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白鎮魂歌(完結)
現の世



 それから一週間程、狛の身体に不調が続いた。立ち上がれば眩暈に襲われ、それでも無理矢理に歩こうとすれば吐き気を催す。酷い時には気を失う程の頭痛が続いて、茜をひどく心配させた。
 それ故に、神木の辺りには近寄らなかった。蘭角の言った『寿命が縮まる』と言う言葉を気にしていた訳ではなく、出掛ける気力がなかったので、正確には近寄れなかった、だろうか。
 むしろ、出掛けない毎日が続いて、更に『行きたい』という気持ちが強くなる。ぼんやりと過ごす時間は、何より退屈だった。
 時折、鼎が千代や村の子どもたちを連れて来たが、それでも楽しいとは思えない。茜が甲斐甲斐しく世話をしても、胸にある小さなわだかまりは消えない。殻蟲の知り合いともぎこちなくなり、更には人間の知り合いと居ても楽しくないなど、いよいよ独りになるなと自嘲した。
 それでも、怠さが抜けてから狛は朱援の元へと向かおうと思った。布団に寝転がりながら考え続けたあの言葉の真意を掴むため。
 あの人は、何を思ったあんなことを言ったのだろうか。


 そして、月夜の日。
 狛は布団を抜け出した。
 長い間来なかった雑木林はまるで侵入者を警戒する様に騒いでいた。暗闇の中進む砂利道に、やはり彼らと自らは違うのだと実感する。
 しかしそれは決心の揺らぎでは無い。
 理解にも等しい悟りだ。
「朱援」
 神木の前に佇む白い影を見つけて、狛は声を発する。そうすれば、影は悠然と振り返り、その姿を月明りに晒した。
「初めてだな、お前がこれ程日を開けて来るなど」
「うん。久し振り」
「ああ」
 目の前で太い幹に身体を預け佇む女の姿は、狛が来ることが分かっていた様に落ち着いた態度で。だからこそ、狛も冷静に言葉を紡ぐことが出来た。
 布団に入りながらよくよく考えた。
「蘭角の奴、何かあったのか?」
「何か、とは?」
「昔、人間との間に」
 それは、知らなくても良い、知るべきことではない気がした。触れてはいけないし、暴いてもいけない気がした。しかしそれと同時に、知りたい、知るべきことだという思いがあったのだ。
 自らが、彼らと関わって生きて行くと言うのなら。
「……」
 黙ってしまった朱援を何も言わずに辛抱強く見つめていると、終に溜息を吐いた彼女は長い白髪を揺らして背を向けた。
 何かから逃げる様に。
 何かと決別する様に。
 白髪が、月明りを受けて朧気に揺れる。
「妾は、自らのことを他人に話されるのを嫌う様に、容易く話すことも嫌っている。本人に直接聞くことだな」
 狛は、小さく頷いた。
「蘭角の居場所、知ってるか?」
 本当はそれを聞きに来たんだ。
 そう付け足した狛に、朱援は苦い顔をして「妾を試したな」と呟いた。

