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愛と恋のはざまで 僕らは永遠の明日を夢見る(2019/04/24更新)
愛と恋のはざまで 5


5



 そこは南国の楽園。
 湿気を含む海風が珊瑚礁の海を渡って、海岸線に添って植樹されている常緑高木の大きな葉を揺らしていた。
 暑い日差しは、ゆっくりと水平線の彼方に傾き、澄んだ青い海が朱に染まる。
 オレンジ色に輝く空と海の明るさは、束の間の残り火のようで、周りの風景はそれとは対照的にインディゴブルーの影を落とし始めた。
 そんな黄昏時の海岸に、失踪したはずの沢口を見つけてしまった立川一行は、驚きとともに、咄嗟に木の陰に身を隠した。
 沢口は、野村と手をつないだまま砂浜に佇み、向き合いながら野村の顔を陶然と見つめていた。
 互いに寄り添い、そっとくちづけを交わす恋人たちの姿があまりにも美しく輝いて見えて、静香は思わずカメラのシャッターを切っていた。
 その瞬間、シャッターの音に気付いた野村は、不審を表にした表情でビーチに視線を巡らせた。そして、言い知れない不安に追い立てられて、ビーチから上がり、市街地へと去って行った。
「どうしてカメラ!?」
 軽率な行動で自分たちの存在が知られてしまった。結果を悔やんだ立川に咎められた静香は、自分の行動の理由が分からなくて狼狽していた。
 杉崎からふたりの尾行を依頼された立川は、静香の返答を待つことなく、帰路を急ぐふたりを追った。
 静香は立川を追いながら背中越しに応えた。
「だって、きれいだったから……つい」
 戸惑いながら応える静香の感性は、実は立川にも理解出来る。
 不覚にも、自分も見とれてしまっていた。
 悔しいほど絵になっていたふたりの佇いは、その思いが決して偽物では無い事を伝える。
 立川はふたりを追いながら迷い始めた。
 ほかに愛するものがあるはずのふたりの在り方が、にわかには信じられない。
 真っ直ぐな熱を孕んだ視線を向けあうふたりは、人目を気にする事も、ためらうこともなくくちづけを交わして情を見せつけた。
 野村を信じて全てを預けているような沢口の在り方と、その想いに応える野村の在り方は、理想的な恋人同士の姿に映って立川を混乱させる。
 それでも、冷静になって考えてみれば、自分たちが死亡していたはずの間に様々な感情の変化があって当然とも思えた。
 いまさらもとに戻れないほどの絆が出来上がっていて、このふたりの感情をどうして否定出来るだろう。
 自分はこれからどうするつもりなのか。立川は、沢口と野村を見守りながら考えた。
 杉崎はこちらに向かっているはずだ。
 あの男の事だ。そつなく最良の手段を講じて、最短時間でここに到着するだろう。
 杉崎を思う気持ちと、ふたりの思いに共感する自分自身の相反する感情に迷いながら、立川はふたりを追い続けた。


△ □ ▽


 市街地を抜けたふたりは、やがて連絡船が碇泊する波止場に到着した。
「まだ時間があるな……。チケット買ってから、展望台に行ってみようか?」
 野村が提案すると、沢口はふんわりと笑って応えた。
 野村はその笑顔に絆されて、思わず頬を緩めた。
 言葉のいらない感情の交歓は、ふたりにはかけがいのないものに思えて、しあわせな時間にまた微笑みを浮かべる。
「待ってて。すぐに戻る」
 野村は、港を臨む事が出来るベンチに沢口を残して、ボートハウスに向かった。
 夕暮れの藍色の天上には星が輝き始めて、静かに宵闇が近づいて来る。
 静かな港の風景を眺めながら、沢口は野村の帰りを待っていた。



 ボートハウスに入った野村は、ロビーを歩いてオフィスカウンターに向かった。
 カウンターから、出口に向かうスーツ姿の集団を見つけて、こんなリゾート地には珍しいと感じながらすれ違う。
 すると、すれ違いざまに突然腕を拘束されて、非常口へ続く通路に引きずり込まれた。
