Dear heart 不自然な関係 4 陽が傾いてきた。 ゲレンデから眺める羊蹄山の山肌が、濃い朱色に染まって劇的に表情を変えてゆく。 緒方は、すっかり打ち解けた彼女と並んで、その荘厳で美しい景色に圧倒されていた。 「緒方さん」 「うん?」 日没と共に、急激に気温が下がり始める。 吐息が白く凍って、彼女の可愛い鼻の頭がうっすらと赤くなっていた。 「本当はね、わたしの失恋旅行だったの」 突然の告白に、緒方は何も返せないまま、黙って耳を傾けていた。 「好きになっちゃいけないひとを好きになって。でも、どうしても別れなければならなくなって、そのひとと別れたの」 どこかで聞いたような話だと思いながら、緒方は沈黙を守る。 「もう、男の人なんか好きにならないって思って、ずっと泣いてた。そうしたらエリカが誘ってくれたの。泣いていたってどうしようもないでしょう……って」 彼女は、少しだけ潤んだ瞳を緒方に向けた。 「好きなら強引に奪っちゃえ……って、エリカが言ってくれたけど。結局はそんな勇気なんかなくて」 照れくさそうに笑う彼女は、緒方には強がっているようにしか見えなくて。 そんな彼女の想いに切なくなる。 「どうすれば良かったのかなんて、今でも分からないけど……」 足元に視線を落として迷いながら、彼女は再び顔を上げて、眼前の広大な景色を見つめた。 そして、深く息を吸い込んでから、背筋を伸ばした。 「わたし、緒方さんが好きになりました。恋しちゃったみたい」 突然の堂々とした告白に、緒方は驚いた。 それなのに、彼女は思いつめた様子もなく、清々しい穏やかな笑顔を浮かべている。 「優しくて素敵なひとだなぁって思えた。もう男の人なんて好きにならないって思っていたのに……。またこうやって恋してる」 そこまで告白していながら、彼女は一部訂正してきた。 「あ!でも、心配しないで下さい。付きまとったりしませんから」 茫然と立ち尽くしたまま、何も返せないでいる緒方を見て、彼女はクスクスと笑った。 「──何だかすっきりしました。これからは緒方さんに恋をして、前向きになれそうです。こんな素敵なひとがわたしに優しくしてくれたんだぞ……って。何だか優越感……」 彼女は穏やかな表情で緒方に好意を寄せる。 「きっと、ずっと忘れない。素敵な思い出くれたから……。心で想うだけなら、迷惑じゃないでしょう?」 緒方は、彼女の微笑みを見つめながら、大切な何かを教えられた事に気付いた。 恋ってなんだろう。 独りで相手を想い続けるのも恋と呼べるのなら、今の自分の感情にもよく似ている。 友情と思うから整理出来なくなる感情も、それを恋と呼べるのなら、もしかしたらそれが答えだったのかもしれない。 緒方は、日比野への自分の感情に気付いてしまった。 救急車のサイレンの音を聞いただけで、日比野を思い出す。 不意に熱くなる身体を持て余して、眠れない夜もあった。 恐怖の存在だったはずの救急車に、今では甘い感情を誘われている。 おかしな条件反射だと思っていた。 それはやはり、恋心の為せるわざなのだろうかと思えてくる。 ずいぶん日が暮れてきた。 ふたりでゲレンデを降りて、彼女は最後のシュプールをたどってくる。 告白される方も、なんだか切ないものだと知らされた。 告白されてから初めて自分の気持ちに気付くなんて、間の抜けた話だと思う。 本当は、そんな気持ちには気付かない方が、かえって幸せだったのかもしれない。 友情だと思っていた方が、少なくとも心の束縛は受けないでいられたはずで。それなりに女性と付き合って、家庭を築く可能性だってあった。 女房が抱けなかったために離婚したなどと言っているあの男は、実際は女たらしで精力も有り余っている。そんな男に恋した男である自分は、不幸以外のなにものでもない。 緒方が不毛な事を悶々と考えているうちに、ふたりは麓の休憩所の前に到着した。 スキー板を外してまとめてから、彼女を宿泊先まで送った。 ホテルの前で、緒方はスキーを雪の上に立てて、彼女に別れを告げた。 彼女は名残惜しそうに、緒方を見つめた。 「──明日、東京に帰ります。ありがとう緒方さん。図々しいことたくさん言っちゃってごめんなさい」 本当に可愛い事を言う。 緒方は少しだけ気持ちが揺らいだ。 もし、彼女が同じ市内に住んでいたなら、自分も真っ当な恋愛が出来たかもしれない。 そんなふうに考えてしまう。 彼女はふんわりとしたニットの帽子を脱いで、同じようにふんわりとカールした柔らかそうな淡い色の髪を風になびかせた。 「図々しいついでに、ひとつだけお願い聞いてくれますか?」 真っ直ぐな視線が緒方に注がれた。 「なに?」 「──お別れのキスが欲しい」 緒方は驚いた。 それは随分と思いきったお願いだった。 彼女を取り巻く状況や感情から、自分を支える偶像を欲しがっているだけなのだろうと想像がつく。 明日になれば元の世界に帰って、自分たちはまた関わりのない他人に戻ってしまう。 彼女の中の自分は、まるで実在しないかのような存在で。こんな夢のような儚い恋物語の、一片の記憶に集約されるのだろう。 彼女の相手役が自分で良かった。 これが質の悪い男なら、彼女のベッドにまで潜り込んで、夢というより悪夢のような既成事実を与えていたかもしれない。 そんな現実的な事を考えながら、緒方はそっと彼女の両肩を抱き寄せた。 彼女の身体を抱き寄せると、一瞬ピクリと肩に緊張を走らせた。 緒方はその反応から彼女の心情を汲んで、思わず苦笑した。 きっと、男の価値なんか何も分からないうちに、手練れた大人の男に絡め取られたんだろう。 恋愛経験なんて自分と同じで、ほとんどないに違いないと緒方は思う。 緒方は、ゆっくりと顔を向けて、彼女の唇を避けて口の横にキスを贈った。 そして、頬を触れ合わせてから、耳元でそっとささやいた。 「──素敵な恋。見つかるといいね」 緒方の言葉に触発されたように、彼女の呼吸が喘ぐように乱されて、こらえ切れない様子で泣き出してしまった。 それが、苦しかった恋への訣別の涙である事を緒方は察していた。 涙で過去を浄化する彼女から離れて、その泣き顔に穏やかな微笑みを残した緒方は、それ以上の関わりを避けるようにそこから立ち去った。 例え彼女の感情が一時的なものでなくても、その想いに応える事は出来ないと悟っていた。 緒方は、自分の気持ちに気付いてしまった。 日比野に惹かれている事を自覚した自分には、そんなよそ見をする余裕なんてないと思う。 振り返らずに、真っ直ぐ駐車場に向かう。 ホテルの敷地を出たところに、日比野のRV車が待っていた。 車体に寄りかかって、仏頂面の日比野が立っている。 帰ってきた緒方のスキーを受け取って、日比野は緒方の頭を小突いた。 「何だよ?」 「女に手ぇ出しやがって……」 「お願いされたからだよ」 「スケベ」 「おまえにだけは言われたかねーよ!!」 ふたりはそんな言い合いをしながら、ヒーターの効いた暖かい車内に乗り込んだ。 緒方は、すっかり暖まっているシートに座って、日比野がここでずっと待っていた事を知った。 帰ってきたのだ……と実感する。 自分の帰る場所が日比野の傍なのだと感じて、何故かその感じ方を、すんなりと受け入れる事が出来た。 戻る [*前へ] |