   ***

 殻蟲がいくら人間とは掛け離れた能力を持っていると言っても、それは身体能力や幻術、妖術以外にはない。確かに気配を察するのには少し長けてはいるが、離れた仲間の居場所を知ることなど到底無理だった。
 朱援から聞いたのは、蘭角がどの方角へ向かったか。
 それだけだ。
 しかしそれだけの情報でも、狛が住むこの小さな村から捜し出すのは簡単である。何の迷いもなく、狛は歩を進めた。
 夜空に浮かぶ月は、暗い夜道を行灯の様に照らす。
 そして少しの間歩けば、いつしか狛の燻った気持ちを流したあの河原に、一つの影を見つけた。
 幾分か大きい筈の体躯を縮め、土手の草に紛れて座り込んでいる。見慣れた赤い髪だけが月明りに照らされて、それが蘭角だということに気付くのに、苦労は要さなかった。
「蘭、…――」
 狛は名前を呼ぼうとしたが、全て言い切ってしまう前に口を噤んだ。
 煌々と明るい月は彼の浮かない顔を照らしている。本来ならば気付く筈の気配にすら反応しない様子を見ると、随分考え込んでいるのだろうか。
「蘭角」
「!」
 呼び掛ければ、赤い髪が揺れた。
 振り返った蘭角の瞳には、複雑な感情が浮かんでいる。それを隠す様に再び水面へと視線を戻し、乱暴な口振りで返事をしてきた。
「こんなちっこい村やったら、なんぼ何でもすぐ見つかるわなぁ」
 それは、小さな言い訳だった。
「見つかるのが嫌だったら隣りの村に行けば良かったんだ」
「そりゃそうで」
 喧嘩腰の口調ではあったが、お互いにそんな気ではないと何故か理解し合えた。
 朱援から、蘭角がどの方角へ行ったのかは聞いたが、明確な場所は分かっていなかった。辿り着くことが出来たのは、勘だったのかも知れない。特に焦りはしなかった。会えると確信があった。話したいと思っていた。
 そしてそれはきっと、蘭角もなのだ。だからこそ、蘭角はこの村から、狛の行動範囲から逃げなかった。
 こんな戯れをするのは、先に続く会話のためにであるはずだ。肩肘を突っ張っている蘭角らしいと、少し場違いにも苦笑が漏れた。
 未だ蘭角は狛に顔を背けたまま感情や表情を隠していたが、狛は気にせず続けた。
「ずっと気になってたことがあるんだ」
「おーう。何でも聞いてみぃ」
「昔。俺と会う前…それ以上、もっと前に。…何かあったのか?」
「…それ聞いて、何かあるんか」
「何でも聞けって言ったよ」
「答えるとは言ってへん」
「へ理屈だ」
「何とでも言え」
 お互いの気持ちを落ち着かせるための応酬。
「そこ、座って良いか?」
「…」
 蘭角は応えなかった。瞳は流れる川に向けたまま、組んだ足をぴくりとも動かさない。
 そして、狛が隣りに腰掛けると、それを待っていたかの様に蘭角は口を開いた。
「……ずっと、昔の話や…」
 それは少し感傷を含んだ、寂しそうな声。一点を見つめる瞳は、過去を思い出しているのかひどく遠い。
「人間と仲良うなったんや」
 ぽつりと零された言葉に、狛は静かに耳を貸す。一言一句聞き漏らさない様に。心の底から聞くことが出来る様に。
 話す蘭角は、ただ独白の様に、ぼそりぼそりと言葉を紡ぐのだ。
「はっきり覚えてる…」
 明瞭に思い出せるあの声、歌声。触れる指先は骨の様に冷たくて、しかし彼女の笑顔は日だまりの様に暖かくて。特別な感情があったかは分からない。しかし、あったと言ってしまうにはあまりに確信がない、不安定な感情。
 細かなことまで紡ぐ蘭角に、狛は尋ねた。
「名前は?」
「…、もう、忘れた」
 微かな、本当に僅かな沈黙。
 自嘲気味に笑みを零す蘭角の言葉は、川のせせらぎによって掻き消えてしまいそうな程あまりに小さすぎる。それが彼の心に開いた穴の大きさを表している様で、狛は心苦しかった。
「そいつは病弱やってな。なんべん言うても俺とおったから、治るもんも治らんかったんかも知れへん」
「殻蟲は人の生気を取るから…?」
「そうや」
 頷く蘭角に、狛は問う。
「その子は、病気で?」
 しかし、途端に後悔した。
「俺の仲間に殺された」
「――、っ!」
「俺――俺ら殻蟲を見れるんや。狙われるんは当たり前やな…」
 何を思い出してか、肘を握った手に力を込めた蘭角は、ふ、と唇を歪めた。肌で感じた絶対的な恐怖、敵対心。それが人間に向けられたものか、殻蟲に向けられたものか。忘れることはない。忘れられる筈がない。
「…その…友人、は?」
「死んだ。…人間に殺されてな」
「…っ」
 目の前で見知った身体が長刀に貫かれ真っ赤に染まった瞬間を、しっかりと見た瞬間から悪夢は始まった。
 それからは、蘭角の唇から苦鳴の様に言葉が漏れた。
 何処から始まったのか。
 何があったのか。
 何を思ったのか。
 一言、「可哀相」と言ってしまうにはあまりに多くの感情が交差し過ぎて、狛は言葉を紡げなかった。あの時、蘭角が淋しげに呟いた言葉の意味を、深く理解したために。
「…そう、だったのか…」
 呟いた狛は、うなだれた。
 陽桜の時も同じだ。
 狛には到底理解出来ない程の長い年月を過ごし、厳しい時間を過ごしている。そんな彼らの気持ちを計り知ろうということすら、おこがましい程に。
 狛が感じる感情は、きっと彼らの比ではない。
 そして、その『哀しい』という感情と同じくらいに、『嬉しい』とも感じていたのだ。こんなことを言ってしまえば万人に、非道だ不謹慎だなどと罵られるだろうが、関係はなかった。
 今、狛は生きているのだ。
 優しい『殻蟲』に守られて。
 ゆっくりとした時間を悠然と。
「俺は、すごく幸せなんだな」
「…お前、俺の話聞いとったか?」
「聞いてたよ」
 だからこそ、思うのだ。
 いつか本当に身の危険に晒された時、狛一人で生き残る力はないだろう。
 しかし。
「俺は蘭角の名前を知ってるから。呼んだら、助けに来てくれるだろう?」
「!」
 喩え、呼ばなくとも。
 来てくれるという確信があった。
 驚きに目を見開いて見つめてくる蘭角をまっすぐに見返して、狛は何か何処か吹っ切れた様な表情で笑った。
「俺は、細くて長い人生より、太くて短い人生の方がずっと良い」
 その言葉が何を意味していたかなど、今更言うことではない。
 二人の間に吹き抜ける風は、温かい。
「その子もそう思ったから、蘭角と居たんじゃないかな?」
「…!」
 病気が良くならないことが蘭角のせいだと気付いていようがいまいが、身を引こうとした彼を引き止めたならば。
「……好きにせーや」
「うんっ」
 俯いた蘭角の声は、少しだけ晴れた様子で。
 やはり、誰に何と言われようとも、狛はこれからも彼らと居たいと強く願う。彼らの知らなかった内面を知る度に、もっと彼らに近付きたくなる。
 そしてまた、もう一つの決意を狛は下した。それは密やかに胸の中に納められた決心。
 それが正しいのかは分からない。
 何が待ち受けていようとも、その時の彼に未来など知る由もなかったのだから。




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