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あたたかいみるくをください
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 やけに喉が乾いていた。
 重苦しい頭痛が、頭蓋骨の内側から放散するようにこめかみにまで響く。
 周囲は静かで、ひんやりとした独特の水場の匂いがする。
 そんな静寂な環境にもかかわらず、甲高い耳鳴りがして気分が悪い。
 気付いたときには彼はトイレの個室で便器に座っていて、錆びた歯車のように回転の悪い思考で、少し前までの記憶をたどっていた。
 便臭が個室に充満して鼻につく。身体は冷えていた。一体どれだけの時間こうしていたのか見当もつかない。
 ヤバイなあ……。と思う。
 どうしようもなく途方に暮れて落ち込んでいると、不意に頭の上から誰かが呼びかけてきた。
「お客さん……大丈夫ですか?」
 見上げると、レストランの給仕をしていた青年と目が合った。この状況があまりに常軌を逸していたため、誰かが個室の上から覗いてきたとしても不自然に感じることができない。
「大丈夫」
 答えてはみたものの、多分大丈夫ではないのだろうと思う。この時初めて眼鏡がずれていたことに気付いて指先で戻した。
 視界が戻ったのに、相手の表情が判別できなくてぼんやりしている。
「……あの、お連れ様がお帰りになられまして」
 青年が言葉を選びながら用件を伝えようとしているのが分かった。
 今の自分の状態と、頭上の人物。それだけで予想は付いた。
「戻られないお客様を心配されていまして。わたしに様子を見てきてほしいと言われましたので……」
 心配なら先に帰るなよ。と、彼は都合よく『いいひと』だけは演じておきたい女の保身を察して落胆した。やっとデートにこぎ着けたのにこの失態だ。後は無いのだろうと思う。
 気落ちして俯くと、ズボンと下着を下ろして性器を出したままの自分に改めて気づいた。本当に、どうしてこんな状況なのか分からない。
 排便して気を失ったらしいことは理解できる。勢いよく排便するとき、時折こんな症状に見舞われた。完全に失神しなくとも、気が遠くなるような不快感があった。
 迷走神経反射。医者にはそう言われた。
 彼は過度に緊張する癖があって、緊張すると腹を下す。自分ではそんな繊細な神経を持ち合わせているだなんて思ってもいない。しかし、彼は精神状態をすぐ身体に反映してしまう、はなはだ厄介な体質だった。
 今回はそのコンボか……と思ったが、便器をはるかに越して自分の足元にまとまっているズボンが、どうして濡れているのかが理解できない。しかも、大腿部に白濁した体液が付着して冷たくなっている。こんな状態は初めてで彼は混乱した。
 混乱したが、とりあえず水を流して汚物を処理した。
 その動作を見届けた青年は、彼が正常な精神を持って動き出したと判断して隣の個室から手洗い場に出た。
「――あの」
 彼は、遠慮がちに声を掛けた。もういなくなってしまったかと思ったが確認したかった。
「はい」
 すぐに返事があった。彼は藁にも縋る思いで青年に申し出た。
「……助けて、くれますか?」
「どうしました?」
「服が濡れて……」
「服?」
「あ……や、あの……」
 子供じゃないのに粗相をした。それは言い出しにくい。
 しかし、子供じゃないのだから、はっきりと用件を伝えなければならない。
「ズボンと下着が汚れてしまいました。替えは……持っていないので。どうしたらいいのか……」
 結局は子供のように途方に暮れていると伝えなければならなくて辛い。ドアの向こうでは、青年があざ笑っているのだろう。それとも、嫌悪されているのか。
「……そうですね」
 真摯な声が返ってきた。意外すぎて驚いたが、それは共に思案してくれているようで心強い。
「少し待てますか?仕事はもう終わっている時間なので、色々と済ませてきたい」
「はい。お願いします」
 彼はその返答に希望を見出して、泣きだしそうな声で青年を送り出した。




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