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愛と恋のはざまで 僕らは永遠の明日を夢見る(2019/04/24更新)
愛と恋のはざまで 6


6


 連絡船を使って島に戻った沢口は、それまで野村と過ごしていたコテージに橘を案内した。
 リビングダイニングとそこから続くオープンカウンターのキッチン。短期間でありながら、室内の端々には野村との生活の痕跡が残っている。
 飲みかけのウオッカベースのカクテルのボトルが、キッチンカウンターに置かれていて、それは沢口の嗜好とは違うものだ。
 その生活空間には、すっかり出来上がっていたふたりの世界が垣間見えて、橘は何となく居心地の悪さを覚えた。
 沢口は、室内にぼんやりと佇んでいた橘に、冷えたビールのボトルを差し出してカウチに寛ぐように勧めた。
「――西奈とは……どうしてる?」
「どうもしないけど……。なに?」
「以前と変わらないで、一緒にいられるのかな……って」
「なんで?」
「いや……」
 質問した沢口の方が、反対に詰問されているような気分になる。
 橘には、沢口の聞きたいことは分かっていた。
 ジェイル駐留基地で出会った、ルミナス艦隊参謀であるモリスとの密な関係は、沢口にも知られている。
そんな疑問に、敢えて気付かない振りをして、受け取ったボトルのビールを喉に流し込んだ。
「何か変わったように見えるのか?」
「いや……逢ってないから分かんないけど」
 沢口は、ばつが悪くなって口ごもる。
「諒を愛しているのは変わらないよ。……それだけだ」
 きっぱりと言い切る橘の表情に迷いはなかった。
「恋なんて病気みたいなものだ。いつ感染るか分からない代わりに、いずれは治ってしまう」
 両手で持つ冷えたボトルを見つめながら、橘はこだわりなく答えた。
 事実の善悪。
 徳と背徳。
 そんな尺度で測れない現実も在ると、開き直ったような橘の態度は、沢口に違和感を与える。
 橘は本気でそう考えているのだろうか。
 そんな疑問を抱えて、沢口はひとつの可能性を思い出した。
 立川の存在は、橘を縛ったままで、HEAVENにやってきて再会した時から、橘の感情は凍りついたままなのではないだろうか。
 そうしてやはり、どうにもならない関係に未だ拘りを捨て切れないでいる。
 そうだとしたら、西奈の存在は?モリスとの関係は?
 疑問が次々と湧いて出て困惑する沢口を、橘は鼻先で笑い飛ばした。
 沢口が何も言わなくても、考えている事くらいは予想がつく。
「これからも、何が起ころうと関係を変えようとは思わない。西奈の献身を知っているから、離れる事なんて考えられないし。……愛情と衝動を同じレベルには考えないだろう?」
 橘を取り巻く事情と、自分が抱える事情は質が違う。
 沢口は、橘が自分よりも辛い思いを抱えているのではないだろうかと直感した。
 そんな表情に気付いて、橘は苦笑した。
「――俺のはおまえと違って、単なる気まぐれだよ。おまえみたいに純情じゃない」
 まるで、自分を卑下して嘲るように、笑顔が力無く変化した。
「おまえは一度清算した後の関係だ。浮気とは言わない」
 沢口を慮る穏やかな口調が、沢口を押し包んで、胸が縛られるような痛みを与える。
「おまえがどんな思いで野村に傾いていったか分かってるからね。そんな感情は至極まともだ。……後ろめたいなんて、思わなくていい」
 そう告げてから、橘は視線を落として何かを思い詰めたような辛い顔を伏せて黙り込んでしまった。


△ □ ▽


 翌日、橘と共にセントラルシティに戻った沢口は、すぐに統合本部の杉崎のオフィスに出頭した。
 今回の野村との事情は、関係者各位に筒抜けだと橘から聞かされた。
 それでも、互いのためにはシラを切り通せと釘を刺された。
 善悪や徳不徳の理屈や概念でどうこう出来る感情ではない限り、決して杉崎に対して野村との関係を認めるような言動はするなと命じられた。
 橘の主張は一理あると思う。
 野村との関係を否定したくはない自分が居て、誰かを傷つけるくらいなら、自分が欺瞞に汚れる方がいいと思える。
 だからこそ、今回の事は隠し通すしかなかった。
 しかしながら、正直いって自信がない。
 杉崎のデスクの前に、ばつが悪そうに立つ沢口は、艦隊提督を前にしながら、生活指導の教師の前に立たされている不良学生のようだった。
 口答での事情聴取では、思いつくままの出任せを並べ立てる。
「――正常な精神状態ではありませんでした。おそらく仕事のストレスで、どうせ仕事を離れるなら、全く違う環境に行ってしまおうと……」
 杉崎に対して欺瞞で武装しなければならないのは、沢口にとっては身を切られるような痛みを伴う。
「今思うと、何故そんな事を考えてしまったのか」
 言葉をひとつひとつ吟味して、選びながら伝えようとする。
 そんな沢口の心情を察して、杉崎は黙って報に耳を傾けた。
「あの時は、思い込みに囚われて……。絶対に退院なんてさせてもらえないと思っていましたから、事後承諾でも可能かと勝手に考えて。橘副長まで巻き込んで、迷惑をかけてしまいました」
 沢口は、消沈した様子で視線を足元に落とした。
「申し訳ありませんでした」
 自身の過ちを深く詫びて、深く頭を下げる。
 そして、顔を上げてから杉崎と一瞬目が合っただけで、視線を逸らしてしまった。
「仕事には復帰します。体調は戻りましたので……」
 沢口の報告を聞き終った杉崎は、複雑な心情を隠したまま、沢口に対して思い遣りを見せた。
「いや……。まだ休暇中だから、今日は報告書を提出するだけでいい」
「え?」
 沢口は驚いて顔を上げた。
 あんな事をやらかした今で、公休の権利が保証されるとは思わなかった。
「報告書が完成したら、今夜はこのまま帰ろう」
 杉崎の示す予定は意外過ぎて、沢口をポカンと放心状態にさせてしまった。


△ □ ▽


 ダイニングテーブルの前に座った沢口は、自分の目の前で起こっている状況が理解出来なくて混乱していた。
 杉崎の部屋で、杉崎からの給仕を受けて、緊張する事この上ない。
 沢口の目の前のテーブルに出された一品料理たちは、ハーブをふんだんに使った『魚と野菜のグリル』そして『魚介類のサラダ』だった。
 背広を脱いでカッターシャツ姿でいる杉崎は、秘蔵の冷酒を開けて、手料理の並んだダイニングテーブルを挟んだ向い側から、混乱したままの沢口が手にする細いシャンパングラスに日本酒を注いでいる。
 グラスの酒は、日本酒でありながら、うっすらときめの細かい泡立ちを見せた。
 沢口はただ驚いて、目の前の出来事を呆然と見る事しか出来なかった。
 退勤時に本部長宛てに報告書を提出した杉崎に、先に出口で待っているように言い付けられた沢口は、やがて自家用車で現れた杉崎に拾われて統合本部を後にした。
 行き先は知らされなかったが、その道順で杉崎の住まいに向かっている事は察していた。
 いつもは別々に帰宅して、改めてどちらかの部屋を訪問する。それが、この時に限って杉崎は沢口をひとりでは帰さなかった。
 杉崎がこんな行動に出るのは、何か特別な意味がある。
 自分たちがHEAVENから出征する時も、こんなふうに行動を共にした。
 沢口は、考えを巡らせた。
 この料理は誰が作ったのだろう?杉崎の母、美穂子が作ったのだろうか。
 しかし、美穂子がいつも作ってくれる料理とは、なんとなく系統が違う。そういえば、通いでハウスキーパーを雇っていた。
 しかし、家庭での食事は美穂子が作ったものしか受け付けないというどマザコンが、第三者に食事を依頼するとは思えない。
 しかも、これは一体どう言うシチュエーションだろう。
 まさか、別れ話でも切り出されてしまうのだろうか。
 改めて考えてみると、それはそれで凄く嫌だ。
 じっと一点を見つめたまま何かに囚われたように無言でいる沢口に、不審を抱いた杉崎が尋ねた。
「どうした?」
 問いかけに自分を取り戻した沢口は、全身を緊張させた。
「家政婦さん?」
「ん?」
 ワインを一口含んだ杉崎が疑問で返す。
 別れ話の件などは、尋ねられるはずがない。
「これ……作ったの……」
 沢口の疑問が分かって、杉崎は笑った。
「これは俺が作った」
「えっっ!?」
 沢口は心底驚いた。
 驚き過ぎて無躾な程、杉崎を見つめた。
「家政婦は週に二回、ハウスクリーニングに来るくらいで、食事の契約はしていない」
「だって……。あなた、料理なんて……」
 自分が食事の支度をするなど、考えもしない男だった。
 というより、この杉崎がどんな姿で料理などするのか。想像もつかない。
「リウシンから教わった。居候だったから、家事は一通りこなしたぞ」
 今、目の前にいるこの洒落た二枚目は、事もなげにそう言って微笑みを浮かべる。その笑顔の裏で、どれほどの苦悩を味わって来たのか。
 沢口は決して古くは無い辛い過去を思い出して、杉崎の境遇に同情した。
 暗殺され、流れ着いた先で、身体ひとつで生き延びて来た。人の心を持ち続けることが、地獄のような苦しみをもたらすような戦場に君臨し、冷徹な侵略者として一帯の勢力を蹂躙した。姿が変わり、冷徹な強さを身につけた最強の魔物が、今はこうして何事も無かったかのように穏やかな微笑みを向けて、熱い視線で沢口に『愛』を伝えてくる。
 沢口は、惜しみなく注がれる熱の込もった視線に、少しだけ臆した。
 どうやら別れ話ではなさそうだと察して、改めて目の前の料理に視線を落として、切り身の魚にフォークを刺して口に運んだ。
 バランスよく配合されたハーブの青い香りが、口の中から鼻の奥をくすぐる。
「美味しい」
 驚いた沢口は、目を見開いて杉崎を見た。
 満足そうに微笑みを返すだけの杉崎は、何も問わない。ワインを口に含んで味わいを楽しむだけの在り方は、かえって沢口を辛くさせた。
 野村は、詳しい事は何も言わなかった。しかし、野村と自分が行動を共にしていた事を知って、今回の野村の拉致事件を企てたのは黒木で、杉崎もそこに至る経緯に関与している。
 杉崎の、何事も無かったかのような在り方は、何かを思っての事だろうか。
 そんな事を考えていると、折角の料理の味も十分に楽しめないで食が進まない。
 いつもの沢口の食事風景を知っている杉崎は、沢口の心情を察して、ただ料理を楽しんで欲しいと伝えてきた。
 自分が作ったもので沢口が幸せを感じてくれるなら、そんな嬉しい事はない……と、穏やかに微笑みを向ける。
 その笑顔に、沢口の感情が鷲掴みにされて、夢見心地で最高のもてなしを受けた。
 昨日の出来事には触れずに、会話を楽しみながら美味い食事と酒を味わう。
 沢口は信じられなかった。
 野村とのことで、罪悪感で一杯なはずなのに、全てを受け入れてくれるような杉崎の在り方が沢口の荷を軽くして、こんな穏やかで満ちたりた時間を杉崎と一緒に過ごしている。
 食事を平らげてワインを空けてから、杉崎が空いた食器を手に取って席を立つ。
 杉崎の行動から察した沢口は、とっさに立ち上がった。
「片付けくらい……俺が」
 食器に手を伸ばす沢口に、杉崎はやんわりと断わりを入れた。
「おまえは座ってろ。客人なんだから……」
 沢口の前にある食器を取り上げて、笑顔を向ける杉崎は、そのままキッチンへと向かう。
 沢口は杉崎を追った。
「――一緒に」
 シンクの前に立って洗浄器をセッティングする杉崎に、沢口は詰め寄るようにして申し入れた。
 杉崎は沢口の必死さが不思議で、じっと沢口を見つめ返した。
「あの……手伝いを……」
 見つめられてなんとなく居たたまれない沢口は、続く言葉を呑み込んでしまった。
 杉崎はそんな沢口に気付いて、クロスを絞って手渡した。
「じゃあ、テーブルを拭いてくれ」
