愛と恋のはざまで 僕らは永遠の明日を夢見る(2019/04/24更新)
愛と恋のはざまで 3
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北壁と呼ばれる断崖があった。
HEAVEN中央大陸の西北に位置する山塊中の高峰。
その北東に向いて存在する千五百メートルを越す絶壁で、世界の登山家たちが挑戦する難関だった。
標高三千メートルを越すこの地方の山は、一年を通して厚い氷に覆われて、荒い気流に晒される。
その厳しい環境の中に人影が二つ。淡々と頂上を目指して登っていた。
荒い気流に呑まれそうになりながら、ふたりを北壁の麓に降ろしたヘリが飛び立って、気流のゆるやかな南側に旋回して行った。
淡々と作業を繰り返して、やがて難関であるはずの絶壁を登りきったふたつの人影は、その頂上から南の急斜面に向かって移動した。
移動中、不意にジャケットの内ポケットから、携帯端末の着信音が鳴り響いた。
携帯の持ち主は、厚い手袋を脱いで応答した。
「――もし……。あ?今忙しいんだけど」
相手を知って、ゴーグルを外しながら訝しむ。
「え?知らねーよ。一緒じゃないし……。オレ?……ちょっと北壁」
自分を取り巻く環境をぐるりと見回してから、聖は隣に佇む次郎を見つめた。
次郎はどうしたのかと、視線で問いかけた。
聖は、分からないと首を振って表情で伝える。
「なんで?……連絡つかねー!?……そりゃねーだろう。アイツだって色々あるだろうし……」
聖は急斜面へとふたたび歩き出す。次郎がそれに続いた。
「……だから知らねーって!……っ!っそーじゃねーだろう!そんなに心配ならビーコン使え。こっちは最高峰なんだ。身動き出来るかよ!……後でまたこっちから連絡するから待ってろ!」
聖は面倒くさそうに言い捨てて、携帯を切った。
手袋をつけながら氷雪の急斜面に立って、腰から下げていたスノーボードを外してブーツを固定する。
「誰ですか?」
次郎はただならない雰囲気を察しながら、同様にスノーボードに乗る。
「雅だよ。詳しい事は後だ」
聖はふたたびゴーグルを装着して、斜面に向かった。
見下ろす事でやっと確認出来る断崖に近い斜面が、眼下に広がっている。
ためらいなく前に進む聖は、勢いを溜めて身構えた。
「――まずは、楽しもうぜっっ!!」
ためらいなく斜面に飛び出した、聖の身体が宙を舞う。
次郎は、落下するように滑走する聖の姿を見下ろした。そして満足そうに笑ってから、同様にゴーグルを装着して急斜面へと飛び出した。
頂上近くは殆ど滑空に近い。
硬い雪のギャップを捉えて、長いジャンプを繰り返す。
ボードが風を受けて飛んでいるように錯覚する。
通常のレプリカンにはこんな芸当は不可能だ。それなのに自分たちは、難なくやってのけてしまう。
北壁を数時間で制覇し、絶壁に近い急斜面をスノーボードで滑り降りる。
オリジンと云われる超越種である事を最大限に発揮して、ふたりは無謀な滑走を存分に楽しんでいた。
△ □ ▽
「あー!さっぱりしたぁ……」
室内着に着替えた聖が、髪に残るシャワーの名残を拭いながらバスルームから出てきた。温まって上気した肌がうっすらと桜色をたたえて、表情もいつになくほんわかと緩んでいる。
先にシャワーを済ませていた次郎が室内で迎えて、聖に冷えたジーマのボトルを投げ渡した。
不意の事でもすぐに反応して、難なく片手でボトルを受け取った聖は、満足そうにキャップを開けて口をつけて喉に流し込んだ。
そして一息つくと、また表情を緩ませてほんわかとする。
山の麓にある観光地のホテルに、ふたりは予定通りヘリで到着した。
スノーボードで可能な限り滑り降りて、後はふたたびヘリを呼び寄せた。
ヘリの操縦士は、ふたりを『クレイジー』だと言って呆れていた。
地元でその話をしても誰も信用しない。だから勝手に滑降する姿を撮影させてもらったと言う。
望遠では個人特定は不可能だ。
ふたりは気にすることなく好きにさせた。
ホテルのスイートルームは、北欧らしい内装で、温かい色調のタペストリーや煉瓦造りの暖炉が室内の暖かさを演出する。
暖炉の前には毛足の長い大きなムートンラグが敷かれていて、独特の図案に編まれたカバーを施された大きなクッションが置かれていた。
リクライニングの大きめなチェアもあったが、聖はあえて暖炉前のクッションに腰を落ち着けた。
次郎はと言えば、すっかりソファーで寛いでいて、とっておきの地元のビールを喉に流し込みながら、銀のトレイに盛り付けられたルームサービスのオードブルと単品の肉料理を自分の傍に置いてつまんでいる。
「おまえもこっち来いよ」
上機嫌の聖が次郎を誘う。
次郎はソファーから立ち上がって、銀のトレイを持参して聖の傍にやって来た。トレイを傍の床に置いて聖に勧める。
聖は指先でチーズをつまんで口に運んだ。
