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白鎮魂歌(完結)
夢の跡



「…」
 瞳を開いた蘭角は、寝心地の悪そうな木の上で大きな欠伸をした。目を覚ましたのは名前を呼ばれた気がしたからだが、見回してみても辺りに人の姿は一つもない。木の葉の擦れる音だけが、静かに耳へと伝わってくる。
 久し振りに夢を見たと思った。懐かしい、そして、思い出したくもない記憶。久し振りに同じ様な体験をし、奥底から呼び起こされたのか。
 蘭角は思う。
 あの時も、恐れられたのだろうか。
「ちっ…」
 小さく舌打ちをした蘭角は、そのまま再び眠る気にもなれずに、組んでいた足を解いた。枝に手を当て、身体を揺らす。ゆっくりとした浮遊感。後について揺れる髪に、あの頃から随分と経ったのだなと、今更ながら自覚した。
 そう言えばあの頃も、この時期に近かったかも知れない。

   ***

 神木の下は、今日も何ら代わり映えなく賑やかだった。そうは言っても賑やかにしているのはただ一人だけなのだが、周りを取り囲む人間も楽しげにその様を見ている。
 狛と陽桜が、碁をうっていたのだ。
 囲碁をするのは狛にとっては初めての経験だったが、晴珠に教えてもらい、何とか規約だけは理解した。そして何故、勝負相手に陽桜を選んだのかというと、熟練していそうな二人よりは見るからに子どもである彼女になら勝てると思ったからだった。
 しかし、その考えが甘かった。
 狛は素人。
 陽桜は、見掛けは子どもだが中身は何百と歳を重ねて来た玄人だ。
 晴珠が知っているのならば嗜み程度にはやっていたのだろう。陽桜は、ゆっくりとした手つきでありながら、確実に狛を追い詰めていった。
 狛が扱うのは黒。
 陽桜が扱うのは白。
 碁盤の目の上には白が圧倒的に数を成している。
 明らかに、狛は負けを目の前に見ていた。そして今も、陽桜が小さな指を離した時、白に囲まれた幾つもの黒が、ごそりと抜き取られていった。
「え、え………えっ?」
「ふむ」
「おや」
 戸惑った声を上げる狛に、隣りから挟む様にして碁盤を覗いていた二人が面白そうに身を乗り出した。目の前では、ころころと陽桜が笑っている。狛の皿には白はない。陽桜の皿には、零れる程の黒がある。
「まったく…狛は頭を使う遊戯も苦手ときたか」
「も、て何だよ!も、て!」
 溜息とも苦笑とも付かない吐息混じりに呟かれた朱援の声に、敗北した悔しさも相俟って、癇癪を起こした子どもの様に狛はいきり立った。
 しかし、それを諫める様にして、晴珠は碁盤に乗った白を寄せながら笑う。
「安心して下さい。私も陽桜には勝てたことがありませんから」
「晴珠もなのか!?」
「ええ。もちろん、そこで君を馬鹿にしている朱援もですよ」
 恥ずかしい話であるはずなのに、にこやかにそう告げる晴珠に、唖然とした。そして、視界の端で不満げに晴珠を小突く朱援ですら勝てたことのない陽桜に謎を抱くのを禁じ得ない。勘違いしているのではないかと、終には疑問を抱くまでに至った。もしかして、逆ではないのか。陽桜が、晴珠に碁を教えたのではないか。
「…」
 改めて、凄いと思った。
「晴珠、余計な口は慎め」
「ふふ、すみません」
 不貞腐れた口調でぼやいた朱援が、早い手つきで黒をうった。笑いながら晴珠が次の手をうつ。珍しく片付けを手伝ってくれたのはそう言うことだったのかと納得した。
 ぱちり、ぱちりと軽い音が鳴り、時折ざりざりと囲われた碁を取る音がする。今まで教えてもらってはいたものの、二人の対局は初めて見る。果たしてどちらが負けるのか、興味津津で狛は碁盤を覗き込んだ。
 長い沈黙だ。早くはありつつも、少しだけ間の開く時があった。しかしそれは、狛の様な戸惑った手のせいではない。怒涛の攻めに転じる為の、きちんと考えて繰り出される僅かな時間なのだ。見ているだけの狛ですら緊張した空気の余波を受ける。
 と、その時だった。
 緊張の糸を切る、すっ頓狂な声が上がった。
「なんや、囲碁なんかうっとるんか」
「蘭角!」
 表われた赤毛の男に反応したのは対局していない二人だけだったが、蘭角はそれを気にした風でもなく近くに腰を下ろす。続いて、うん、と身体を捻りながら欠伸をかました。
「んな面白ないもん、黙々と二人だけでようやるわ」
 蘭角においては、碁は理解出来るか出来ないかではなく、唯、興味範囲外だったらしい。遊びに来た割りには大して面白くなさそうに欠伸をする蘭角は、やはり反応を返さない二人を尻目に、背後にいる狛の頭をそのまま小突いた。
「いて、」
 小さく不満の声を上げる狛に、蘭角は目を合わさずにからかいの言葉をかける。
「お前も、よう飽きんと毎日此処来んなぁ」
「良いだろ、別に」
「俺ら殻蟲とばっかり遊んでて、人間の友達はおらんのか?」
「いるよ!」
「さよか」
 かっか、とわざとらしい笑い声を上げる蘭角に、しかし狛は憤りの前に違和感を感じた。
 何処となく覇気が無い。
「蘭角、変なものでも食べたのか?拾い食いとか…」
「阿呆。誰がそんな意地汚いことするか」
「…そうか?…なら、良いけど」
 しかし、受け答えはいつもの様で。否定で返されればそれ以上何も問うことが出来ず、狛は頷くことしか出来なかった。
 なんとなく感じる気まずさ。
 それは、自らが先日彼ら『殻蟲』の存在を否定してしまった時から感じているわだかまり。
 それが、見えない――見えない様にしているぎこちなさを二人の間に産んでいる。それはきっと、察しの良い朱援や晴珠にも気付かれているのだろう。だがしかし、彼らは何も言わない。敢えて、触れない。それは、狛が苦しむからか、彼ら自身が傷付くからかは分からない。ただ、いつか自然とわだかまりの糸が解けるのを待っている。
「俺、ちょっと散歩してくるよ」
 囲碁も取り上げられ、手持ち無沙汰になって余計なことを考え出した狛はそう言って腰を上げた。
 が、
「っ…」
 途端に軽い眩暈が襲う。
 視界が揺れ、白くなったり黒くなったりを繰り返す。少し吐き気を感じた途端に、一瞬間だけ身体が浮いた。
「…、…!」
 しかし、狛は一瞬の判断で右足を前に出して踏ん張り、倒れることを避けた。まるで見つかってはいけない悪戯をしてしまった時の様に、心臓がどくどくと激しく脈打つ。しかし、その場にいた全員の視線が碁盤へ向けられていたために、狛がよろめいたことには誰も気付かなかったらしい。隠れる様にほっと胸を撫で下ろした狛は、そのまま立ち去ろうとした。
 直後、そのまま駆けて行こうとするが、その背に蘭角の思わぬ声がかかる。
「俺も行く」
「えっ、…?」
「なんや。なんか不満なんか?」
「いや、別に、そうじゃないけど…」
 確かに、不満ではない。だが実際には、ついて来られては不都合だったのだ。今のふらつきはただの疲れからのみ来たものではない。数週間前に狛にとっての大きな分岐点の鍵となったことだ。狛自身原因が分かっているから、なかなかに他人を連れたくないのだ。だが反面、拒絶してしまえばそれが気付かれる原因になりかねない。
 仕方なしに狛は、小さく頷くしかなかった。
 だが、それが失敗だったのだ。
 反応を返さない朱援と晴珠は置いて、手を振る陽桜へ振り返しながら林へと二人は足を向けた。木々の間を二人して黙々と過ぎる。会話など一つもない重い沈黙が付き纏い、それでも、別れて先へと歩き出したりはしなかった。
 そして、暫く歩いてからだった。横に並びまっすぐに前ばかりを見ていた蘭角が、不意に狛へと視線を向けて口を開いたのだ。
「誤魔化せると思うなよ」
「!」
 蘭角の強くまっすぐなまなざしに、どきりと心臓が跳ね上がった。彼が何を言っているのかはすぐに理解出来た。
「見てたのか…」
「誰でも気付くわ阿呆」
「でも、皆、何も…」
「阿呆。気ぃ付いてたに決まっとるやろ。けど、言わんのがあいつらの一線やったんや」
「…」
 誰よりも狛との付き合いが長く、何より狛の身体を心配している朱援が、異変に気付かない訳がない。
 蘭角の言葉に、胸が締め付けられる思いで俯いた。
「隠してるのに。察し良過ぎるよ、皆」
「…毎日か?」
「時々だよ」
 蘭角の問いに、必死な気持ちで首を振る。
「時々、身体の力が全部抜けるみたいにつらい時がある。ただ、それだけなんだよ、本当に…」
 まだ、朱援と一緒に居たい。学ぶことは一杯なのだ。それに、知り合ったばかりの蘭角たちもいる。別れることは、何より狛の生活の張りをなくすことだった。
 しかし、蘭角は小さな声で残酷な程静かに言った。
「悪いことは言わんから、あんまりここに来んな」
「…っ!なんで、蘭角までっ…」
「俺らといる時間が、お前の寿命を縮めとるんやで?」
「そんなこと!」
 憤りを露にして歯を剥き立てる狛に、しかし蘭角は落ち着いた表情で、むしろ冷めた目付きでその様子を見つめながら答える。
「お前は良いと思うかも知れへん。そりゃあ、自分のしたい様に朱援の側に居て死ぬんやからな。けど、残される朱援のこと考えみぃ。自分のせいで死んだんやって、ずっと悔やみよる」
「あ、…」
「会うなとまでは言わん。せめて、お前がつらくない程度まで回数を減らすんや」
「つらく、なんか…」
「お前自身はつらくなくても、身体は限界を伝えてんねやろ?」
「っ…」
 だから、眩暈が起きたのだ。
 だから、吐き気がしたのだ。
 何より隠し様のない証拠。
「皆、…殻蟲じゃなかったら良かったのに」
 俯いた狛に、蘭角は手をかけた。
「俺もそう思う…」
「っ…?」
 あまりに暗い声音に、狛は耳を疑った。何かを悼む様な、悔やむ様な。とにかく、今までで一度も聞いたことのないような、陰鬱な蘭角の声。
「…お前、言ったよな?人間と殻蟲の、何処が違うんやって」
「…うん」
「俺も…、その通りやと思うで」
 思わず顔を上げれば思った通り、いつものまっすぐで強い蘭角の瞳は、雨雲に差された空の様に薄暗く曇っていた。




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