 沢口はクロスを受け取ってから、リビングに戻った。テーブルを拭きながら、窓の外の景色がすっかり夜景に変わっていた事に気付く。
 テーブルを拭いてからクロスをそのままにして、沢口は窓際に寄ってガラス越しの夜景を見下ろした。
 一年前に、ここから夜景を眺めて、杉崎との訣別をも覚悟していた。
 失いたくないと願い、失う訳がないと信じていた。
 そして今、心がふたつに引き裂かれて、それでもふたたびここで、この夜景を眺めている。
 自分はいったい何をしているのだろう。
 沢口は自問したまま、動けなくなってしまった。
 愛したまま突然の死別を突きつけられて、混乱し慟哭に呑まれ、それでも野村の支えを得て、全てを失ったのだと自身を納得させた。
 あの時は、外に術がなかった。
 それが、自分が選択した最善な生き方だと信じた。
 杉崎の後を追って、人生を手放す事も考えていた自分に、常に寄り添って生きる事を支えてくれた野村の想いは、今でも何よりも大切なもので、南の島で過ごした幸せな時間と重ねた熱は、忘れられるはずがない。
それなのに、どうして自分はここにいるのだろう。
 そう考えると、沢口の胸が絞られるように痛んだ。
 この痛みは、何が痛いのか。何処が傷んでいるのか。混沌とした思考が沢口を支配して、とりとめもなく考え過ぎてまとまらない。
 不意に、室内の灯りが落とされて、寝室の間接照明だけが室内を淡く照らした。
 街灯りに輝く窓に杉崎の姿が映って、それは背中から沢口を抱きしめて来た。身動きも出来ないまま、立ち尽くす沢口の襟元に顔を埋めて、杉崎は深く息をついた。
 まるで、匂いを確かめられているようで、恥ずかしくて身体が熱くなる。
 そして、そのままうなじにくちづけられて、全身の力が抜けそうな程の快感が沢口を貫いた。
 膝を崩しそうになる沢口を抱きしめたまま、杉崎はキスを続ける。
「志郎さん」
「うん?」
「俺……シャワー浴びたいから……」
「俺はこのままでも構わないが?」
「いや……予定外だったんで。その……」
 雰囲気に流されないで頑張る。人の部屋に追いてきていながら『そのつもりではなかった』とは、なかなか酷な事を言う……と、杉崎は、無邪気な手痛い仕打ちに根負けした。
「わかった」
 杉崎は苦笑して沢口から離れて行った。
「長湯するなよ」
 悪戯っぽく釘を刺された沢口は、いつになくやる気満々の杉崎に、なんとなく臆した気分になってしまった。


 バスローブをまとってバスルームを出ると、室内の照明は落とされたままで、寝室の灯りが沢口を誘った。
 寝室を覗くと、室内着に着替えてベッドの枕元に座り込んでパソコンを弄っていた杉崎が、沢口の気配に気付いて、パソコンの電源を切ってサイドテーブルに置いた。
 室内に入る訳でも無く入口に佇む沢口を、杉崎はベッドに招いた。
 広いベッドは以前と変わらないままで、ここで杉崎と幾度もの夜を過ごして来た。自分の生活の拠点のように、この部屋に入り浸りで、橘からは半同棲状態だとからかわれていた。
 それなのに、この抵抗感は何だろう……と思う。
 ベッドに歩み寄り、拭い切れない違和感に疑問を抱きながら、沢口は杉崎の傍に立った。
 伸ばされた腕に抱き寄せられる。
 懐かしい杉崎の香りに包まれて、くちづけを贈られた。
 そっと触れて、沢口の意志を確かめてくるようなくちづけは珍しい。
(やっぱり、バレているんだろうな……)
 そんな諦めにも似た考えが沢口に訪れて、どう応えていいか迷う。
 HEAVENに戻ってからは仕事に忙殺されて、こんなふうにゆっくりとふたりの時間を持つ事はなかった。互いに忙しいのは仕方がないと思っていたし、あまりそんな気分にもならなかった。
 自分の気持ちが変わってしまったと思い悩んで、杉崎との時間が苦痛な時もあった。
 自分でも、どうしていいのか分からない。
 繰り返し唇を啄んで、そっと触れる唇が、少しだけ強く沢口の唇を押し包んできた。存在を確かめるように背中を愛撫する大きなてのひらが温かくて、抗い難い安心感に包まれる。忍び込む舌先が、沢口の舌をやんわりと包んで撫でてゆく。
