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白鎮魂歌(完結)
恨み歌



 ひらひらと、梅の花が舞い落ちる。
 未だ寒さを少し残した外気を肌に、一人の若い男が実りのない小道を駆けていた。その姿は寒さなど無視した薄着で、髪は秋の紅葉の様に赤い。背中から差す白い朝日に照らされ揺れるその髪は、まるで炎の様に人目には映るのだろう。
 草履の音を途切れさせることなく走ると、景色はやがて茶色い木々から人々の住む家々に変わる。ここ最近で馴染み過ぎた匂いに、あれから何日通い詰めているのだろうと、男は生活感の溢れる柔らかい煙の匂いを嗅いで思った。
 どうして毎日の様に人里まで下りて来ているのか。その理由は、独りきりの山奥での暮らしに飽きた訳でも数日間何も食べていなかったせいで胃が音を上げた訳でもない。全ては、男が向かっている先にある。
 走り続ければやがて一本の太い樹の枝が、立派な屋敷から生えているのが見えてくる。そこが男の目的地だった。
 屋敷を取り巻く塀は、男の身長より僅かに高い。それに、侵入者対策のためか一番上には鉄製の小さな尖りが幾つも並んでいる。きっと中には、この何も無ければ平和な日常からはかけ離れた様な警備体制が、今日も敷かれている。そして場違いの様に、中からは少し高音の柔らかい童歌が聞こえてくるのだ。
 これが、男がわざわざ毎日人里に下りて来る理由だった。
『綺麗な声やなぁ…』
 男が上げた何処か嬉しそうな間の抜けた声は、訛りを含んだ面白い響きを纏っている。壁の向こうにいる人物を想い、熱い溜息を吐く。この男を良く知っている人間がもし見たならば目を疑う様な緩み切った表情を、その時の彼はしていただろう。
 そして男は、何の躊躇もなしに、慣れた調子で針の様な柵を鷲掴み塀の壁に足をかけて屋敷の中を覗き込んだ。警備体制など、この男には関係無い。見咎められない自信もあった。だからこその、堂々たる行為なのだ。
 柵のせいであまり身を乗り出すことは出来ないが、男は軽やかにそれを飛び越え、一本の枝に降り立った。それまでの一連の動作に立った音は一つもない。不自然な程に静かな行動は、歌声を途切れさせることはなかった。
 枝に腰掛け、男は屋敷の、少しだけ奥にある開いた襖の一つを見つめた。そこから響く、透き通った歌声。歌声の正体は、いつも布団に入っている少女だった。穏やかな笑顔で、ただ音をとって鞠をつくことはなかったが、歌う。その声は何故がその男を引きつけた。
『へへっ…』
 小さく笑みを漏らした男は、細い枝の上で器用にも肘をつく。それを苦もなく長時間続ける様はあまりにも人間離れしていて、彼自身人間ではないのだ。だからこそ、こうやって何度も少女を眺め続けられる。
 やがて少女の歌声が途切れた。
 歌が終わったのだ。
 それだけで男は満足そうな笑みを浮かべて腰を上げようとする。
 しかし、その時だった。
『どなた?』
 不意に聞こえた声に、男は反射的に身体の動きを止めた。視線を上げる。屋敷内を見れば、薄暗い室内からあの少女がこちらを見つめている。しかし、男は気のせいだと思った。再び背を向け、柵の向こうへ消えようとする。
 すると、再三、紡がれる言葉。
『どなた?』
 それでもまだ、彼女は男を見つめていたのだ。それが明らかに自らにかけられた言葉だと理解した時、男は驚きのあまりに木から滑り落ち、終いには受け身も取れなかった。迫り来る地面、激しい衝撃の後の視界の暗転。

