、ならなくても」
「でも、それじゃあ駄目なんだよ」
「…」
「出来る俺がしなくちゃ、出来ない誰かには本当に出来ない」
「狛がしなくちゃいけない必要なんてないわ」
 火に照らされ赤くなった茜の表情は、狛が真剣に言葉を紡ぐ度に険しくなっていく。しかし、狛は負けずに首を振った。
「駄目なんだ、それじゃあ」
「え…?」
「俺に出来ることがあって、他人に出来ることがあって。それは二人共出来ることかも知れないけれど、片方だけしか出来ないことかも知れない」
「……」
「それなら、俺もやらなくちゃいけないだろう?」
 狛の言葉に、茜は軽く唇を噛んで俯く。
「でも、でもっ…狛まで、あの人と同じ様に、…」
「俺は大丈夫」
「どうしてそんなことが言えるのっ…」
「俺には友だちがいる」
 その時だった。
 不自然に、茜の動きが止まった。
 その表情は青褪めていて、噛んで少し赤くなった唇がわななきだす。
「どういう、こと…?」
「え?」
「友だちって、誰…?」
「かあ、さん?」
 突然変わった茜の態度に、狛は戸惑いを隠せなかった。問詰める様な、問質す様な声。
 鍋の中身を掬っていた筈の椀を片隅に寄せて、茜は狛に向き直る。
「友だちは、鼎くん?それとも、何処かの誰か?」
「何、」
「貴方に退治屋になれって言ったのは?」
「何で、そんなこと…」
 必死な問い掛けに、狛自身隠し事があるために素直には答えられなかった。目を逸す狛に、茜は一瞬はっとした様な顔をして、眼下で揺れる炎に視線を落とした。上げていた腰を下ろし、息を吐く。
「…あの人も、友人がいるからって。そう言って死んでいったのよ…」
「…!」
 茜の声に、狛は返事を紡げなかった。
 黙り込む狛に、茜も口を閉じたまま椀を手に取った。具を取り分け、狛に手渡す。そのまま、二人は静かにそれを口に運ぶ。何の会話も進まない食卓は、折角の温かい料理をあまりにも簡素で味気無くさせた。何度噛み砕いても、なかなか喉を通らない。切り出す時を間違えたかと、何度も何度も後悔する。
「母さん、先にお風呂に入るから…」
「うん」
 茜の背中を見て、それでも前言を撤回する訳にはいかないのだと、狛は固く拳を握り締めた。




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