白鎮魂歌(完結) 忌む力 「…やっぱり、殻蟲は危険なんだ…」 「あん?」 ぽつりと零した瞬時、蘭角の眉が跳ね上がった。まるでその時の蘭角の心境を表すかの様な鋭い一陣の風が着物の裾をはためかせ、狛はどきりとする。 「今、なんて言うた…」 揺れる木々の音があまりにも不気味で、息をのんだ。確かに今、とてつもないことを口走ってしまったと自覚はあった。しかし、恐怖に煽られた感情は塞き止められない。見開かれた目は、陽桜にですら微かな畏怖の念を持って見つめている。 「おかしいじゃないか、だって。仲間同士で、殺してっ…」 「それは人間も同じやろう」 「俺たちはそんな力――」 「持ってへん、てか?」 「!」 どくり、と胸が脈打った。 乾いた声。 脳裏に蘇る朱援の言葉。 『人間と殻蟲は違う』 それを否定までして朱援と共にいることを望んだ筈であったのに。 「お前は、違うと思てんけどな…」 「っ、…」 とても小さく紡がれた蘭角の言葉が酷く傷付いた声で、それに気付いた途端に目の前が真っ暗になった。しかし、震える手をいくら握り締めようとも、安易に撤回は出来なかった。強く唇を噛み締めて悔しげな顔をする狛は、今にも泣きそうであるのに。 「俺は、殻蟲の力が怖い…」 「それで良い」 本当の思いを告げれば静かに返された言葉に、更にくしゃりと顔を歪める。そんな狛に続いて、蘭角はその時初めて乞う様な声音で言葉を紡いだのだった。 「けどな、陽桜だけはそんな目で見んとって欲しい」 あまりの声の弱々しさにか、それとも内容にか、咄嗟に狛は顔を上げた。 そこには、しかし声の様な感傷に浸った雰囲気を一つも感じ取れない雰囲気で、蘭角が佇んでいた。 「陽桜は、他人を傷付ける側の人間やない」 「…どういう、…」 「今のは、本来お前を目的としとったんやない。陽桜が狙われとったんや」 「え、…?」 蘭角が紡いだ言葉が信じられず、狛は咄嗟に陽桜へと視線を向けた。彼女自身は黙ったままでいるが、その沈黙こそが、蘭角の言葉が事実だと知らしめている様だった。 「そんなっ、…どうして…、どうして陽桜が?」 「殻蟲であれ、仲間内で揉め事起こさへん保証はない。やからこそ、俺は陽桜を晴珠から離したくなかった」 あれ程、蘭角が陽桜の同行を嫌った訳が明らかになった今、納得する所か狛の胸には更なるわだかまりが発生した。 同じ生物でありながら争うことは、認めたくないことではあるが確かに、先程蘭角が言ったように狛たち人間もすることである。しかし、だからといって、戦い合う各々をわざわざ庇う者など、存在しないのだ。 「晴珠は、ずっと昔から陽桜を守ってきた。周りに結界はって、気付かれへん様にして」 「陽桜だって殻蟲なんだから、力があるんだろう?」 若しくは、弱者を強者の手から守るのは、何か特別な理由がある場合だけだ。主従関係、特別な何か、何でも良い。とにかく、守ることに値するだけの何かが。 いちいち形にしなかった狛の問いの正体に気付いている蘭角は、眉を寄せて首を振る。 「あるけど、ない」 「…どういうことだよ」 まるで言葉遊びの様な蘭角の答えに、狛は更に訳が分からなくなり首を捻った。そんな狛の様子を見て、蘭角は噛み砕いた口調で説明を始めた。 「殻蟲には、俺みたいに戦闘能力に長けた奴もおれば、陽桜みたいに闘う力が備わってへん奴もおる。それが、陽桜や…」 蘭角が自然に指差す先を追えば、やはり何の間違いもなく、小さな女児を差している。 「力を持たへん『特別』な存在」 そして、言葉は紡がれた。 「治癒や再生を、この餓鬼は出来る」 「治癒…?」 「俺らは、いくら戦闘能力が高くても、誰かを癒すことは出来へん。やからこそ、その『特別』な血肉は、希少価値の高さから、俺らが見えるお前みたいな存在のにほぼ近い。俺らみたいな邪な血やなくて、清らかな血が流れてるからや」 区切り、蘭角は狛の目をしっかりと見据えながら言う。 「やから、殻蟲も喰いたがるんや」 「!」 狛よりもずっと幼く見えるこれほど小さい女児までもが、血腥いことに巻き込まれるのかと、愕然とした。知らずの内に与えられた特殊な力のせいで、これほどまでに個々の生き方が捩じ曲げられるのかと。 「頭のおかしい殻蟲に狙われるお前を守る様に、陽桜のことも、俺らが守ったらなあかんねや…」 まるで自らに科せられた咎を受け入れる様に、蘭角はまっすぐに前を見つめ、拳に力を込めた。 しかし、声の響きではなく、蘭角の発した『守る』という言葉に、狛は大きく反応した。忘れていた事実。何があったにしろ、自らはその力に守られる側なのだ。 暫くの間の沈黙に、狛もそれ以上の何も詮索せずに黙った。風が木々をさらい、微かな音を立てる。それと共に押し寄せた、何とも言えない感情に狛は胸が押し潰される様で、無意識に胸を鷲掴んでいた。 それならば、と思う。 それならば、もし。 朱援も狛の前で闘ったとしたら。 あの、いつもの遊戯の様な組み手を遥か通り越した、殻蟲特有の力を使って闘ったならば。自らが襲われた時、救ってくれたのが朱援だったのならば。 「…、」 朱援の力を振るった所を見たことがないから、あそこまで否定しながらも頼ることが出来るのだろうか。そう考えると、酷いものだと思える。それでは、自らが死にたくないから『仲間』を装っているかの様ではないか。