 これが、男と少女との出会いだった。

『う、うぅ…』
 男は小さく呻きながら思い瞼を開いた。背中に走る鈍痛が、嫌でも意識を覚醒に導く。はっきりし始めた視界で辺りを見渡せば、つい先程まで自分が上っていた筈の木の太い幹が目に入った。奥には母屋が、そして脇には小池がある。それらの全てが、山で暮らしていた男にとっては見慣れないものばかりであった。
 手に触れる土の感触が冷たい。
『目が覚めた?』
『!』
 辺りを見回していた男の視界に、不意に少女が割り込んだ。
 今度は無様に驚く前に、今までの経験からして、やはり、と、男は確信する。
 やはり、この少女は見えているのだ。男の様な『類』ならば、喉から手が出る程欲しい存在。雪の様に白い肌は、薄桃色の着物に包まれている。これほどの細身の人間ならば、たとえ抵抗しようとも簡単に捻ることが出来るだろう。
『…』
 特別な人間を食らい力を手に入れることを望む。それは、男とて例外ではない。
 しかし、男はそれを実行には移せなかった。なにが理由かは分からない。食らうことを考えると、土に触れる手が震える。
『ぁ、』
『咲夜!』
『!』
 しかし、口を開いた男が何かを話す前に、第三者の声がそれを遮った。砂利を踏む足音が聞こえ、男は戸惑う。
 少女が『男の様な存在』を理解して見ていなければ、ここに見えない第三者が加われば大変なことになる。この時代は、禍々しいものに対しての人間の反感は特に激しいのだ。第三者が一度少女の言葉を信じれば、すぐにでも退魔師や退治屋が呼ばれる筈だ。それは、昔からそれらの類が住んでいると言われてきた男の住家を襲うだろう。負けはしないことは分かっているが、いくら弱い相手でも大人数で来たならば交戦すれば無傷でいられる補償はない。何より、蓄えていない力が底を尽きては困るのだ。
 急いで身を翻し、男は叢の影へ飛び込んだ。後ろで少女の制止の声が聞こえたが、そのまま気配を消す。
 意図的に耳を峙てた訳ではなかったが、やって来た人間と少女の会話が聞こえてきた。
『また外へ出ているの?』
『ごめんなさい、お母様。布が木にかかっていたから』
『そんなこと、お手伝いに言い付けなさい…。貴女は、――』
『分かってます。本当に、ごめんなさい』
『……なら良いわ。次からは気をつけて』
 あまりに無愛想な声が終わりを告げ、足音が遠のいていった。矢継ぎ早に紡がれた言葉の全てを理解することは出来なかったが、男は、彼女が何故か叱られていることは分かった。
『出て来て良いですよ…』
 向こうから呼ぶ声も、心なしか弱い。
『…』
 黙ったまま叢から顔を出すと、少女は屋敷へと足を向けていた。その手には、何も握られていない。どうして彼女は先の女に嘘を吐いたのか。少女の表情は見えない。男はその背に、何故か素直に着いて行った。
『ここずっと、来てましたよね』
『!』
 振り返った彼女は小さく笑みを浮かべていた。
 くすくすと少女が笑う。
 途端、男の頬が赤くなった。気付かれていた気恥ずかしさが襲い来る。
『気付いてたのに…何で嘘吐いたんや』
 視線を逸した男は、縁側に佇んだまま言った。屋敷の中に、そして布団の中に収まった少女はしかし、当たり前の様にこう答えたのだ。
『だって、何か話したかったのでしょう?』
『…』
 黙り込む男に、少女は布団に寝転がりながら言った。
『何処の人かは分からないけど、ねえ。私にお話してくれない?』
『何?』
『私はそのお礼に、歌を唄うから』
『……』
『ね、お願い。私、最近ちっとも外に出られないから、外のものを知りたいの』
 面倒なことになってしまったと思った。人間と関われば、仲間からの風当たりは強くなる。それに、いくら彼女が自然に話しかけてこようとも、男の正体に気付いていないとは言い切れない。確かに彼女の唄う歌は好きだったが、何処まで彼女のことを信頼して良いのか分からなかったのだ。
『明日…』
 誤魔化し程度に、今を切り抜ければそれで良いと思った。
 今度からは、塀の向こうから彼女の歌を聞けば良いと思った。
『明日、来てくれるの?』
『ん、…あ、ああ…』
『嬉しい!なら、私待ってるね』
『………』
 しかし、男の言葉に、嬉しそうに少女は微笑んだのだ。
 人間と約束などと、男は静かな帰り道で自嘲した。すぐに忘れると思った。飽きると思った。彼女は歌を続けると思った。出掛けた先。彼女は唄わない。顔を出した。
『待ってたわ』
 それからは、彼女の光に溶けて消えてしまいそうな、きらきらした笑顔が忘れられなかった。