流石は本場。本家本元の味は違うと感動すら覚えて、暖炉の温かさも加わって骨抜きにされる。
「ああ……しあわせだなあ」
暖炉の柔らかな炎を眺めながら、聖はしみじみと呟いた。
ビールを持って聖の隣に移動してきた次郎は、随分と手軽な幸福だと可笑しくなる。
そんな次郎の表情を見て、聖は苦笑した。
「おまえには分からないんだよ」
幸せをかみしめるような聖の顔は、今まで見た事がないくらい締まりがなくなっていた。もう酔ったのか……と、次郎は疑った。
「生まれてすぐ傍に俺がいた。だからこんな感情を、おまえは知らない」
再びジーマのボトルをあおって、深く息をつく。
「自分の能力に遠慮なんかしないでやりたいことが出来る喜び?同じ事を共有出来る仲間がいる安心感?……そんなカンジ。分かる?」
聖はじっと次郎を見つめた。
自分と同じ色彩をもつ外見と、口元に見え隠れする大きく長い犬歯を持つ存在が嬉しくてたまらない。
そして、同じ能力を持って、思う存分共に楽しんできた充実感。
それがどんなに自分を幸せにしているのか、聖は次郎に知って欲しかった。
「――確かに……ひとりじゃ、つまらないかも……」
「だろっっ!?」
聖は次郎に迫った。
その近距離に臆して、次郎は話題を変えた。
「電話……何だったんですか?」
「え?」
「なんか……込み入ってたでしょう?」
「あ!忘れてた」
次郎の指摘で思い出した聖は、ズボンのポケットから携帯を取り出して黒木にコールした。
「もし……。オレ。……で、どうなったよ?」
相変わらずフランクな会話は、軍高官同士のものとは思えない。
しかし、兄と一条の関係は更にすごいので、これはまだいい方か……と、次郎は取り止めもない事を考える。
「使ったの?GPS……。はあ?マーシャル?」
聖は驚いて訊ねた。
「見つけたのか?…………え?誰と?」
それまでの表情は一変して、不愉快な感情が露出した。
「分かった……。オレはすぐには戻れない。頼んだ」
沈んだ声で依頼してから、聖は携帯を切った。
切ってから、頭を抱えて深く息を吐く。
その様子が気になった次郎は、確認していいものかどうか迷った。
次郎の視線に気付いて、聖は顔を上げて次郎を見た。
「いや……何でもない」
聖は、自分に寄り添ってくる感情に気付いて応えた。
恋人が失踪した。
南の小さな島で、第三者の若い男と共にいる。
それは、以前に予感していた関係を思い出させた。
そんな知らせは焦燥をかきたてて、内心穏やかではいられない。
しかし、それはまさに今の自分と同じ境遇で、何かを申し立てられるような立場ではないと自覚していた。
「何でもない?どうして?そうは見えませんよ」
急に態度を変えてしまった聖の動揺が、次郎に伝わってきていた。
「教えて下さい。あなたと自分の仲ではありませんか」
次郎は最近、聖の感情を楽しむように絡んでくる。
にっこりと笑う次郎の単なる好奇心が見えてしまって、聖は何も返せなかった。
「自分でも、何か力になれるかもしれない」
そう言ってから、少しだけ笑顔のニュアンスが変わった。
次郎は自分の恋人の上官だった男だ。
自分の知らない何かを知っているかもしれない。
聖は、次郎の他意のない言葉に気付いて、知り得た情報を伝えた。
「――野村が?」
次郎は、何があったのかと考えてから、不意にある事実を思い出した。
「それは……」
野村の一番身近にいる若い男とは誰か。
フェニックスの人間関係を考えた上で、次郎が弾き出した答は、浮気な可愛い兄嫁の存在だった。
ジェイルで会った時に見せた表情は、否定しながらも野村への思いを示していた。
それに気付いてしまえば、ふたりが今どんな想いで一緒に居るかが分かってしまって、なんとなく守ってやりたいとも思える。
それに、そんな行動を取ってしまうような今のふたりに対して、無理に引き離すような妨害を加えてしまっては、余計に執着し合うに違いないとも予測出来た。
「そっとしておいてあげた方がいいのかもしれません」
今の次郎には、ふたりの在り方を否定出来ない。
次郎の忠告が気になって、聖は探りを入れた。
「相手……知ってるのか?」
核心を突く質問で、次郎は考えを中断して聖と向き合った。
「いいえ。……ただ、無事で居るなら慌てる必要はないでしょう」
欺瞞に満ちたような笑顔で答える次郎が、聖には気に食わない。
ニルヴァーナから帰ってきてから、次郎は変わった。
妙に絡んでくるくせに、聖からのアプローチに対しては態度が曖昧で、本心を隠してのらりくらりと躱し続ける。
そして、聖自身は、次郎と遮那王副長との熱い抱擁を目撃してから、次郎が抱えているであろう複雑な心情を汲み取って、追い込みの手を緩めていた。
「知ってるんだな?」
聖はふたたび強引に迫って詰問した。
大きめのクッションの上に押し倒して、次郎を上から見下ろす。
「知りません」