 瞬時の出来事に対応し切れないまま、野村は過去に経験した非常事態を予感した。手慣れて完璧とも云える彼らの行動は、彼らが工作員であることを暗示する。
「なっっ!?おまえらいったい……」
 抵抗してはみたが、後ろ手に拘束されて逃げきれないまま、非常口から強制的に連れ出された。
 建物の裏手の駐車場に出た野村は、そこに停めてある機動車両に気付いて、自分でも信じられない疑問を抱いた。
 見覚えのある軍の車両は、この工作員がHEAVEN軍の所属である事を示している。味方であるはずのHEAVEN情報部が、なぜ自分を拉致しようとするのか。
 非常事態に遭いながら、野村は混乱した。
 その時、建物の影から人影が現れて、野村を拘束する男たちに襲いかかって野村の身柄を奪取した。
「――土井垣?」
 驚いて相手を確認した野村に、土井垣は先を急がせる。
「説明は後だ!おまえも応戦しろ」
 野村は理由が分からずに、襲いかかるスーツの男たちを迎え討った。
「くっそ……こいつら?」
 苦戦を強いられる土井垣の焦燥する表情が、野村を追い詰める。
 自分の身に、一体何が起こっているのか。あまりにも唐突な戦闘開始に、理解が追いつかないまま身体だけが反応していた。
 不意に、突然目の前の男が、側頭部から赤い飛沫を散らしながら地面に倒れた。
 それを機に外の男たちも飛沫を散らしながら次々と倒れてゆく。
(スナイパー?)
 ふたりは弾道を予測して、振り向いた。
 視線の先には小高い丘の茂みがあった。人物は見つからないが、おそらくはそこに潜んで淡々と自分たちを監視していたに違いない。何のための介入なのかは分からなかったが、それでも、スナイパーの参戦に勢いを得た土井垣は、戦意を一瞬剃がれたスーツ集団をふたたび倒して野村に先を促した。
 しかし、野村は土井垣に抵抗して事が進まない。


 丘の茂みに隠れて、手にしたライフルのスコープ越しにふたりの様子を見守っていた西奈は、一向に進まない状況から焦燥感に煽られていた。
 早く撤収してくれなければ援護しきれない。
 揉めるふたりに、ふたたび立ち上がった男たちが襲いかかる。
(実弾じゃないから、援護にも限度が……)
 自分の居場所を特定されては旗色が悪くなる。西奈は、苛ついた表情で射撃を続けていたが、突然、視界に入り込んできた集団に驚いて手をとめた。
 見覚えのある男たちが土井垣に加勢してきていた。
 やたら長身の三人組の男たちと、紅一点。それは牙狼と梵天の戦闘機隊総隊長の混成部隊だった。
 西奈は、暗視ゴーグルを外して立ち上がった。
 ライフルを担いで彼らの参戦に安心して、緊張に強張っていた表情を和らげる。
(ここはもう大丈夫か……)
 西奈は立川たちの参戦と優勢を見届けてから、自分の安全保証のため早々に現場を後にした。


 野村の奪回が、予測に反して速やかに行かない事実を、港と反対方向にある小高い丘から監視していた仕掛けの張本人たちが確認していた。
 黒木と早乙女が、双眼鏡を覗いて苦笑する。
 杉崎は肉眼で事の成り行きを見守っていた。
「――なんだか戦争になってるぞ」
 野村を連れ戻したいだけの行動が、何処からどう見ても拉致事件のような有様で、杉崎は呆れて黒木に指摘した。
 護衛艦シグルスまで機動させて、ヘリを迎えに使い、一時間で出発する予定だったところを、一時間以内でマジュロウまでやってきた。
 杉崎は黒木の私兵の多さに辟易しながら、シグルスは自分の手駒のはずだが……と釈然としない。
「新人研修を兼ねましたが、まさか貴史があれほどの使い手になっているとは計算外でした」
 黒木は監視を続けながら、野村の抵抗ぶりに満更でもない含み笑いを見せた。
 ジェイルでの缶詰め生活で、野村はトレーニングを積んで来たに違いない。そんな自己改革をするきっかけになったのが、多分沢口の存在なのだろう。そう思うと、嫉妬心がふつふつとわき上がってきて自己嫌悪感すら感じてしまう。
 淡々と監視しているように見えても、黒木の内心は決して穏やかでは無かった。
「遊び心で侮ってかかりましたか?それにしても、行き過ぎの感はありますが……」
 双眼鏡を覗く早乙女が、正論を呟く。
 黒木は苦笑した。
「仮にも工作員がターゲットひとり確保出来ないとは……どうなんだ?」
 杉崎の痛い指摘も、黒木の弱った心に突き刺さった。
「面目無い」
 野村には強力な助っ人、土井垣が加勢している。
 あれでは分が悪過ぎる……と黒木は落胆していた。
 そして、杉崎のシンパであるはずの立川らの干渉も予想外だった。
「牙狼の動きも意外でした」
 してやられたという表情が、行き場の無い負の感情となって杉崎に向けられた。
 杉崎も、その件については遺憾に感じていた。
「――結局、あいつは弱いものがいたぶられるのを傍観出来ない男だってコトだ。……部下が可愛いんだよ」
 悪戯っぽく笑う青紫色の瞳が、黒木を不意に骨抜きにした。
 自分たちの間にある危うい関係は、意味深なまま何も変わらず、消える事無く残っている。
「仕方ないさ」
 期待外れだったのに、嬉しそうに立川たちの動きを見つめる。その杉崎の視線にも、黒木はもやもやと嫉妬心を覚えた。
 意外と気苦労を背負ってしまった今の自分の立場に、少なからず面倒な予感を確信に導いてしまった黒木は、双眼鏡を通して事の成り行きを見守り続けた。
「守るものが出来たか?」
 そんな呟きが、苦笑する唇からこぼれ落ちた。


 工作員と戦闘中の野村は、周囲の思惑を余所に、ひとりで置いてきた沢口をずっと案じていた。
「沢口がっっ!!」
 目の前でスーツの男が叩きのめされて地面に倒れた。
 倒した土井垣が、野村の懸念を察して腕を掴んで引き寄せる。
「ヤツなら大丈夫だ。早く来い!」
「おまえが味方とは限らないだろう!」
 手を払う野村は沢口を思って港へ戻ろうとする。
 それをふたたび土井垣が引き止めた。
 野村は振り向いてから噛み付くように迫った。
「こいつら情報部の連中じゃねーか!おまえの仲間だろーが!」
「んなこた知らねーよ!」
 本当は土井垣も混乱していた。
 葵に荷担する事で、まさか身内に反旗を掲げる羽目になっていたとは、思いも寄らなかった。
「――おい」
 スーツの男たちを叩きのめした立川が、最後のひとりの襟を締め上げながら揉めるふたりのやり取りに割って入った。
「早く逃げろ。……一番ヤベェのがそろそろ到着する頃だ」
 口角を持ちあげてニヤリと笑う。
 意味深な言葉が野村を狼狽させた。
 加勢した牙狼と戦闘機隊総隊長も、立川と同様に笑顔で後押しする。
「今は逃げておけ。証拠は残さないのが鉄則だろ?」
 事情を知っている立川の諭す言葉が、その意味に気付いた野村の迷いを払拭した。
 やがて、立ち尽くす彼らの元に、一台のワゴン車が到着した。
 スライドドアが開いて、一葉が顔を出して叫ぶ。
「隊長!早くっっ!」
「ひーたん?」
 野村は意外過ぎる人物たちの乱入に驚いて、すぐには反応出来ないままその場にぽかんと立ち尽くした。
「早く乗れっっ!!」
 野村の尻を足で押しやった土井垣は、ワゴン車の中に強引に野村をねじ込んで発車を急がせた。
「いいぜ。出してくれ!」
 素早く乗り込んだ土井垣が運転手に告げる。
「オッケー!」
 後部席を振り返って、悪戯っぽく笑う運転手は葵だった。
「いくわよォォォォォォーっっっ!」
 アクセルを踏み込んだ葵は、ワゴン車を急発進させて追手から少しでも距離を離す。
 加速する車のシートに身体を押しつけられて、野村は混乱し続けていた。
「なに?おまえたち……なんで?」
 周りを見回して、車内の様子に圧倒される。一葉がネットワークを駆使して、敵の動きを把握している。まるで、そこは司令室のブースのひとつのようだ。
「――タカさん狙われていたのよ。情報局が動いていた」
 運転席から葵が応えると、野村は驚いて運転席を見た。
「どうして?」
 自分がなぜ狙われるのか。
 改めて真実を突きつけられた野村は途方に暮れた。
「突然の失踪は、身近な人間を不安にさせます。しかも、捜索した結果、第三の人物と濃密な関係を思わせるような行動が発見されたなら、必ず妨害工作に踏み切るでしょう。黒木局長なら尚の事、それが可能な立場の方です。……そのくらい予測できなかったのですか?」
 一葉が冷静に状況を把握していた成果で、野村を救い出す事が出来た。総帥や黒木という恋人が居ながら、堂々と衝動のまま行動するなど、尋常な精神では考えられない。沢口の立場をどうしてもっと深慮してあげられなかったのか……と、一葉は内心野村を責めていた
「あの場面で捕まってしまったら、ただじゃ済まないわ」
 キーボードを叩いて、膨大な情報を入手する。今は、情報局の通信網に侵入していた。
 黒木が島に上陸した事を知る。
 間一髪だったと胸を撫で下ろしながら、反面背筋が冷たくなった。
 黒木の介入で、沢口がどれだけ傷つくか、考えるだけで辛くなる。
 一葉は、沢口にはいつも笑っていて欲しかった。その笑顔を守るためには、なりふりなど構っていられない。
 野村は、一葉からの指摘に動揺して、ひとり残してきてしまった沢口の身柄を一葉に確認した。
 不安を隠せない野村の様子に、一葉の胸が痛む。
「大丈夫……。艦長ひとりなら」
 一葉の応えに安堵しながら、この騒ぎは自分たちが行動を共にしていた事が発端となったのだと知る。
 沢口を思う気持ちは一点の曇りも無いのに、どうして傍にいる事すら許されないのだろう。
 野村は沢口を案じたまま、心を閉ざしたように黙り込んだ。
「気にすんな。……たまにはこういう事もあらぁな」
 隣に座っていた土井垣が、珍しく落ち込む野村の頭をガシガシと撫でた。
「貫くために、時には引く事も必要だ。不利になる前の撤収が基本だろ?」
 野村の事情と、この捕物の真相をやっと把握して、土井垣は野村を諭す。
 立川にも同様な事を指摘された。
 しかし、それでも、逃げるしか術の無い自分が悔しい。
 野村は視線を落として、顔を苦痛に歪めた。
「――おれは結局、あいつの気持ちを乱して、取り返しのつかない事をしただけなんだろうか」
 弱気な野村の発言は、一葉の反感を買った。
「隊長。……貴方が本気でそう思われているなら、艦長は貴方に渡しません」
 決意と共に厳しい視線が向けられて、突然挑戦状を叩き付けられた野村は狼狽した。
「わたしが艦長を守って見せる。そのために、この技術を磨いたんですもの」
 一葉の情熱は、フェニックス艦隊に向けられているものではない。短期間でネットワークに精通し、犯罪紛いの事までやってのけるそれは、報われない一途な想いに支えられていた。
「艦長を守りたいのは、貴方だけじゃ無い。……でも、艦長は貴方だけを求めていた」
 現実は思いのほか残酷だ。友情と信頼以上の関係を夢見ていても、一葉にはそれが叶わぬ夢だと分かっていた。
「毎日毎日あんな姿見せつけられたら、納得するしかないじゃないですか。悔しいけど、影ながら応援するしかないじゃない……」
 野村は、意外な想いを聞かせられて茫然とした。
 一葉の思いは、葵のそれとは質が違ったのか……と、野村は気付いた。
 悔しそうに唇を咬む一葉の姿は、病院のベッドで辛い想いを伝えてきた沢口の姿と重なって見えた。
 自分たちの想いは、必ず誰かを傷つける。
 誰かの感情の犠牲の上に成り立っている事を、自分たちは自覚しなければならない。
 そう思ったとき、野村は残してきた沢口に、伝えていない真実を思い出した。
「――沢口に、連絡したい」
 改まって申し入れる野村の表情を見て、一葉たちは何事かと訝しんだ。
「きっと、あいつはおれを待っている。心配しながら……ずっと……」
 切ない思いが、車内の皆に伝わった。
 彼らは、ふたりの思いを守りたい一心で、黒木の動きに割って入った。野村の沢口を思う気持ちは、彼女たちが一番良く理解している。
 そして、沢口も同じ気持ちでいるだろう……と、一葉には分かる。
