ホムンクルスは何処へ?

"それ"に手首を掴まれた瞬間、阿部は思わず悲鳴をあげそうになった。
すんでのところで声を飲み込み、阿部は動揺を悟られまいと静かに息を吐く。
恐る恐る振り返ると、つり上がった右目が阿部を捉えていた。
では、左目はどうしていたかというと、本来左目があるはずの場所は後頭部となっていたため、確認することができなかった。
前を向いた右半身と後ろを向いた左半身の繋ぎ目というべき人中は、クレヨンで塗り潰したように黒く歪んでおり、そこから無数の目が覗いていた。恐ろしいのは、狂暴な光を宿しギョロギョロと動くその目のどれも阿部を見ていないことだ。
人差し指を立てるよりも早く数えることを諦めるほど、目は存在している。それだけあれば、どれかと目線が合ってもいいはずである。否、合うのが普通である。しかし、目は一つとして阿部を写さない。
阿部を捕まえた"それ"は、先細りになった洞窟から聞こえてくる悲鳴のような声で何やら鳴くと、掴んだ手はそのままにずんずんと歩き始めた。
進む先には、ファーストフード店があった。
引きずられる阿部は、掴まれた自分の手首に目を落とし、"それ"に触れられているという事実に、ゾッと肌が泡立つのを感じた。

仕方なく頼んだコーヒーは、ただ毒々しい刺激だけが粘膜を侵していくばかりで味が感じられなかった。
目の前に座る"それ"に対する感情が舌を痺れさせているのだろう。
先程掴まれた手首を無意識に阿部は撫で擦る。そこから体が腐りだしているような気がした。

「」

"それ"がまた鳴く。
黙っていると"それ"は先程より強い調子で鳴いた。
阿部の内臓が震える。生理的な恐怖、嫌悪、不快感。
"それ"を怒らせるのは得策ではないと思う。阿部は歪む顔の筋肉を笑顔に上書きすると「はぁ」と、曖昧に相槌を返した。

「ったく、返事くらいしろよ」
「はぁ」
「わかりゃあいい。んでさ。……さ、最近どう?」
「はぁ」
「……あ!別に、探りいれようってワケじゃねーかんな!」
「はぁ」
「ただ、なんか、なんとなく、どうしてるか、と、思って」
「はぁ」
「ケータイ連絡しても、お前でねーし」
「はぁ」
「い、いっとっけど、お前んこと気にしてるとかでもねーぞ!」
「はぁ」
「わかったら、今度から電話出ろよ」
「はぁ」
「あと、俺が呼び出したらすぐこい」
「はぁ」
「暑い日だったら、アイスも買ってこい」
「はぁ」
「なんだよ?今日はズイブン、ジュウジュンじゃねーか」
「はぁ」
「タカヤにもやっと俺のありがたみがわかったのか?」
「はぁ」
「ホンライなら遅ぇって言ってやるとこだけど、あのクソナマイキさが始めだからな。誉めてやるよ」
「はぁ」
「嬉しそうな顔してんじゃん」
「はぁ」
「……ところでお前、俺の話聞いてねぇだろ?」

「はぁ」と阿部は答える。
阿部の笑顔は榛名にとって希少価値のあるものだった。目の前で大安売りされるその顔を榛名は凝視した。明らかな作り笑顔。榛名に向けられているようで誰にも向けられていない空っぽの笑顔。
榛名の背筋を冷たいものが通り抜ける。まるで異形のものと対面しているような気がした。
気づけば恐怖に手が震えていた。榛名は握りしめていた左手を慎重に開くと、強い決意で"阿部"に目を向けた。
阿部の肩に左手が伸ばされる。

「……っ、触るな!」

その手が自分に触れようとしているのだと察した阿部は、反射的に振り払った。パシッと軽い音が鳴り、手が引っ込められる。

「す、すいません……」

しばらくのあいだ歯を食い縛っていた阿部は、ハッと眉を持ち上げると消え入りそうなほど小さく薄っぺらな声で言った。
叩いた際にまた"それ"に触ってしまった。手首だけでなく、今度は指先が腐敗していく。
怪我でもしたかのように"それ"と接触した箇所を撫で擦ることを阿部はもうしなかった。代わりに、その部分は自分の体ではないというように不自然な位置に右腕を置いた。
取り繕うために浮かべた笑顔の下で、阿部は思う。
キモチワルイ。


その様子を遠目に見ていた二つの人影。西浦の野球部員だ。
二人は話す。

「あれ、あの二人……」
「阿部とハルナさんだ」
「あの二人、仲悪くなかったっけ?」
「二人ってか、阿部が嫌ってんでしょ」
「でも阿部、スゲー笑顔じゃん」
「仲直りしたってことじゃないの?」
「そっか、そうだね。あんなに仲良さそう」




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あきゅろす。
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