ヘルペスとヘルスは一文字違い

『ぬきぬきメモリアル』
それが阿部の働くファッションヘルスの名前だ。

「阿部くん、お客さんだよ」
「えぇ、こんな時間にですか?」

時計の針は、閉店時刻三十分前を指していた。

「ああ、君をご指名だよ」

その言葉に阿部はとびきり残酷な気分になり、立ち上がった。
阿部には二つの秘密があった。
一つは、キスやペッティング等のサービスを原則とするファッションヘルスで、本番行為を許していること。
程無くしてやって来た男は、どんぐりの木のように逞しく背の高いなかなかの美丈夫だった。とはいっても、肝心の顔の方は鼻の頭まで伸びた長い前髪に隠され、窺い知ることはできないが。見辛くないのだろうかと阿部は思う。

「俺を指名したってことは、そういうことだよな?」

行為を行う度に「この事はナイショ」と釘を刺すのに、一体誰が口外してくれたのか。
阿部が本番を許しているという話を聞き付けて、快楽に飢えた男たちは下世話な笑みを浮かべながら次から次へとやってくる。
まったく馬鹿な男ども。その欲望がどのような結果をもたらすかも知らないで。
阿部のもう一つの秘密。それは、一度感染したら最後、一刻も早く自殺することが最良の選択といわれる厄介な性病に感染していることだった。

お前も死ね! と阿部は男を、世界を呪う。
ここに流れ着くよりずっと前。五年前か。いや、八年前か。十年前だっただろうか。病気は阿部のせめてもの持ち物だった思い出すら奪っていた。
阿部には将来を誓いあった恋人がいた。名はたしか榛名元希といった。
榛名はある病に冒されていた。
命に関わるものではないが、放っておけば失明する危険があるという。大きな病院で手術をすれば治るらしいが、それには莫大な金が言った。

「どうするつもりですか?」

榛名というのは、猫のようなつり気味のアーモンド目が特徴的な男で、その目の活き活きとした輝きはいつだって阿部を魅了した。

「そりゃ、なんとかして金作るに決まってんだろ。このまま目が見えなくなるの、待てってか?」
「あんな大金、どうやって」
「バカか、お前。働く以外にどんな方法があるよ」

隈の出来た目が、ジロリと阿部を睨む。

「だからって、今の調子じゃ……。目が見えなくなるより早く、アンタ倒れちまいますよ」

朝昼晩と身を粉にして榛名は働いた。阿部も一緒になって働いたが、それでも手術代には到底及ばなかった。
だからといって、働かないわけにはいかなかった。体を動かすことで、現実から目を背けようとしていたのかもしれない。
そうしているうちに、背けた先の景色すら見えなくなる日は確実に近づいていた。

「目が見えなくなったら、アンタは俺と誰かの区別もつかなくなるんだな」

ある時、阿部はポツリと漏らした。
榛名は振り向き、もうすっかり見えなくなった目を凝らしてみたが、一メートルほどしか離れていないというのに阿部がどんな表情をしているのか。――泣いているのか、あるいは気をおかしくして笑っているのかさえ確認することができなかった。
榛名は無言のまま阿部に近寄ると、目を瞑り、阿部の骨ばった額から鼻骨、凹凸のはっきりした目蓋を指でなぞった。

「こうすればわかる」

そうして笑った榛名の目には、きらきらといくつもの星が輝いていた。それはおそらく、阿部の目からあふれ出る涙のせいであるのだが、この輝きを失わせてはならないと阿部に決意させるには十分だった。
そして阿部はこの世界に落ちた。榛名の前からは姿を消した。
例え榛名の目が治っても、このような穢れた体では彼のあのキラキラと輝く瞳の前には立てないと思った。
それまで経験したどの仕事よりも辛かったが、その分実入りのいい仕事で得た金のほとんどを、阿部は榛名のもとに送り続けた。
そうして数カ月が経ったころだった。榛名が失明したと聞いた。
手術が失敗したのだという。

そして、阿部はこの店で朽ちていく。
神も仏もないこの世を恨み、淫乱な天使の顔で悪魔の病気を振り撒きながら。
男は、酷く純情なタイプらしかった。阿部が身を委ねるようにして抱きついても、唇を震わせるばかりで抱きつき返してすら来ない。
焦れた阿部が押し倒し無理矢理行為を進めると、やっとその気になったのか積極的に動き始めた。童貞かぶれのくせにテクニックとチンコのデカさはかなりのものであったと思う。

「……おい、そろそろ放せよ」

行為が終わった後というのは、付きものが落ちたような顔で煙草をふかす男の未来を内心で嘲笑いながら想像する時間のはずだ。
だというのにこの男は、阿部を抱きしめたまま離してくれない。

「放せって」
「いやだ」

その声に、阿部は病気で蕩けた脳みそに波紋が広がっていくのを感じた。長い前髪の隙間から、男の目が見えた気がした。
榛名は、阿部の骨ばった額から鼻骨、凹凸のはっきりした目蓋を指でなぞると、あの時と同じ笑顔で言った。

「やっと見つけた」




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あきゅろす。
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