 それからは、毎日の様に彼女の元へと通った。日に日に持ち寄る話は面白みが増し、少女はその度に嬉しそうに笑う。だからこそ男も懸命に楽しい話や、外にある綺麗な物を探したのだった。
『おう。元気にしとったか?』
『今日はすっごく気分が良いの』
『あんまり無理すんなや』
『うん』
 通う度に、少女が病気を持っていることに気が付いた。よく母親と口論しているのを隠れながらに聞いていたからだ。彼女は男が隠れる理由は聞かない。だからこそ、男も彼女の病気について触れることはなかった。
 毎日通いながらも、どちらからも立ち入ったことを尋ねることはない。楽しみながらも、何処か空しさや寂しさを感じる関係。しかし男にとっては、十分に理解して承知している範囲だった。
『次は何を見たい?』
 しかし、それは賑やかに話していたある日に起こった。随分と溜まった土産は押し入れに隠してある。山にある土産として持って来れるものも終には知れてきた。
 だからこそ聞いたのだ。
『…なら、一つお願いをしても良い?』
『何や?』
『名前を知りたい』
『!』
 その時の彼女の口から紡がれたのが、男が引いていた一線を超える言葉だった。
 名前を知ること、知られること。
『それは、…あかん…』
『どうして?』
『…』
 俯く男に、少女は詰め寄る。しかしかたくなに答えようとはしない男に、やがて少女は今にも泣きそうな表情で尋ねた。
『私が、近々死んでしまうから?』
『違っ――』
『良いの。…お医者様には、今年の夏になるまでが寿命だって、聞かされてたから…』
『……』
 今にも泣きそうであるのに笑みを作る少女の表情に、まるで胸が潰されたかの様に痛んだ気がした。死人の様に青白い顔、細い手足。出会った時よりも、長くは唄えなくなった少女。
 男自身、気付いていた事実。
 男自身、告げられない真実。
 その日から、彼女は良く床に伏せる様になってしまった。来る日も来る日も布団に入り、咳のせいで話すこともままならない。弱りつつある彼女を見るのに耐え兼ねて、次第に男の足も遠のいて行った。それでも、どれだけ山の中で暴れて過ごそうと、忘れられない笑顔。
 地面を蹴った。
 懐かしい風景。
 訪れた屋敷。
 しかし、久し振りに訪れた男の目の前にあったのは、未だ新しい血に濡れた赤い部屋だった。そして、その真ん中に佇む、見知った影。
 それからは、曖昧だ。
 まるで、砂嵐にのまれたかの様に荒い映像。不明瞭な音声。残留思念。
『嫌、嫌ぁあっ!』
 聞こえるのは、誰かの悲鳴。
『助けて欲しいのに、名前も、呼べないなんてっ…』
 今はもう、声すらあげない身体から伝わる残像。
『たすけ、て…、たすけっ…』
 ただそれだけだった。
 ただそれだけで、全てが理解出来た。
 部屋に佇む影に、男は詰め寄った。着物の襟を掴み、乱暴に壁へ叩き付ける。嗚咽が喉を圧迫した。吐き出す声は震える。
『何でっ、何で咲夜を喰らったんや!!』
『…なら僕こそ尋ねたい。どうしてお前はこの女を喰らわなかった』
『っ、…』
『特別な感情でも抱いてたのか?』
 外から眺めていただけの存在に、情を抱いていた。だからこそ、彼女を食らうことが出来なかった。なにが理由で顔が熱くなるのかは分からない。図星だからか、今更その感情に気が付いたからか。
 しかし男の思考を遮る様に、冷たく、憤怒も感傷もない声が響いた。
『悍ましい…』
 吐き出した声は、襖の向こうから影を貫く太刀の音に紛れて消え、
『う、ぁああ、あぁっ…!!』
 目の前に広がったのは、鮮血の紅い景色だった。




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