Dear heart
曖昧な境界線 3
緒方は突然の事に驚き過ぎて、身動きひとつ出来ない。
ふんわりと押し包む唇の柔らかな感触が、あまりにも優しくて緒方を混乱させる。
友人であるはずの日比野からのキスに、ときめきさえ感じてしまうなんてどうかしている。
そんなふうに自分の感情を否定しながら、キスという行為そのものへの疑問すら抱けないまま、与えられる柔らかいぬくもりに陶酔していた。
「──緒方」
キスが離れて日比野が耳元にささやいた。
そして、そのまま抱き寄せられて、重心が変わって支えきれない身体がソファーに崩れた。
そのままソファーに押さえ込まれて、ふたたびキスが贈られる。
やがて、そのキスは緒方の肌をついばみながらゆっくりと首筋を滑り降りた。
衿元を吸われて、ゾクリとした快感に思わず首をすくめた時、緒方の口から甘い声が洩れた。
緒方は自分の反応に狼狽した。
自分のこんな声を聞くのは初めてで、与えられる快感に身体の熱が上がって、とてもいけない衝動に駆られている。
日比野相手に欲情してしまうなんて、どうかしている。
混乱を与えられた緒方は、感情と身体の高まりを自制出来ずに、涙目になっていた。
緒方の動揺はすぐに日比野に悟られた。
煽られたのは日比野も同様だった。
与える愛撫に、甘い喘ぎで応える相手を放っておけるほど、日比野はドライではない。
「緒方……」
身体を重ねると、互いの昂まりが触れ合う。
緒方の高揚を知って、日比野は艶然と緒方を見つめた。
「──もっと、気持ちいい事しよう」
熱い身体を抱きしめて、緒方の唇を塞ぐ。
中に忍び込んで、緒方を導いて誘い込む。
舌先から奥まで吸われて撫でられるうちに、緒方は目眩を起こしそうになる。
シャツのボタンが全て外されて、中のTシャツの裾を剥いで、温かい手が滑り込んできた。
「ん……」
塞がれた声が行き場を失って咽びに変わる。
巧みな愛撫に興奮しすぎて過換気気味になった緒方が、キスから逃れるように顔を背けて喘いだ。
「日比野」
高揚した感情によって声があえかに震える。
「なに?」
低く、甘い声が応えた。
「どうして……こんな」
「おまえが好きだから」
頬にキスをして、当たり前の事のように答えた。
緒方は、須田の言っていた快楽を共有する友情とやらを思い出した。
この、訳の分からない衝動まで友情でひとくくりしてしまうなら、恋愛感情と友情との境目とは一体何なのだろう。
緒方は、分かっていたようで、分からなくなってしまった。
「──好きだよ、緒方」
ごちそうさまと言いたくなるほど、限りなくキスが贈られて、滑り落ちる愛撫がベルトを外してきても、それが自然の事のように感じてしまう。
そっと下着の中にまで指先が忍び込んでやんわりと撫でられると、緒方はさらに吐息とともに甘い喘ぎを洩らした。
「──ん……ぅあ」
優しく与えられる愛撫は焦れったい。
快感を感じていながら、それ以上の快楽が欲しくなってもなかなか与えてはもらえない。
「日比野……」
緒方は、身の置き所が無くなるほどの焦れったい快感に煽られて、思わず日比野に縋った。
日比野は満足そうに微笑んでから、緒方のシャツとズボンを剥ぎ取り、戸惑う緒方の目の前で、日比野も着衣の全てを脱ぎ捨てて、ふたたび緒方と肌を合わせた。
「日比野……これじゃまるで」
緒方が戸惑いを伝えてくる。
「セックスしているみたいじゃないか」
発情して潤んだ目元が、たまらなく淫らに誘っているくせに、今さらそんな事を言い出す緒方の純情が、日比野にとっては可愛すぎて、笑えてしまう。
日比野はあえて、緒方の感性にレベルを合わせた。
「このほうがムードが出るからいいんだ」
「こんな明るいところで……」
「おまえのいいカオが見たい」
「外から見えるよ」
「部屋の中は暗くて見えない」
「でも……」
今までは何もかも忘れて快楽に没頭していたくせに、脱がせた途端にゴチャゴチャうるさい。
日比野は仕方なく中断して、緒方を担ぎ上げた。
そしてそのまま寝室に入って、緒方をベッドに降ろしてから、寝室のカーテンを閉めてベッドに戻った。
「これならいいだろう」
迫る日比野の全てを直視してしまった緒方は、衝撃のあまり全身が熱くなった。
対面する男の身体は割れた腹まで自分の理想型で、かと言ってこの状況を享受できるかは別問題で、だいたい他人のそんな臨戦状態を目撃してしまったのは初めてで、しかもそのリビドーの矛先が自分に向けられている逃れられない事実に狼狽してしまう。
緒方は混乱しすぎて、どこに問題を絞って驚いていいのか分からない。
「あ……あの」
「もうこれ以上文句を言うな」
日比野は緒方の逃げ腰に先制して釘を刺してから、艶のある微笑みで誘惑して黙らせた。
緒方は逃げる事も出来ないまま、日比野の手に堕ちていった。
「ちゃんと満足させてやるから、黙って任せてろ」
キスで押し倒されて、緒方の身体がシーツに埋もれた。
抱き寄せられてもぐり込んだベッドの中は、ひんやりと冷たくて肌のぬくもりが恋しい。
思わず寄り添うと、日比野の愛撫に昂められて、ふたたび全身が熱くなった。
すると、毛布の中にいるのが暑苦しくなって、身体を覆っていた寝具を隅に押しやってその肌を外気に晒した。
ソファーよりもずっと広いベッドの上では、窮屈で焦れったかった日比野の愛撫を自由にさせる。
身体の隅々まで愛されて、確実に押し寄せる快楽は、緒方のそれまでの迷いを忘れさせるには十分だった。
強く抱きしめられて、日比野の熱さを感じる。
官能を鷲掴みされて、快楽だけに自分の全ての感覚を集中させて、緒方は日比野の愛撫に溺れていた。
こんな行為に理屈をつけようとしても、簡単に答えは見つからない。
好きだったのに、突き放された自分がいた。
忘れられない愛のためにひとりの女を不幸にしておきながら、独りでは生きられなくてぬくもりを求める日比野がいた。
それでも、互いを求めているのは紛れもない事実で、求める理由がすれ違ったままでも、押し寄せる快楽には抗えなかった。
「──日比野」
日比野の腕に抱かれて、日比野を求める声がさらに愛撫を熱くさせる。
愛されながら、悲しい別れを思い出した。
また、あんな思いをするのだろうか……。
繰り返される悲劇を想って、緒方は複雑な感情に支配された。
快楽と、指先まで痺れるような甘い痛みに、全身が戦慄く。
本当に求めていたのは何だったのだろう。
ただ、傍にいてくれるだけで良かったはずの望みが、誘惑に歪められて色を変えた。
今はただ、迫り上がってくる欲の塊を吐き出してしまいたかった。
与えられる快楽に酔わされながら、不意に緒方の脳裏に、ある言葉が浮かんできた。
『──本当に好きなオンナとするのが、一番キモチいい……』
大学時代の友人が、のろけながら話していた言葉。
緒方は今、初めてその想いに共感した。
オンナではないけれど、一番好きで、一番安心できて、たぶん一番大切にしたい相手。
だからこんなに気持ち好くて、いけないと知りつつも拒絶なんて出来ないのだと思える。
緒方は、素直に日比野の肩に縋った。
やがて、身体の内側から這い上がってくる、溶け落ちてしまいそうな快楽の疼きに呑み込まれて、日比野の手がふたりを導くように衝動を伝えてきた。
昇り詰める緒方の切ない表情に日比野まで煽られて、いつのまにか極上の官能をもたらす緒方の姿に夢中にさせられる。
耳元を熱くする互いの甘い喘ぎが、何もかも忘れさせて辿り着く先を求める。
安心感と一体感の中で、弾けそうなほど膨らんだ欲が熱塊を通り抜けた。
それが、総身を貫く爆発的な快感と共に、熱い迸りとなって吐き出されて、ふたりの身体の隙間を埋めるように満ちていった。
気だるい充実感が全身を包み、熱を孕んだ身体を重ね合わせて、ふたりは快楽の余韻に酔っていた。
動悸に揺さぶられる胸が、昂まりの名残をとどめている。
「好きだ……緒方」
日比野が緒方を抱きしめたままささやきを贈って、緒方の汗ばんだ額にキスで優しさを伝える。
緒方の胸が、不意に絞られるような痛みを覚えた。
それでも、抱きしめられて日比野の体温に包まれた緒方は、満ち足りた幸福感に陶酔させられた。
暖かいベッドの中で、肌を寄せ合って眠りにつく心地よさは何ものにも代え難い。
この感情を理屈で整理しようとしても、やっぱりまだ分からないままで。こんな事で傍にいることを許されるなら、それも悪くないか……と、緒方は思い始めていた。
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