 泣きたくなるような心地よさに、沢口は身震いした。
 唇が離れて、ベッドに引き上げられてから、ふたたび座ったまま抱きしめられた。
 温かくて、優しくて、全てを抱擁するこの腕の中が、どうして居心地が悪いだなんて思えるだろう。
 橘が示唆していた感情が、自分にも解るような気がする。
 自分の中には、衝動を越えた想いが確かにあって、それを手放したく無いと思う。
 例え失ったとしても、永遠に生き続ける情がある。
 それに縋る自分は、自分が嫌になりそうな程、強欲で傲慢だと思う。
 それでも自分は、この『愛』を失いたく無いのだと、痛感させられた。
 体からバスローブが剥がされて、襟元にくちづけられた。
 肌に与えられる快感が、さらに沢口を追い詰める。
 不規則なあえぎが唇から洩れて、杉崎を誘う。
 じっくりと感触を楽しむような手の動きが全身を撫でてゆく。
 慣れ親しんだはずの指先が、いつもとは違って感じられた。
 焦れったい程ゆっくりと昂められて、沢口の身体の芯が、何度も痺れるような快感に襲われてわなないた。
「志、郎さん……」
 あえぎながら呼びかけて、いつもと様子が違う事の理由を尋ねた。
「どうして……こんな。初めてじゃないのに」
 相手が怯えないように、ゆっくりと緊張を解してゆくような愛撫が、いまさら自分に向けられる事がおかしいと思った。
「俺がおまえをこうやって愛したいんだ」
 杉崎は、沢口の髪を撫でて、慈しむ視線を向けて応えた。
「俺のせいで、おまえに辛い思いをさせた」
 辛いのは杉崎も一緒だ。
 そう思えるような杉崎の表情が、沢口の感情を追い詰める。
「おまえは、今でも辛かったのだろうな。……俺が変わってしまった事で、混乱させてしまったようだ」
 抱き寄せたまま耳元にささやきとくちづけを贈る杉崎は、甘く誘って沢口を骨抜きにする。
「俺はもう以前の俺ではない。どうしても拭えない事情を抱えてしまった」
 消沈する声に驚いて、沢口は熱に潤んだ瞳を杉崎に向けた。
 杉崎が、傷ついているように感じる。
「俺が怖いか?」
 ヴァイオレットの瞳を飾る琥珀色の眉と睫毛が、別人のようでまだ慣れないでいた。それでも、恐怖感を抱いた事はない。
「怖くないよ」
 実際に凶悪なナイトメアを目撃しても、恐ろしいとは思った事は一度もなかった。
 訳あっての杉崎の行動は、周りが言うような禍々しさを感じない。
「怖くない」
 沢口は決然と伝えた。
 もしかしたら、杉崎はその事をずっと思い悩んでいたのだろうかと考えてから、沢口は突然、数々の思い当たる事実に気付いた。
 HEAVENに帰還してからの杉崎は、仕事が終わると立川を誘って道場通いを始めていた。日課のように遅くまで真剣に闘うふたりのレベルに呆れながら、なぜ毎日そこまで続けられるのか……と呆れてしまうほどだった。
 たまに誘われて、杉崎との夜を過ごした事もあったが、杉崎は寝付けないようで、夜中に目を覚ますと必ず起きていて沢口をかまってきた。
 時々何かを思い詰めて、物思いに耽っては決して平気ではないような表情を見せる。
 沢口は、杉崎の世界はまだ、ナイトメアとして生きて来たニルヴァーナでの生活の延長上にあったのだと気付いた。
 全てを振り払おうとしても忘れ得ない、リウシンと共に生きて来た記憶が杉崎を縛って、未だに痛みを抱え続けているのかも知れない。
 そして、リウシンが沢口に向けた最後の言葉。
「君は志郎を離すな」と告げられた意味が、本当は離したくないリウシンの心情を伝えてきていたのだと、今になってやっとリアルに理解した。
 リウシンと杉崎との間に通っていた感情が、決して単なる同朋意識ではなかった。
 杉崎は、ニルヴァーナとHEAVENの歴史そのものであり、全てのレプリカンの故郷であるオリエントを守りたかった。
 自分の命を救ってくれたリウシンに惹かれ、ローディを愛していた。
 それでも杉崎はHEAVENへ還る事を選択した。
 どんなに大切なものが出来たとしても、沢口のもとに帰って来たのだ。
 沢口は、消沈する杉崎を思わず抱きしめて応えた。
「あなたはあなただ。どんなに姿が変わろうと、俺が、ちゃんとわかるから」
 再会した時の、杉崎の笑顔を思い出した。
 歓びと哀しみが、複雑に入り組んだような表情で、不安を抱きながら沢口に手を差し伸べて来た。
 一瞬、他人行儀だと感じたのは、杉崎に負い目があったからなのかも知れない。
 これまで自分の事情しか頭に無くて、それが悔やまれてならない。
 沢口は今、初めて杉崎の痛みを理解して、やっと杉崎に寄り添うことが出来た。
 杉崎は、沢口の情を知って、熱に潤んだ視線を向けて唇を寄せた。
 熱いくちづけが与えられて、沢口の身体が戦慄した。
 唇から離れたくちづけは、やがて耳元をくすぐってきた。
 沢口を膝に乗せて、バスローブからはだけた腿を撫でながら、気持ちを持ち上げた杉崎は婉然と笑う。
「――俺も久し振りに休暇を取った。明日から休みだ」
 いつも、公務に差し支えない関係を崩さなかった。休みを取ったということは、その範疇ではなくなったという事だろうか。
 沢口は、現実に引き戻されていささか怯んだ。
「だから……。今夜はゆっくりしよう」
 ベルベットのような魔性の光を秘めたヴァイオレットの瞳が、獲物を前にして何かを企むように細められた。
 まるで一晩中交歓を続けるような宣言を向けられて、この焦らしは序の口だったか……と、沢口は覚悟を強いられたように感じる。
 そっとベッドに横たえられて、身体を重ねてくるその重さが、沢口に陶酔をもたらす。肌を撫でる温かな手が安心を呼んで、その一方では唇と舌が肌を刺激して言い知れない快感を与えてくる。
 触れられることもなく血は集中して、下腹の疼きが堪らなく沢口を焦らす。
 沢口にとっては、楽しむような余裕などなかった。
 背中から腰の窪みまで、途切れる事無く丹念に愛撫される。それだけで身震いする程の快感を与えられて、いつのまにか沢口は全てを手放して快楽に溺れていた。
 やがて俯せたまま腰を持ち上げられ、そこに杉崎の顔が寄せられた。
 予感を抱いていたものの、不意にあらわになった窪みを舌先で撫でられて、小さなあえぎと共にそこが緊張する。
 くちづけと愛撫が続けられるうちに、また言い知れない快楽と安心感が身体を緩める。
 杉崎はそれを察して、硬くした舌先を秘所に忍ばせた。
「――っっ!!」
 一瞬息を呑んだ沢口だったが、すぐに甘いあえぎで応えた。
 熱い吐息が離れて、指先がそっと忍び込む。
「あ……ぅんっっ」
「痛くないか?」
 そっと指先を埋めて、先に進めながら杉崎が尋ねる。
 苦痛は感じない。
 すっかり開かれた身体は、男性を受け入れて愛される事に慣れている。
 そんな事を知っていながら尋ねてくる、杉崎の本意は測れないまま、それ
 けれどそんな気遣いが嬉しくて沢口は素直に返した。
「大丈夫……」
 陶然とした声が、杉崎に許しを示す。
 杉崎は引き締まって丸みを帯びた双丘にキスをして、両手にさらりとした
 ローションを馴染ませてから、ふたたび濡れた指先を挿入した。
 右の二本の指を中でゆっくりと蠢かせながら、左手では沢口の硬く反り上がった熱塊を撫で摩って、やんわりと刺激を与え続ける。
 時折指を締めつけるように反応するが、刺激を止めるとそこは緩んで、徐々に全体が柔らかく変化して、杉崎の指をやんわりと包み込んだ。
 速まる呼吸は沢口の昂ぶりを伝える。
 しかし、杉崎はあえてゆっくり呼吸して、興奮をなだめるようにと伝えてきた。
「も……イキたい」
 涙声で訴える沢口の状態は、杉崎にとっては好ましい。
 ローションが吸収されかかっていても、沢口から溢れるぬめりがとめどなく、愛撫はさらに快楽を呼んだ。
「気持ちよくないか?」
