白鎮魂歌(完結) 乞う夜 木々のざわめきを聞きながら、狛は穏やかな気持ちで空を見ていた。蝙蝠も、夜行鳥も鳴かない静かな夜だ。もしくは、そんな時間帯であるだけなのかも知れないが。 蘭角と話をしてから幾らか経っていて、狛が茜に黙って家を抜け出した頃とは正反対の場所に月が輝いている。ただ、昼間に随分と寝たせいか、少しも眠気は感じなかった。 別れてから少し歩いていた狛は、知り合いの家を何軒も回った。遠巻きに眺めていただけだったが、つい先程聞いた蘭角の話を思い出しては、身が裂かれる思いだった。 自らが死んでしまうだけならば、少なくとも狛自身の心は傷付かない。しかし、もし気の振れた殻蟲が、殻蟲を視認出来ない一般人を襲ったならば――狛の知り合いを襲ったのならば。きっと、悲しみで潰されてしまうだろう。父だけでなく茜さえもいなくなってしまうなど、到底受け入れられる話ではなかったのだ。 いくら人といる時間が物足りなくとも、狛にとっての大事なものは、変わらない。 未だ家に帰って休まないのは、眠気が関係しているだけではなかった。 そよりと揺れた風は、そんな狛の心境を察してか何処か優しい。 きっと、この時間ならば朱援は眠ってしまっているだろう。晴珠も、陽桜も。 彼らがいつも何処で身体を休めているのか、狛は知らない。狛が起きている時間帯は、彼らはいつも、起きているのだ。 しかし、そんな状況で目的の人物に会えたのは、狛を、何かが導いているからかも知れない。 ある通りを抜けた時に、狛は目的の人物と出会った。 「どうしたんです。こんな夜中にふらついて」 目の前に佇む男の髪は、月光を受けて淡く蒼く輝いて見える。そんな凛とした姿に、狛は余計にその考えを強くした。 風は、静かに二人の間を通り抜ける。 狛は、口を開いた。 「晴珠を、探してたんだ」 「私を、…?」 「戦い方を、教えて欲しいんだ」 そうすれば、目の前の男―――晴珠は一瞬驚きに目を見開いて、次の瞬間には平然とした顔で小さく小首を捻った。 「…どうしてです」 月に照らされて明らかになった表情は、理解出来ないといった風を見せている。しかし、そんなことは狛にとっては少しも気にする要素ではなかった。 「俺も、誰かを守れる様になりたい」 「自身の身体ひとつまともに守れない貴方がなにを言うんです」 返されるのは、明らかに呆れた声。 それに食い下がる狛の決意は、そんなことで折れてしまう程軟いものではない。 「そうだよ。でも、誰かを傷つける殻蟲をみすみす放っておく訳にはいかないだろ」 「正義、とでも言い張るつもりですか?」 「そんな大層なものじゃない。でも、悪い奴は――」 「死んで当たり前?」 「殺しはしないよ!!」 「成敗…」 「……っ!」 振り向いた晴珠の瞳は、恐ろしい程の怒気を孕んでいた。 怪しく金色に輝く龍の様なその瞳が、とてつもない威圧感を伴って狛を睨み付ける。初めて晴珠と出会いその力を見せつけられた時のことを思い出し、狛は握る拳が震えだすのを感じた。情けない程の恐怖。他人に対する本当の怒り。殻蟲の力。普通に暮らしていれば、何の関係も無い筈の世界。 だが、それではいけないのだと思った。 だからこそ、狛はこうして晴珠と対峙しているのだ。 「狛くんはそのつもりかも知れません。ですが、気の振れた殻蟲は、きみを本気で殺しに来るでしょう。それでも、きみは殺さずに戦えますか?」 「俺はただ、誰かを傷つける奴が憎いだけだ」 「人に対しても、貴方はそう言うのですか」 「そうだ」 「違いますね」 「…?」 「人に対しても、『戦う』という言葉を使うのかと聞いているのです」 「…それ、は…」 問いの答えに詰まってしまった狛に、晴珠は小さな溜息を吐きだした。 「確かに、殻蟲は通常の人より身体能力に長けています。けれど、力の入れ加減ひとつで本当に死んでしまうかも知れません」 「!」 「殻蟲は、人が思っているほど強くないんですよ。ましてや、陽桜の様な者もいるんです。人と、殆ど変わらない」 「それは、…分かってる」 先に見た、蘭角の弱さ、脆さ。 喩え人間離れした能力を持っていて、遥かに長い寿命を持ていたとしても、傷ついてしまうのだ。重い病にかかれば、きっと死んでしまうだろう。内面であれ、外面であれ、変わることなど殆どない。 「だから、俺は退治屋になるんだ」 そう決めたんだ。 そう頑なに呟く狛を、晴珠は悲しげな瞳で見つめた。 「狛くん。狛くんの決意したことは、私たちの同胞を殺すということに繋がるんですよ」 「違う」 「どこも違いありません」 「俺は、苦しんでる殻蟲を救うんだ」 「救う…?」 ふ、と、晴珠の唇から呼気が漏れた。 「きみには誰も救えやしませんよ」 それと同時に呟かれる声は、あまりにも冷たい。 「そうかも知れない。けどっ―――」 「おこがましいんですよ。その考え自体が…」 「―――っ!?」 同時に、世界が反転した。 草木が目に映る。そうかと思えば、夜空の月が見える。 背中には鈍い痛み。 転がされたと気付くにはそうかからなかった。 「いっ…」 「これは、殻蟲の力だと思いますか?人の力だと思いますか?」 「!!」 肩を踏まれ、狛は痛みに顔を歪める。 