「いいでしょう。……ただしこれを使って下さい」
 一葉は野村に、自分の携帯端末を渡した。
 野村は視線で疑問を向ける。
「通話記録もチェックされます。今は慎重に」
 一葉の真剣な表情が、決して大げさな事ではないと訴えてくる。
 実際自分は情報部に囚われそうになった。それは、黒木が介入してきた証しでもある。
 今までの黒木は、自分の交友関係に干渉してくる事など無かった。いつも余裕を見せ付ける、自信たっぷりの在り方は、自分が動かせるような相手ではないと思い知らされてきた。
 愛されているのは十分自覚している。それでも、黒木は自分を縛る事などなかったし、どちらかといえば放任されてきた。
 それが、なぜ急に干渉してきたのか。
 野村は、シャンパンゴールドに輝くフェミニンな端末を見つめながら考え込んだ。
 それはきっと、今までには無かった突然の自分の行動が、隠していた真実を見せてしまったからに違いない。
 押さえ込んでいたはずの独占欲が、黒木を動かした。
 黒木は決して束縛はしない。
 束縛はしなくても、嫉妬心を人一倍隠し持っている事は知っている。
 聖は、この事情を知っているのだろうか。
 そう考えると、胸が痛んだ。
 もしかしたら、自分は呆れられて捨てられるかもしれない。
 それでも、今は沢口を手放せない自分がいて、ふたりの関係を修正して元の在り方に引き返すなど不可能だと思う。
 野村は、端末のテンキーを呼び出して沢口のコールナンバーを入力して発信した。
 呼び出し音が殆ど鳴らないうちに回線が開いた。
 受信した相手は、ためらっているかのように、なかなか言葉を返せないでいる。
 携帯を握り締めながら、縋るような表情で耳を澄ませているに違いない。
 野村にはそれが分かって、やっぱり沢口が愛しいと思えた。
「――おれ」
「タカ?」
 予想通り、沢口は間髪を入れず問い返してきた。
「うん」
「今……何処に……」
 泣き出してしまいそうな声が、野村の感情を鷲づかみにした。
 そんなふうに縋られてしまっては、傍に引き返してしまいたくなる。
 野村は辛い胸の痛みを堪えながら、出来るだけ穏やかな口調で沢口に向かった。
「ごめん……拉致られた」
「えっっ?」
「あ!大丈夫だから……心配すんなよ」
 沢口の狼狽が伝わってきて、野村は慌てて沢口の不安をなだめた。
「今……どこ?」
「うん……。空港に向かってる。セントラルに強制送還だ」
「タカ……」
 ひとりになった沢口の不安は、どうしても拭えない。
 野村はその思いに寄り添い、状況を伝えた。
「大丈夫だ。拉致されたって言ったって……葵だから」
 自分たちの危機を予感した味方が迎えに来てくれた。
 暗にそう伝える。
「いきなり失踪したら、そりゃあ周りは騒ぐよな」
 野村はあえて真の理由を伏せたまま、ひと呼吸おいて沢口に囁きを贈った。
「ごめん……。事情があって、おれは今は撤退する。今は……離れなければ、おれたちは永遠に引き離されるかも知れない」
 多くを語らなくとも、沢口は理解した。
 ふたりで居るところを関係者に目撃されては、関係が明るみに出て干渉されるに違いない。
「――だから。ひとりにして……ごめんな」
 理由を問うことはせず、沢口は黙って耳を傾けた。
「おまえを連れ出した事は、後悔してないから」
 野村は決然と、そして穏やかな感情で沢口に向かった。
 声に乗って届く想いが、沢口の閉じた瞼を滴で濡らしていた。
「自覚しねーで、周り巻き込んで、無茶やらかしたって思うけど……。すっげー嬉しくて、全然懲りてねーの」
 笑い声まじりの野村の言葉に、沢口は泣き笑いを浮かべる。
「こんなおれの言葉なんて、信じてもらえないかもだけど……」
 ためらいながらも、伝えようとする意志が伝わってくる。沢口は黙って野村の言葉を待っていた。
「おれは……。重荷なんかじゃねーよ。分かってるくせに」
 今更ながらの告白は、なかなか勇気がいるものだと実感する。
 まるでプロポーズのような甘い囁きが、沢口の心を満たして、とめどなく流れる涙の滴がシャツの裾を濡らしていた。
「――沢口」
 真剣な、それでいて甘い思いが、呼びかけに込められる。
「本当は……離れたくない」
 ありったけの思いを込めた囁きが、沢口の高揚した感情をさらに揺さぶって、沢口は思わず嗚咽を洩らした。
 野村の告白を聞かされて、沢口はこぼれ落ちる涙に言葉を塞がれながら、幸せそうに笑顔を見せた。
「うん……」
 頷いて応える沢口は、やっと言葉を取り戻して質問で返した。
「……タカ」
「ん?」
「これ……誰の端末?」
「ひーたんの。……受信歴もヤバいってさ」
「ひーたんのナンバー、ゲット!……って、伝えておいて」
 悪戯な声の調子で、野村は沢口の感情が落ち着いて来たことを知った。
「んじゃ、今メールも送るから」
 暗にアドレスの送信を示唆する。
「後でハートのスタンプ満載で返信しとく」
 沢口は安心を取り戻して、クスクスと笑い声を洩らして返してきた。
「――やべぇよそれ」
 野村は真剣にそれを咎めた。
 そんなことをしては、一葉が興奮してしまう。暴走してしまっては止められない。
 沢口が一葉の気持ちを正しく理解しているのかが気になって、野村は心配になってきた。
 沢口は野村の困惑を知って、クスクスと笑いを洩らす。
「落ち着いたら連絡する。音沙汰なしはゴメンだからな」
 念を押す野村の懸念を、沢口は笑った。
「まさか……。離れられる訳ないだろう?」
 深い絆で結ばれたふたりは、何者の干渉にも揺らがないと確信した
 艦長と戦闘機隊隊長という立場では、否応なく共同の働きを求められる。
 公私共に離れられない。
 ふたりはそれを実感して、全ての犠牲を知っていながら、ふたりで選んだ道を共に歩んで行くことを覚悟と共に決意した。
 端で野村の言葉を聞いていた葵と一葉は、たまらなく切なさを覚えた。
 葵は『また、わたしじゃないひとに恋してる』と、野村の感情を恨めしく思う。
 一葉は、例え自分に向けられなくても、艦長の笑顔が見たいと思う。
 決して届くはずの無い想いと願いは、胸の奥深くに封じ込んで、ただ、この愛するひとたちの幸せを守ろうと、彼女たちは表明することなく心に誓っていた。



 野村の奪回が失敗に終わったのを、小高い丘から監視していた仕掛けの張本人たちが確認していた。
 黒木と早乙女が、双眼鏡で事の顛末を確認してから苦笑する。黒木は土井垣の、早乙女は西奈の干渉を知り、予想外の勢力の分裂に、してやられたと負けを認めた。
 そして杉崎もまた、立川の野村への加勢は予想外だったものの、部下への思いの方を選択したか……と、却って立川らしい行動だと感じていた。
 そして、沢口の方を確認すると、そこに第三の男が現れた。
 沢口の緊急事態を察してやってきた、フェニックス副長橘翔。
 沢口と野村には随分と味方がいるものだ……と、杉崎は感心した。
「まあいい。……これでふたりは戻ってくる。後は、我々の手腕次第でしょう」
 黒木は、作戦は失敗に終わったものの、その成果には満足していた。
 経過がどうあれ、沢口と野村を引き離す事には成功して、自分たちの存在を印象づけた。結論として目的は達成され、その結果にある程度の満足を得た彼らは岬から姿を消した。



 満たされたような笑顔で、携帯をポケットにしまう沢口は、突然何者かに背中から抱きしめられて動揺した。
 自分にも追手がかかっていたかと、今になって危機感を覚える。
 驚いて振り向こうとした沢口の頬に、抱きついてきた橘の頬が触れてきた。
「迂闊だろ?なに考えなしに暴走してんだよ」
 全てを見通しての指摘は、沢口を緊張で強張らせた。
「たち……ばな?」
 追手が橘だった事が意外で、何となく疑心に駆られる。
 野村と自分を引き離して、何を画策しているのか。
「どうして……こんなとこに」
 抵抗もしないで視線を落としたまま尋ねる。
「そりゃこっちが聞きたいね。勝手に病院抜け出して、何やってんだよ?」
 橘の詰問に胸が痛む。
 沢口は答えられなかった。
 橘は沢口を解放して、沢口が座るベンチに腰かけた。
 触れる肩の温もりが、互いに懐かしいと思えた。
「――どうして俺が……。俺たちが、干渉される?」
 沢口は真実を求めた。
 野村と引き離された真の理由を知りたい。
「野村は拉致されて連れ戻された。……何が起こったんだ?」
 沢口の疑問は、橘を困らせた。もしかしたら自覚がなかったのかと、同情すら覚える。
「おまえと野村が同時に消息を絶った。不審に思った黒木さんが動いて、最終的には私兵を動かしておまえたちの行方を知った。結果、おまえたちの関係が浮上して来た」
 橘が端的に告げる事実は、沢口を震撼させた。
「その動きに気付いた水無瀬さんが、おまえを守るために奪回作戦に打って出た。仮にもHEAVEN情報局を相手に、まんまと獲物を横取りして証拠を抹消したんだ。さすがだよ」
 橘は一葉の作戦実行力を評価してほくそ笑む。
「実は、あちらさんの方には杉崎さんも関与していたらしくて……。おれは水無瀬さんからお呼びがかかったんだ。ダミーを引き受けて欲しいとね」
 一葉が、沢口の親友である橘を作戦に駆り出したのは、橘自身も正解だと思う。
 沢口は唖然として橘を見つめた。
 そんな情報戦が繰り広げられていたとは全く気付かないで、野村との関係に溺れていた。
 自分たちの関係の全てが監視下にあって、杉崎にまで知られていたのだと思うと、気まずいのを通り越して空恐ろしくなる。
 島に到着して、すぐに沢口の元にやってきた橘は「さすがに暑いな」と呟いて、羽織っていたジャケットを脱いだ。
「――病院を抜け出して遊び惚けるような色ボケ同士で……。互いに咎める事もなく、むしろ共謀するような指揮官を同じ部署に配置出来ると思うか?」
 橘は正論を沢口に突きつけた。
「あのふたりが、おまえたちの関係を確信しているかどうかまでは分からないけど。ふたりでいる場面を押さえられてもみろ。……大御所ふたりに引き離されて、どうなったか分かったもんじゃない。おまえたちのうち、ひとりでもフェニックスを出られると困るんだよ。……だから、おまえは始めから俺と居たし、野村はここには存在しなかった」
 自分を守るためだけに、橘は労を惜しまずにやって来てくれた。
 緊張した状況に在りながら、沢口は切ない程の歓びを感じて橘を見つめ返した。
「……って事にしておいた」
 橘は、沢口の心情に気付いて、悪戯な笑顔を向けた。
「白々しい程、事実はバレてるけどな」
 どんなに繕っても嘯いていることに変わりはなくて、そんな白々しい欺瞞による武装がフェニックスのお家芸か……と諦めすら覚える。
 欺瞞で塗り固められたフェニックスの事情は、今更ひとつやふたつの隠し事が増えた位では波風など立ちはしない。
「それでも、シラを切り通せ。それがお互いのためだ」
 橘は堂々と嘘を貫くことを奨励する。
 沢口は、そんな橘の意見に反対はしないが、自信が持てない。
 実際、橘はどうなのだろうかと疑問に思う。
「――おまえなら……そんなことが出来るのか?」
「当然だ」
 堂々と即答されて、かえって沢口の方が怯んでしまった。
 自分たちを取り巻く、ジェイルでの様々な人間関係は未だに完結しないまま尾を引いている。
 そんな関係をこれからどうするつもりなのか。
 沢口は、橘が抱える関係の事も気になっていた。
「俺らのこれ……浮気っていうのか?」
「そんなのは主観の問題だ。そんな単純な理屈じゃないって事くらい、おまえが一番よく知っているだろう?」
 橘は呆れたように沢口を一瞥して、ベンチから立ち上がった。
「帰るぞ。一旦島へ引き上げて……明日セントラルに発とう」
 差し伸べる橘の手を見つめて、沢口は一瞬の迷いを見せてから、決心したようにその手を握って立ち上がった。



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