「違……」
「ん?」
「変な感じで……」
「そうか」
 杉崎は満足そうに笑って、沢口の身体を返して仰向けに寝かせた。
 紅潮して熱に浮かされたような表情が、杉崎を堪らなく誘う。
 それでも、杉崎は身体を繋げようとはしなかった。
 くちづけをして肌を重ねても、まだ指先で刺激を与える。
「志郎さん……」
 早くなんとかして欲しい。
 焦れったい身体が杉崎を求めて、その背を抱きしめてきた。
「逆らわないで、ちゃんと感じてみろ」
 耳元で杉崎の囁きが導く。
 沢口は目を閉じて、導かれるままに感覚を集中した。
「なんか……痺れ……て」
「うん。……来たか?」
 杉崎の満足そうな囁きの後に、沢口の膝が硬く閉じられた。
 腕を挟む膝が震えて、迫り来る絶頂を予感させる。
 豊かな睫毛が涙に濡れて、呼吸が泣いているような喘ぎに変わる。
「――っあっっ!?やっっ!……なに!?」
 杉崎の背中を抱いていた両腕が離れて、その手がシーツを握り締めた。
 紅潮した首から胸が、求めていた状態に昇りつつ在る事を示す。
 杉崎はゆっくりと愛撫を続けた。
「ああっっ!!」
 突然、爆発的で甘美な痺れが、沢口の全身を駆け抜けた。
 続いて、断続的で不随意な下腹部の緊張が訪れて、さらに快感を呼んで全身がわななく。それでも、容赦なく続けられる愛撫が快楽の波を捉えて、繰り返される愛の言葉が沢口を酔わせた。
 波が完全に引かないうちにふたたび襲ってくる、理解を越えた繰り返し訪れる絶頂は、沢口の心と体を耽溺させた。
 やがて、杉崎の身体が深く繋がって、沢口は新たな興奮に呑み込まれた。
 抗い難い快楽は、沢口をねじ伏せ、翻弄し、情動がコントロール出来ない程の、狂乱とも云える反応を止められなかった。その後も、何度も繰り返し連続して襲い来る絶頂は、沢口にとって始めての経験で、甘美な疼きを伴う爆発的な絶頂感が繰り返しおとずれた。
 杉崎は、奥深くに繋がったまま沢口の両手を握り締めて、興奮に抵抗出来ずに泣きじゃくる沢口に、息が出来なくなる程の深いくちづけを贈った。
 そして、沢口の耳元で囁いて、行為の最高潮を伝えてきた。
 それまで、沢口を導くためだけに与えてきた刺激から、杉崎自身が快楽を求めるように動きを変える。
 そうなってから初めて、いつもの終わりへの快感の波を予感した。
 焦れったい腰の疼きが血と共に集中して、熱い塊が迫り上がってくる。
 杉崎自身も熱を帯びて沢口を貫き、やがてその身体を包み込むように肌を重ねてきた。
「中に出していいか?」
 耳元で、濡れた吐息と共にリアルを囁かれて、そのときになって初めて自分たちを隔てるものが何もなかった事を知った沢口は、中に欲しいとねだって、杉崎の胸に縋って応えた。
 許しを得た杉崎はそのまま行為に集中して、やがて沢口の奥深くを突き上げて熱を放った。
 身体の奥に断続的に圧を感じる。敏感に反応した沢口は、自身に溜まって膨れ上がった歓喜を放った。それは杉崎との身体の隙間を埋めるように、ふたりの間を豊かに満たして、満たされた心と身体は全ての苦痛を手放した。
 気がつくと、杉崎が隣に寄り添うように寝ていて、自分の髪を弄んでいた。
 どうやらあれから気を失っていたらしくて、爆発的な快感を感じてからの記憶が無い。あんな快感は初めてで、一体何が起こったのだと狼狽する。
 それなのに、杉崎の穏やかな表情は相変わらずで、人をあんなに乱しておきながら、よくもこんなに平然としていられるものだと悔しくなる。
 沢口は、幸せに酔いながら羞恥心に襲われていた。
 沢口のばつが悪そうな表情を見て、杉崎に堪らなく愛しさがわいてきた。こうやって、傍にいる事が嬉しくて、言葉を交わさなくても、互いが満たされた幸福感に酔わされているのが分かる。
 杉崎は、そっと沢口の頬にキスをした。
 共有する時間と、独占する時間。かけがえのない時間をこうやって共に過ごしてきた。離れ離れになって、互いがどれだけ大切な存在だったかを実感した。杉崎は、世界を敵に回してでも、この時間を守りたいと願った。沢口との生活を取り戻すために、混乱した世界を破壊に導いた。『愛している』という言葉ひとつが、自分たちにとって、どれだけ深く大きな意味を持つか。その本当の価値を知ってしまった今、『愛』を語る優しさと強さは永遠を示す。
 沢口は、真実を思い知らされて、杉崎の胸に縋るように甘えて抱きついた。
 杉崎は沢口の感情を受け止めて、ただ黙ってその身体を抱きしめて応えた。


△ □ ▽


 黒木からの連絡によって、予定を早めてセントラルに戻って来た聖は、空港から真っ直ぐ統合本部の最上階に顔を出した。夜も遅い時刻であるにもかかわらず、総帥執務室には相変わらずのジェイドが居て、まだ休暇中であるはずの聖の来室を不思議に思った。
「お帰りなさい。どうされました?」
 旅行荷物を引きずった、私服のままの聖は珍しい。
「あ……いや。……雅はどうした?」
 スーツケースを入口脇に立てて、ジェイドに歩み寄る聖は、室内を軽く見回して尋ねた。
「さあ……存じ上げませんが。お休みを取られているみたいです」
 ジェイドから答えをもらって、聖は黒木の行動を予測した。
 野村の携帯に仕込んだ発信機を起動して、その居場所を特定した。その後、黒木は野村がいるはずのマーシャル諸島に赴いたに違いない。休暇を取ってまで、野村を迎えに行く必要があったのか……と、考えてから、野村と行動を共にしている第三の人物がいた事を思い出した。
 室内のソファーに腰掛けるでもなく、思いを巡らしながらその脇に佇む聖に、ジェイドはハーブティーを煎れたカップを差し出した。
「どうぞ」
 勧められてから我に返って、聖はカップを受け取った。カモミールとミントをブレンドしたハーブティーは、香りを嗅ぐだけ でリラックスさせられて、聖はカップを持ったままソファーに腰を落とした。
「ご旅行はいかがでしたか?」
 相変わらず穏やかな笑顔で聖に尋ねるジェイドは、記憶する限りでは初めての聖のプライベートツアーに興味を持っていた。
 ライブツアーが殆どで、それがなければ自宅に引き籠りがちだった聖が、初めて『友人』と登山旅行と称して遠征して行った。本当に『友人』かどうかは分からないが、それでもプランを立てて、旅行の手続きをする聖は嬉しそうだった。
 ごく普通に余暇を楽しみにしている様子を眺めて、聖の真の内面を垣間見たような気がして、ジェイドまで嬉しくなっていたのを思い出す。
 聖は、自分がどれだけ楽しい時間を過ごしてきたかを、包み隠さずにジェイドに伝えた。そんな素直さも、ジェイドにとっては新鮮だった。
 聖の土産話を聞きながら、杉崎次郎との運命的な出会いは、聖にとっては本当に幸福な出来事だったのかも知れないと、ほんの少しだけ嫉妬心を感じながら、次郎との関係を快く思っていた。
 土産は航空便で送ったから、後で……と笑顔で告げられて、今まで在り得なかった心遣いに、ジェイドは心底感動した。
 少しだけ心を解放して寛いだ聖は、ハーブティーを飲みほしてから、ソファーから立ち上がった。
 これから自宅に戻って、また明日改めて出勤すると伝えて、ジェイドにハーブティーの礼を残してから、スーツケースをゴロゴロと引きずって執務室から出て行った。
 見送ったジェイドは、聖の謙虚で慎ましやかな名前負けしない賢人ぶりに、天変地異の前触れかと恐ろしくなった。
 尊大で高慢で不遜で高飛車なこの男に、一体何事が起きたのか。
 ジェイドは、聖と杉崎次郎との関係が、どのような類の感情に支配されているものなのか、非常に興味深い……と、いらぬ関心を示し始めた。





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あきゅろす。
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