彼は――晴珠は本気で自分を傷付けるつもりだと、そう直感した。 だからこそ、彼にしか頼めないのだということも。 「………、だっ…」 「……」 「晴珠の、力だ、…」 「!」 軋む身体を鞭打って起き上がる狛の言葉に、晴珠は一瞬間反応した。動きを止めた晴珠に、狛は強気にも笑みを返してみせる。震えた手が、気丈にも晴珠の襟首を掴む。 「殻蟲とか、人だとか、そんなことはこれっぽっちも関係ない。晴珠だけの力だ」 身長の差が有り過ぎる二人では晴珠の方が屈む形になる。 「そして俺にも、力がある」 「…、慢心、ですね」 「かも知れない…」 自嘲気味に笑う狛に、晴珠は小さく頷いた。 それは何処か気を許した様な、優しい表情で。 襟を掴む狛の手をやんわりと外し、晴珠は眼下にある自分よりも幾分も低い狛の肩に手をかけた。 「朱援には伝えたのですか?」 そう訊ねて来る晴珠に、狛は首を振った。 「それで私に言ってくるのならば、相当の覚悟なのでしょうね」 「……」 「どうして、私に?」 「晴珠が一番、強いと思ったからだよ」 「そうですか…」 皺の寄った襟を正し、晴珠は笑う。 今まで見たことのない冷たさを含んだその笑みに、背筋がぞくりと震えた。今の晴珠は、戦いに飢えた殻蟲そのものだ。だが、其れで良い。狛が望むものは、その先にある。 「私は、朱援の様に甘くはありませんよ?」 「ああ!」 力強く頷く狛。 それを確認した晴珠は、踵を返す。 「来なさい。稽古をつけてあげましょう」 ちょっとやそっとの衝撃で折れてしまう枝葉では、大木は守れないのだ。 *** それからは、狛の想像を遥かに超えた時間が待っていた。 「どうしたんです。まだ立てるでしょう!」 「っ、……!」 誰の邪魔も入らない様にと移動した先で、一時間も経たない内に狛の身体にはいくつもの痣ができた。少し走ったくらいでは汗などかかない気候であるのに、狛の頬には大量の滴の筋が目立つ。そして、それは汗だけではない。顔中に作った傷跡から流れる血液が、狛の着物を無慈悲にも汚していた。 たった今も、繰り出された晴珠の蹴りの猛襲を直に腹に食らい、胃から競り上がる物体を外に出してしまわない様にするのが精一杯だった。 「ぅ、あ…っ」 確かに、晴珠の言った通りだ。 彼は、朱援の様に甘くはない。痛めつけられる限界のところまで、狛を追い詰めている。そしてそれを、心苦しんではやっていない。 何度見ようとも慣れない圧倒的な力の差に、手の震えや、涙が滲むのを止められない。 顔を地面に打ち付けたと同時に口の中に砂利が入ったのか、歯を噛み締めると、血と何かが混ざった複雑な味がする。悔しくて握った拳は、虚しくも土を掻くだけで上半身を動かす何の手助けにもならない。 「立ちなさい」 「っ…」 「諦めるのですか?」 「あ、きらめ、…ないっ」 「なら、立ちなさい」 どうしてここまで晴珠が無理を強いるのか、狛には理解出来ない。 晴珠にも、内で思うことが何か有るのかも知れない。 ただ、今は触れるべきことではない気がした。 晴珠自身が望んでないと、そう思ったのだ。 ぼんやりとした意識の中、狛は思う。 強くなりたいと。 万物を安らかにするなど、それこそおこがましいことは狛でも理解していた。きちんと、出来ないことは出来ないと、分別の付けられるまでは成長しているつもりだ。だが、身近な人ならどうだろうと思う。そんな諦めの悪さも持っていたのだ。 晴珠が一歩退いたのを見て、狛は大きく息を吐きだした。頭には鈍痛が走っている。口の中は血だらけだ。身体ももう、限界を迎えている。痛みを超えた気だるさが、狛の意識を連れて行ってしまいそうだ。 それでも、立つしかない。 目の前に過ぎる、幼い頃からの知り合いを思っては。ここで諦めてしまっては、きっと彼女の心は泣いたままなのだろう。最近になってよく、彼女は暗い顔をする様になった。その気持ちを晴らしてやりたい。だからこそ、強くなくてはならない。心配をかけなくても良い様に。狛自身が強くなくてはならないのだ。 だからこそ、黙って晴珠に稽古を付けてもらっている。 「………」 ゆっくりと立ち上がる狛に、晴珠は構える。 月に照らされ蒼く揺れる髪が、幾重にも重なった。 「せい!!」 「!」 右から横なぎに放たれた腕を、狛は全体重を左に流して避けた。間一髪のところで掠った跡が、裂傷となって残る。痛みなど、感じすぎて今ではもうどうでもいいことだ。視界の端を過ぎて行った晴珠の腕を眺めながら、一瞬で体勢を立て直した狛はその動きのまま屈み足払いを繰り出す。しかし、たやすくもそれは抑え込まれ、勢いが殺されてしまう。気が付いた頃には身体は宙を飛んでいて、したたかに背を地面に打ち付けるのだ。 「かっ、…!」 晴珠が特有の力を使ってこないところが、たった一つの手加減なのだろう。 だがそれは、今まで朱援との手加減された稽古しかしてこなかった狛にとってはそれだけでも大変なことだったのだ。 「まだ、お、れは…っ…」 狛の意思と逆らって暗転する意識は、晴珠の身体が視界から消えたところで完全になくなった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |