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Dear heart
曖昧な境界線 1



現実の日常がふたたびやって来て、緒方はいつもと変わらない仕事に忙殺されていた。
それなのに、時々集中力が薄れて、ぼんやりと考え事をしてしまう。

あの日、日比野の部屋に泊まって、何事もなかったように朝を迎えた。
ベッドの中で目覚めると、相変わらず爽やかな日比野は先に起きていて、緒方に朝食をすすめてきた。
その様子は、昨晩の甘い交歓など微塵も感じさせないで、かえって緒方を戸惑わせた。

あれは酔った勢いだからとか、悪ふざけが過ぎたなどの弁解は一言もなく、ただ穏やかに笑って自分の傍にいる日比野に対して、緒方の方が気まずく感じてしまった。

居心地が悪かったり、憤慨しているという訳ではない。

ただ、なんとなく照れくさかったのだ。



「──緒方。会計たまってるぞ」

オーダリングシステムの入力確認画面に向かって、ぼんやりと物思いに耽っていると、先輩の檄が飛んできた。
気が付くと、自分の脇にある会計カルテの数が倍に増えていた。

「すみません。急ぎます」

緒方は気持ちを改めて端末に向かい、作業のピッチを上げて、入力を急いだ。
各外来からの問い合わせの内線電話に対応しながら、瞬く間に午前の診療が過ぎて行った。



「ここ、空いてる?」

昼休みになって、職員用のカフェテリアで昼食を摂っていた緒方の前に、トレイを持った看護師の市村が現れた。

そこは、約100席近いスペースがあり、昼食時の賑わいを見せている。

「あ……はい。どうぞ」

緒方が応えると、彼女はテーブルの向かいに座って、食事を始めた。

「──どうしたの、緒方くん」

「え?」

ずっと考え事をして食事が進まない緒方を見て、市村は案じていた。

「仕事中も上の空だったじゃない?めずらしい」

内科受付カウンターにいた市村には、同じカウンターの中で業務に就いていた緒方の様子がまる分りだった。
考え込んで手が止まったり、突然何かを思い出して赤くなったりと、緒方の百面相はそわそわとして落ち着きがなく、市村に対してある予感を抱かせていた。

ばつが悪い。

そんな緒方の表情を読んで、市村は笑った。

「恋でもしたの?」

「こい?」

緒方は驚いた。

友人の気持ちが分からないで悩んでいた。
過去、自分を突き放していながら、ありったけの情を見せてきた日比野の本心が掴めないで、一体どういう事なのかと当惑していた。
それを恋などと言われてしまっては、さらに混乱してしまう。

「──違いますよ」

「元気ないじゃない。らしくない」

「そうですか?いつもと変わりないです」

「食事がすすんでない」

「いえ、そんな事は……」

大人の女の直感は鋭い。
恋かどうかはさておいても、緒方の内面の変化は市村が指摘する通りだった。

市村は、興味本意で関わってきた訳ではない。
本当に自分の事を気にかけてくれているのだ……と、分かっている。

歯切れの悪い緒方の言葉で、市村はクスッと笑った。

「今日、準夜診療でしょう?緒方くん」

「はい」

「わたしも担当なの。外来が終わったら一緒にごはん食べに行こうか……。奢るわよ」

穏やかに笑う市村の優しさが嬉しい。
こんな誘いを断れる訳がない。

しかし、少しだけ照れくさくて、即答できずにいた緒方の横から、その会話を聞き付けてきた事務員ふたりが話に割り込んできた。

「あ、いいなあ。俺たちも準夜当番なんですよ。奢ってください、市村さん」

臆面もなく相伴に預かろうとするふたりに、市村は呆れた。
そして、仕方ないとでも言いたげな表情で、市村が了解して返すと、ふたりは嬉しそうに笑顔を残して、席を離れて行った。

緒方は、先輩たちのその図々しいほどのたくましさに感心してしまった。



外来診療が終わってから、緒方は市村たちと共に、病院近くの居酒屋に足を運んだ。

同行した先輩ふたりは、今年5年目の佐川と谷村。
医事課では、淡々と仕事をこなす有能さが評判で、ルックスも揃って整っているクールな男性職員として、女性職員や患者からも慕われている。

緒方は、この先輩たちには一目置いていた。

仕事をしていても、本当に仲がいいこのふたりを見ていると羨ましくなる。
公私共に影響し合い、支え合っているその関係は、緒方にとっての理想の在り方だった。

市村に連れられて、病院の近所にある居酒屋ののれんをくぐると、そこには見知った先客がいた。
産婦人科外来の主任助産師寺崎瞳と、産婦人科医師曽我柊司が、小上がりで杯を酌み交わしている。
曽我の隣には、最近入職してきた眼科医師の須田将人が座っていた。

「あら、市村さん」

寺崎が市村に気付いて笑顔で迎えた。

「若い子連れて、逆ハーレム状態じゃない。……羨ましい」

市村の連れを見てニヤリと笑う。
そんな寺崎に、市村は逆襲をかけた。

「そんなハイグレードなメンズはべらせて、何言ってるんですか?」

寺崎と同席している医師ふたりを、市村は『ハイグレード』と評する。
穏やかな話し方と品のある立ち居振舞い。
医師という職種に加えて、容姿とスタイルのレベルも高い曽我と須田を身近にする寺崎は、市村と同じタイプの力のある女性だった。

と言っても、そんなやましい関係ではない事など互いによく分かっている。
男たちは、自分たちより男らしいふたりの、エスプリの利いた会話に苦笑していた。

空いていた隣の席についてから、市村が好きなものを注文していい……とすすめてきた。
遠慮なく注文するふたりの先輩に緒方は圧倒される。
そんな緒方に気付いて、市村は緒方に好きなものを訊ねながら、注文をつけてくれた。

ビールと料理がテーブルに運ばれて、彼らは陽気にジョッキを傾けた。
病院の近所での飲み会は、羽目を外してはならないという、病院職員の間での暗黙のルールがあったため、その日は騒ぐことなく談笑していた。



市村と他愛のない会話を楽しんで飲んでいるうちに、緒方はふと、隣の席で静かに語らっている3人に視線を奪われた。

ふたりの青年医師たちに、心が惹かれる。

職種の違いだろうか。
自分たちとさほど年は離れていないはずなのに、彼らが持つ雰囲気は独特の落ち着きを感じさせる。

緒方は、眼科の須田と対面するのは初めてだった。
スポーツマンのように髪を短く刈った、清潔感のある男らしい容姿は、なんとなく日比野に似ていると思う。

不意に須田と目が合った。
日比野を想って揺れている感情でいた緒方は、それを隠そうとして慌てて視線を外したが、真っ赤になった顔は隠せなかった。

須田は、緒方の動揺を知ってクスッと笑う。

「なに?」

曽我が須田の反応に気付いて訊ねた。

「可愛いね。あんなこがいたんだ」

緒方を見て放つ須田の問題発言に、寺崎は呆れた。

「──ホモばっか!」

「瞳さん……」

身も蓋もない言い方に、がっくりとうなだれて困惑する曽我に、寺崎は続いて指摘した。

「だけど……。それよりもなによりも。あのバカップルなんとかなんないの」

寺崎が指摘するところの『バカップル』
それは、人目もはばからずに、仲睦まじくイチャついている佐川と谷村を指していた。

ギャラリーはじっとふたりを観察した。

佐川が運ばれてきた谷村の湯豆腐にだし醤油をかけている。
また「あ、これ好きだったよね」などと言いながら、甲斐甲斐しくサラダを取り分ける。
佐川はまるで谷村の世話女房のようで、谷村自身も疑問にも思っていない様子で佐川に任せていた。

寺崎と市村は、ネジが数本抜け落ちたような締まりのない表情で、ふたりの出来上がったムードに当てられた。

「あんたたち……なんだかイヤラシイ」

ひとの恋愛事情に寛容な寺崎でも、これ見よがしなふたりの在り方はかえって厭味だと感じてしまう。

「もう、本当にデキちゃったりしてたら……。これからどう見守っていいのか……」

市村も混乱している。

そんな指摘を真摯に受け止めながら、佐川は考え込んだ。

「う〜ん……。まあ、谷村の唇は意外と柔らかかったっすよ」

思わぬカミングアウトを聞かされて、ヒィィ〜……と、声にならない悲鳴を上げて、市村は脱力して背中から壁に崩れかかった。

緒方は急展開についていけずに、目を丸くして驚いたままだった。

曽我と須田は、クスクス笑いながら彼らのやり取りを眺めていた。

「どう思う?柊ちゃん」

呆れた寺崎は、曽我に無茶な見解を求めた。

「おれに振らないで下さいよ」

苦笑したまま杯を傾ける。
曽我にとってはあまり触れたくない話題だった。

「──ごっこですよ。本物はもっと隠したがるものでしょう」

須田は冷静に分析していた。

そんな指摘にも何の反応も見せずに、ふたりは相変わらずイチャついている。

「まあ、それがかえってカムフラージュになるかも……。実際は当人にしか分からない事ですからね。厚い友情と言うものが、そういう快楽まで共有する事もあるみたいですし……」

緒方はそんな須田の分析に戦慄した。

快楽を共有する友情って何だ!?

それは、自分と日比野にも当てはまる事なのだろうか……と大きく動揺する。

「須田先生は、そんな経験がおありなのですか」

食傷気味な表情で、市村が要らぬ指摘を噛ましてきた。

「いえ……。歴史的に見ても、男女が自由に恋愛出来ない環境に於いては、その代償行為は存在していましたからね。後世になって、タブーを作り上げてしまってからは、おおっぴらな事ではなくなってしまいましたが………。大体が一過性のものだったのでしょうけどね」

そんな歴史的に分析されてもどうしようもない。

緒方は、その代償行為を思い出して、身体が熱くなった。

「緒方くんは、純情なんですね」

赤くなった緒方を見て、須田がクスクス笑う。
緒方はさらに真っ赤になっていた。

「こんなのばっかだから、うちの病院職員にホモ疑惑が絶えないのよ」

「あまり目立つような事をしていると、今に事務長室に呼び出されるわよ」

女ふたりの指摘に、曽我と須田が驚いた。

「事務長室ですか!?」

「同性愛禁止ですか!?」

驚愕の医師ふたりを一瞥して『バカップル』がニヤリと笑う。

「2年くらい前かな。あまりに仲が良すぎて、半同棲してたらしくて……。おまえたちどうなっているんだって、ふたり並んで事務長室に呼び出された先輩がいたんですよ」

「噂も飛び交っていましたからね。……にしても、そんな事で呼び出した事務長の方が後でバッシングされましたけど」

「ふたりの関係はそんなんじゃなかったし。今はふたりとも嫁さんいますからね」

ふたりは余裕で笑って見せる。

「だいたい俺らは独身なんだし、ひとに迷惑をかけている訳でもない。仲が良くてどこがいけないんでしょう」

開き直りも怪しい。
市村は余計に訳が分からなくなった。

「それより、ちゃんと結婚して子供もいるくせに怪しいひとたち、寺崎さんのところにもいるじゃないですか」

そんな指摘を受けて、寺崎は苦虫を噛み潰したように表情を歪めた。

思い当たるスタッフは確かに存在する。
女同士、イヤラシイほどに仲がいい。
それでも、仕事となると強力な力を発揮するため、時々手を握り合って婉然と見つめ合うくらいは黙認してきた。

「きゃつらの事は置いといて……」

寺崎が言葉を濁すと、佐川が続けて指摘した。

「女同士は良くて男同士はダメなんですか?そんなの不公平ですよ」

いちゃつく男同士の姿なんて見たくもない。

そんな事を思った緒方だったが、何だか身につまされる話で、何も言えなかった。

快楽を共有する友情というフレーズが頭にこびりついて、なんとなく自分にもそんな危うさがあるようで怖くなった。




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