朱援が目の前で力を振るえば、再び自分は彼女を受け入れられなくなるのだろうか。 「こわい?」 不意に響いた陽桜の声に、狛ははっと意識を取り戻す。 「…陽桜、…」 「こまは、ようかたちがこわくなった?」 「…かも、知れない」 それは真実だった。 しかし、 「はなれていく?」 「それはっ…、そんなことは、しないよ」 陽桜の問いにも、自らのしこりにも、否だと、そうではないと願いたい。 狛は、そう思った。 それも確かに、真実なのだ。 長い付き合いである朱援のことを狛は良く知っている。晴珠たちよりも少ないだろうが、それでもだ。しかし、彼女は一度足りとも、狛に対しても他の人間に対しても己の殻蟲としての力を振るうことはなかった。朱援を基準にして全てを考えてしまえば必ず何処からか歪みが生じて来るのは明白だ。しかし、何よりも、目の前の事実を否定して、朱援と離れてしまうことは堪えられなかった。 勝手だとは、自負している。 「こまは、しゅえんがすきだから」 「……」 狛の心の内を読んだような陽桜の声に、否定の不満も、肯定の喜びも浮かばない。 唯唯、自らの度量の狭さを呪うだけだった。 しかし、陽桜は変わらずに笑顔で話しかけてくる。 「ようかがみてきたなかで、しゅえんも、こまがいちばんすき」 「そう、なんだ…」 「ようかはみんなをよくしってる」 「どうして?」 「ようかは、せいじゅよりもながいき」 予期しなかった事実に、ぽつりぽつりと相槌を返していた狛は反射的に顔を上げた。信じられないと言った風に見つめる狛に、陽桜はころころと柔らかい笑みを返す。そして、隣りに佇みあれから黙ったままだった蘭角を指差し、続けた。 「せいじゅは、しゅえんより。しゅえんは、らんかくより、ながいき」 「なら、陽桜は、…一番、長く…?」 「俺が知ってる内でも、かれこれ二百は裕に過ぎてる」 「…、…」 ちらりと入った蘭角の助言に、更に狛は耳を疑った。四人の中で一番小さく一番幼く一番愛らしいこの少女が、まさか一番寿命が長いなどと。むしろ、殻蟲が人間を遥かに超越した寿命を持っていたことに驚くべきだったのかも知れないが、その時の狛にはなんとなくすんなりと腑に落ちたことだった。自らが幼い頃に出会った朱援が、相も変わらず綺麗であることを思えば。 「だからようかは、ひとがなにをかんがえてるか、なんとなくわかる」 「…俺は、…怯えてる?怖がってる?」 「うん」 「…ごめんね」 ならば、それ程までに長い間、命を狙われ続ける日々を送ってきたのだろうか。晴珠と出会う前など、自らを守る術すらなかっただろうに。 「でも、おなじくらいにしんじてる」 「!」 それでも彼女の唇から漏れるのは、柔らかい声なのだ。他人を信じ、ありのままに受け入れる心。 「…、良かったよ…」 健気な女児の態度に、熱くなった目尻を我慢して、狛は言葉を紡いだ。 「ありがとう、陽桜」 横では、蘭角ですら無言で微笑んでいる。 見上げてくる瞳は、こんなにも綺麗で純粋なのに。 「こわくていい。はなれてもしかたない」 どうして自分はこんなにも頭が悪く汚いのだろう。 「でも、しんじてくれてありがとう」 その言葉は、最後まで聞くことは出来なかった。 堪え切れなくなった衝動で、狛は陽桜を力一杯に抱き締めたからだ。強過ぎたかも知れない。苦しかったかも知れない。しかし、その時の狛には、加減が出来なかった。苦しいやら悲しいやら嬉しいやら、いくつもの感情が相俟って複雑な想いになる。 だからこそ、彼女を無言で抱き締めた。 こんなにも温かいのに。 生きている、という観点では何ら大差ないのに。 途端に、彼等に対する恐ろしさがすっと胸の奥に引いていくのを感じた。 「怖い殻蟲ばかりじゃ、ないんだ…」 呟く言葉の応えは、蘭角が狛の頭を乱暴に掻くことで返される。それだけで、狛が今側にいる殻蟲を信じるには十分だと感じることが出来た。 「晴珠の所に戻ろうか」 暫くの間陽桜を抱き締めたままだった狛が、空で烏が鳴くのと同時にそう言って腰を上げた。暖かな体温が離れたことからか、若しくは帰りを促されているからか、陽桜は物足りなそうな表情をして狛を見上げる。 「もう?」 「陽桜を守らなくちゃいけないのに、俺は陽桜を…自分の身を守る力すら、ないから」 「……」 しかし、狛の何処か悲しげな瞳を見て、優しく頭を撫ぜられた陽桜は、小さく頷いた。そして、踵を返して進み出した狛を見つめ、呟く。 「げんきだして。こまは、ちからがないから、やさしいの」 言葉をかけた対象は少し前を歩いていて、きっと声は届いていないだろう。しかし、陽桜は何処か満足げに、その二つの背を見つめるのだ。 タン、タン。 何処からか飛んできた鞠が地に弾かれ何度か跳ねて、やがて陽桜の足元に転がった。赤い、黄色の模様が入った鞠は、爪先を少しだけ逸れて向こうへ転がって行く。向こうからは、持ち主であろう子どもが駆けて来るのが見えた。 柔らかい笑顔、賑やかな声。 そして、その瞳には映らない陽桜。 「ねえ、せいじゅ。せかいには、こんなにやさしいにんげんもいる」 子どもたちの声に紛れ、陽桜の小さな独白は空に溶けて消えた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |