醜悪な男
「花井、明日泊めてくれ」

雑巾を手に這いつくばった俺の前に、箒を片手に立ちはだかった阿部がとても頼んでいるとは思えない態度で言い放った。

「明日、家族全員家にいねぇんだ。だから、泊めてくれ」

理由をききたいわけではなかったのだが、憮然と答えた阿部は「駄目ならいい」と、少し眉を下げながら言った。

仰ぎ見る阿部の顔は、冷淡さが強調されて怖いくらいなのだが、少し眉を下げただけのその表情はなぜか猛烈に加護欲を刺激されるものに変わっており、思わず「いいけど…」と言ってしまっていた。

「いいけど」の「ど」を言うか言わないかというところで、阿部の表情は元の冷淡なものに変わっており「ありがとな」と言って素っ気なく背中を向けてしまった。

阿部にはああいうところがある。
阿部に加護欲を感じるなんて、ゴキブリに加護欲を感じるくらいあり得ないことなのだが、まるで心の隙間から溢れるように阿部に対して加護欲が湧き上がることがある。
計算ずくのようなその仕草に多分、阿部自身も気づいていない。
その無防備さにこそ、加護欲がそそられているのかもしれない。

そんなことを考えていると、阿部が水谷の尻を箒で思いっきり殴っているところだった。



阿部を家に泊めるということのもつ意味に気づいたのは、家族にその旨を伝えたあとだった。

阿部には付き合っている人がいる。
それだけなら、阿部が俺の家に泊まることになんの問題もない。俺と阿部は男同士なんだから…。

しかし、阿部の付き合っている人というのは、男なのだ。
そうすると、阿部が俺の家に泊まるということは浮気、ということになるんじゃないだろうか。

いや、阿部には間違いなくその気はないはずだから浮気ってことはないのかもしれない。しかし彼氏の目からみたらどうだろう。
少なくとも、喜びはしないだろう。

いやしかし、相手が不快に感じたら浮気では、世の中には浮気に確答する事柄が多すぎるだろう。
先にいったように、阿部は俺に対して完全にその気はないはずだから、これはあくまでも男子高校生同士の健全で一般的な付き合いであって、決して浮気ではない…。

しかしでも、阿部にはその気がなくても俺には、……いや違う!………。



「おはよう、って、どうした?」
「どした花井ー?寝ぶそくー?」
「うっす、花井。やつれてんな」

お前のせいでな!

いつものように帽子を後ろに被り、トンボを持った阿部は特に心配そうな様子なく言った。
ほんとにお前は三橋のことにしか興味ないんだな…。

「あんさ、今日泊まりにくるのって…」
「あ、やっぱダメか?」

阿部はまたあの眉を少し下げた不安げな表情をした。昇ったばかりの朝日が阿部の顔を柔らかく照らしている。意外とでかいたれ目に入り込んだ光は阿部の目をキラキラと光らせている。

「…いやぁ、家族全員楽しみにしてるってよー…」
「他に泊めてくれるとことかないのか?ほら、榛名さん家とか…」という俺の台詞は胃袋まで引っ込んで溶けてしまった。

「そっか。よかった」

果たして本当にこれでよかったのか!?という俺の僅かな後悔は、珍しくニッコリ笑った阿部の笑顔に完全に息の根を止められてしまった。

「それにしても家族仲いいよな。あ・ず・さ・ちゃん」

いつの間にかいつもの黒い笑顔になってしまった阿部は、肩を震わせながら一言一言区切るように言った。先程の阿部を照らしていた朝日は今度は阿部の表情を凶悪に見せるように照らしている。

さっき感じた俺の感情はなんだったのだろうなぁ…、と裏切られたような気持ちになった。
今更だけどな。



「あれ?珍しいね阿部。どっか寄ってくの」

部活が終わって、部員全員(田島除く)が死にそうになりながら帰路につくとき、いつもと違う方向に自転車を引く阿部を不思議に思った栄口が声をかけた。

「あ〜、お〜、今日花井んちに泊まる〜」

ぼんやりと答えた阿部にその場にいた全員が色めき立つのがわかった。
360度から浴びせられるジトーーーとした視線が背中に刺さる。

阿部に付き合っている人ががいることは、部員全員が知っていることだ。
なぜなら、彼氏本人が部員全員の前で「タカヤは俺の彼女だからな」と口角をひきつらせるように凶悪に笑って言ったのだ。

あれはきっと、阿部の無防備さを危惧したあの人の俺たちに対する牽制だったのだろうなと今ならわかる。
鉄砲を背負っていると見せ掛けて、ネギと醤油まで背負った鴨である阿部が、あの人は心配で心配でたまらないのだろう。
そしてその心配は正しい。みんなネギと醤油を背負った鴨の色香にすでに惑わされている。

あの歪んだ笑顔は榛名さんの独占欲だけでなく、気苦労が滲んだ結果なのだろう。
さらにややこしいのは、この出来事は阿部本人がいないあいだに行われたことだということだ。
阿部は自分とあの人が恋愛的な関係にあることを、当人以外が知るはずがないと思っている。

だから俺たちは、この問題についてあまり深く踏み込めない。(田島除く)

『男なら誰でも、アリなの?それとも、…榛名さんじゃないとダメとか?』
『俺のことどう見てる?ただのチームメイト?』
『俺が阿部のことそういう目で見てるっていったら阿部は俺のことそういう目で見てくれる?』

ききたいことは山ほどあるのに、自分がホモだと回りにバレていた男の心境を考えると今一歩踏み込めずにいる。
いや……、これは言い訳かもしれないけどさ…。



「花井ズッリーーーー!!」

言いたいことはあるのだが言葉を選んでいる全員の心境を端的にまとめた田島が、ご近所に響き渡る声を出した。

「あべー、何で花井んちなの?俺ん家泊まりこいよ」
田島は基本的に感情を隠さない。見栄や恥という概念事態が存在しないのかもしれない。
阿部の自転車の荷台に飛び乗って阿部を引き留める田島を、恐らくその場にいた全員が羨ましく思った。

「あ!べくんっ!俺ん、ち!!」

三橋も阿部に対しては堪えの効かないというか、なりふりを構わないところがあるので試合以外ではきかない大きな声で叫んだ。

「ん、みはし…」

眠気を醒まそうとトロンとした視線をさ迷わせる阿部の目が俺の前で止まったことにドキリとした。

「いや、もう花井んちに泊まる…」

取りつく島もなく断られ、むぅっと口をつぐんだ田島は一瞬俺を睨んだ。三橋は言わずもがなその猫のような目をギラつかせて俺を見ている。
その目はもちろん「阿部に手ェだすなよ」と言っている。

「じゃあ、今度は俺んち泊まれよ!」
「ん、わりぃな…。じゃあ今度からそうする」
「阿部くん!俺、のっ…!」
「お〜、じゃあみんなで泊まろうぜ…」
「「そういうことじゃ、ない!」」

田島と三橋が声を揃えて叫んだ声はかなりのデカさになったのだけど、眠気を醒ますことを諦めて、上半身をほとんどハンドルにあずけた阿部には届いていないのだろう。
完全に能動で「おー」とだけ返事をした阿部は

「花井行こうぜ…」

と自転車をこぎ出した。

…背中に刺さる視線が痛すぎる。




ちなみに、翌日部員全員に体育館裏まで呼び出され、事情聴取を受けた。

天に誓って言おう。昨日、特別なことは何一つなかった。
強いて言えば、家の女どもがあり得ない熱烈さで阿部を歓迎して死にたくなった。阿部も無駄な外面の良さで対応して、はしゃぐ女どもの声にさらに死にたくなった。

放課後、どこから聞き付けたのか(多分阿部から)阿部の彼氏さんからも事情聴取を受けた。
死ぬかもと思った。



「花井、明日空いてるか?」

箒を手に屈んだ俺の前に、黒板消しを片手に立ちはだかった阿部がとてもきいているとは思えない態度で言い放った。

「明日、ドームのチケット貰ったんだ。だから、遊びいかね?」

この前、死にたくなったし死ぬ思いもしたはずなのに、阿部のちょっと眉を下げた例の顔に思わず「ああ」と言ってしまっていた。


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