馬車馬め

私怨の籠りまくった阿部君とお仕事の話



昼食後、うんこを捻り出しているときだった。阿部は気づいた。
自分は孤独であると。
それを知らせたのは、同僚たちであった。
阿部としては、特別親しいわけではなくとも憎からず思っていた同僚たちはとにかく阿部の非社交性が気に入らないらしい。
目付きが悪い。話が面白くない。なにを考えているかわからない。
その後彼らは阿部が過去に犯した仕事上の失敗を論いながら手を洗い、クスクスと堪えるような嘲笑を残してトイレから消えた。
なぜ、出ていけなかったのだろう。
むき出しの膝を見つめ、阿部は考えた。そ知らぬ顔をして「男のくせに連れションとはいい趣味だね」と気まずく視線を交わす奴等の前で爪のあいだまでしっかりと手を洗ってやればよかったのだ。
グッと爪を掌に食い込ませる衝動と共に沸き上がってきたのは、憤りだ。
なんで、んなこと言われなきゃなんねんだ。ほっとけ!
思わず腿を打った阿部を襲ったのは、鈍い痛み。それに、惨めさだった。
阿部は彼らが当たり前にするように、コーヒー片手に軽口を重ねあうことができない。
その欠点を自覚しながらも、それでも構わないと阿部は思っていた。
仕事は辛いが嫌いではなかった。元来阿部は誰かのためになにかをするということが好きなのだ。
社会のために働いている、などという尊大な思想ではない。強いてあげるとすれば、阿部は苦楽を共にする同僚たちのために働いていた。
しかし、それは阿部の独り善がりであったらしい。

「あほくさ」

ため息をつくように呟いてみると、それは体の芯の芯まで染み渡り、阿部は後悔した。身に纏う惨めさがより色を濃くした。
それから仕事ができなくなった。
「イップス?」と思い通りに動かない指先を見つめながら思い、その後自嘲した。
言い訳だ。つまり、阿部が未熟なのだ。噂話を気に病む暇があったら、おしゃべりなその口に戸を建てるほどの仕事ぶりをみせれてやればいいのだ。しかし、今の阿部にはそれができない。圧倒的な実力不足。
もっと、上手く、やれるようになりたい。
魂が喘ぐようなこの渇望を抱くのは、初めてではない。
一度目は遥か以前、邪魔な物は全て磨り潰して進んでいくロードローラーのような俺様投手の背中を必死に追いかけていたときだ。
結局、あのバッテリーはどのような結末を迎えたか。
バッドエンドであったような気もするが、救済措置ともいえるエピローグが追加されていた気もする。
榛名、元希。
俺様投手の名前だけは、はっきりと思い出せる。忘れる方が不可能だ。感傷的な意味ではない。物理的な意味だ。連日連夜、奴の名前を見ない日はない。
そういえば、奴は夢を叶えたのだった。榛名は、今の仕事をどう思っているのだろう。
楽しいばかりでは無いだろうことは想像がつく。だが、それでも榛名は今の仕事が好きだと笑うのだろうか。
学生時代の感傷に浸りながらそんなことを考えると、阿部の抱えたやりきれなさはその大きさを増した。
そんな折りだった。
白熱灯に浮かぶ影の色さえ濃くする劣等感を引きずりながら帰宅した阿部に、缶ビールを持った榛名が「よっ」と手を振ったのは。

「久し、ぶりです」

榛名の顔を見た瞬間、言葉に詰まった。懐かしさが込み上げてきたとか、時の人に会えて感激したしたとかではない。
泥が溢れるように極めて愚かな羨望が胸に広がったのだ。

「タカヤ。オメー……」

目をぐるりと動かしねめつける榛名に、心中を見透かされたのではないかと阿部は身構えた。

「ツッカレタカオしてんなぁ」

「ぶっせーく」と頬を持ち上げられる。

「ははは……。まぁ、疲れてますよ」

そうだ。疲れている。休みが足らないんだ。毎日。毎日、逃げ出したくて堪らないんだ。仕事から。惨めな自分自身から。

「なに笑って誤魔化そうとしてんだよ」

昔から榛名に嘘や建前は通用しなかった。それに対し、忌々しい勘の良さだと思っていた阿部だったが、今ほどそれを憎らしく思ったことはない。
虚を突かれ、不覚にも涙が溢れてしまったからだ。

「誤魔化すっ! 誤魔化すだろ……! アンタみたいなよくわかんねぇ奴に!しかもずっと顔も会わせてないのに!最近どーだー? なんて聞かれたからって、馬鹿みたいにペラペラ話す悩みがあるかよ!?」

注がれる榛名の真っ直ぐな視線を阿部は見返すことができない。

「じゃあ、誰なら話すんだ?」
「…………三橋?」

水滴が落ちるように阿部の口から出た名前に、榛名は一瞬ぐちゃりと目元を醜く歪めた。

「わかった。持ってくる」

苦々しく頷いて踵を返す榛名の背中に阿部はすがり付いた。

「やめてください!!!」

三橋に、三橋にだけは、こんな情けない姿は見せられない!

「ならお前だれに話すんだよ?」
「誰にも話しません! 俺のことは放っておいてください!」
「放っておけるか! 嫌がるタカヤのほっぺたつつくのが、俺の人生の愉しみなんだよ! だからそういう顔されてっと迷惑なんだ!」

「帰れ!」と阿部が叫ぶよりも早く、榛名の逞しい腕が伸ばされがっしりと抱き締められた。
その力強さに心ごと締め付けられ、絞り出されるように溢れる涙が量を増した。

「やめろ。はなせ。離せ、離せって……」

もがく間にも、涙は榛名のシャツを濡らしていく。それが、情けなくて恥ずかしい。

「なんだよアンタ……。うぜぇ、クソッ……」

榛名が同情してくれているのは、わかっていた。しかしその同情を受け入れるのはあまりに屈辱的だ。

「今日、来てよかった」

そう呟いて榛名は腕に力を込めた。そうされることで阿部が抵抗できなくなることを知っているのだ。卑怯者め。

「くそ、ばか、アンタになにが……。俺は、おれは……」

やがて阿部は疲れてしまった。万が一にも榛名を傷つけないよう手加減して暴れるのにも虚勢を張るのにも。

「仕事、やめてぇ……」

それはずっと堪えていた言葉であった。蓄積した問題を文明ごと燃やしつくすような救いの言葉。

「仕事も、あいつらも、自分も……、いやだ。もう全部投げ出してぇ……」

一度吐き出した感情を止める術を知らずわんわんと泣き出す自分を、愚図る子供だと阿部は思う。ならばいっそ子供らしく、阿部は力一杯榛名の胸にすがった。
榛名は否定も肯定も叱咤も激励もしなかった。ただずっと、阿部を抱き締めていた。
その夜は、そのまま榛名に抱かれて寝た。


朝。なんとなしに分厚いカーテンを捲ってみると、湿っぽい日陰を容赦なく照らす黄色い朝日が目に刺さった。
不思議と、悪い気はしなかった。なんだか付き物が落ちたような心持ちであった。
泣くことにはストレス解消効果があるのだという。つまり、そういうことだろう。阿部は冷静に分析する。

「……仕事、いってきます」

しかし、素直に涙を流せたのは感動的な映画やヒーリングミュージックのお陰ではなく、コイツが涙の受け皿となってくれたからだろうと、阿部はすやすや動く榛名の肩を擦り耳元で囁いた。
上手くできなくていい。ただ、頑張ろう、と思った。
昨日の自分がどれほど不甲斐なく認められなかったとしても、今日の自分を諦める理由にならない。努力は積み重ねるものであるはずだ。
まだ、リタイアするには早い。阿部自身がまだ諦めたくはないのだ。

「元希さん。……アンタが来てくれて、よかった。アンタ、本当はなにしに来たの? どうせたいしたことじゃねぇんだろうけど……。――今度は、アンタの話し、聞かせてください」

俺はまだ、これからであるはずなのだ。
あのバッテリーの物語さえ、まだ結末を迎えていないらしいのだから。



[*前へ]

第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!