次郎は、聖に組み伏せられたまま、なおかつ否定した。
「どうして自分が、あなたの恋人の人間関係まで把握してなければならないのですか?」
少しだけ剣を含んだ物言いで返す次郎に、聖は見下ろしながら狼狽を見せる。
今でもふたりの関係は曖昧で繊細だ。互いの感情なんてあけすけに見えているくせに、牽制と遠慮がふたりを阻む。
恋人がいる立場の聖が気まずくなるのは避けられない。
少しいじめ過ぎたか……と、聖の反応に満足した次郎は、艶然と笑顔を向けた。
そんな不意打ちに恋心が揺さぶられて、聖の顔が不意に紅潮した。
聖の反応が嬉しくて、次郎の感情が甘くなる。
次郎は、聖を想っていない訳ではない。
「――自分はあなたを守る。永遠にあなたへの忠誠を誓う。この命が尽きるまで、自分の人生はあなたとともにある。……だから、あなたが援けを求めるなら、自分はそれに応えましょう」
穏やかに、しかし決然と告げる次郎の想いに触れて、聖は身動き出来なくなった。
「ズルい選択しやがって……」
赤くなったまま次郎を見下ろして、聖は悔しそうに呟く。
「あなたがそう望んだはずだ。自分を『欲しい』と言った」
「オレが欲しいのはパートナーだ」
「居るでしょう?ふたりも……」
ああ言えばこう言う。
押し問答は得意らしい。
聖は面白くなかった。
「発情していたくせに」
「今はもう大丈夫です」
「嘘つけ!センサーが反応してんぞ」
密着する身体が、次郎の変化に気付いていた。
「反応しても、押さえる事くらいは出来るようになったんですよ」
次郎は否定はしない。
動揺して赤くなる聖は可愛くて、自分の邪な下心を直撃する。それでも、行動に移す気にはなれなかった。
「――というか、口説くのは時間のムダです」
「なんでよ?」
聖は、憮然として次郎を見下ろした。
そんな聖に、次郎は何かを訴えるような表情で返した。
「聖さん」
「あぁ?」
「自分が欲しいなら……ご自身の身辺を整理してから口説いて下さい」
「おまえだって!」
突然突きつけられた現実に狼狽して、聖は珍しく次郎のペースに呑まれていた。
次郎は身体を起こして、聖からの拘束を切り返した。
形勢逆転して、次郎は聖を組み伏せて見下ろした。
「自分はちゃんと失恋してきました」
「……え?」
聖は意外な言葉に引かれて次郎を見つめた。
見つめ返す視線がもの言いたげに聖を映す。
「あなたのせいだ」
恨みがましい物言いで迫って、そのまま身動き出来ない聖のあごを指先で抑制した。
ほぼゼロ距離にまで迫られた聖は、本能的に危機感に見舞われる。
そんな動揺を知って、次郎は何事もなかったように離れてから、視線を合わせる事なく俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「どのみち、願いなんて叶う訳……」
欲しくてたまらない熱を露にしていながら、まるで感情をうち捨てるような言葉を残して、次郎は立ち上がった。
何も返せないで緊張したままの聖を一瞥して、諦めにも似た表情を見せる。
「俺は……ずっと独りでいい」
次郎は裏腹な言葉を残して、奥のベッドルームへ向かった。
その姿を見送っていた聖は、置き去りにされた事で心細くなった心情を隠そうともせずに、すぐに立ち上がって次郎の背中を追った。
ゆっくりと閉じるドアの隙間に滑りこんで、聖が続いて室内に入る。
ドアは微かな音を立て、あらゆる干渉から隔絶して、秘密を抱えたままのふたりを閉じ込めた。
△ □ ▽
フェニックス艦医響姫洸は、思い掛けない人物からの予想外の連絡を受けて混乱していた。
防衛大附属病院の外科外来シフトから解放されて、院内のカフェテリアでランチを摂っていたところに、入院しているはずの沢口から着信があり、やけに深刻な声で知らせを受けた。
無断で外泊した事。
体調は良くなったので、このまま退院手続きをしたいという事。
皆に心配をかけた事への謝罪。
そして、探さないで欲しいとの依頼。
通話を切る前に残した言葉から、沢口の感情の揺らぎが伝わってきて、響姫は事情を察した。
『――ひとりではないから、心配しないで下さい』
言葉が途切れる度に聞こえる微かな風の音と海鳥の鳴き声が、沢口が置かれている状況を容易に想像させる。
『ごめんなさい……先生』
沢口の謝罪は、本当は誰に向けられている言葉なのか。
なぜ、自分に連絡をしてきたのか。
響姫は沢口の心情を理解して遣る瀬なくなった。
午後からは手術の第一助手として、二件の症例を抱えている。
本当はすぐにでも行動したいところだったが、とにかく今は仕事を優先に考える事にした。
響姫は、冷めたコーヒーを飲みほしてから、日差しの明るい窓際の席から立ち上がって手術室に向かった。
△ □ ▽
突然行方不明となった沢口の行動が理解出来ない杉崎は、落ち着かないまま仕事も手につかないでいた。
前日に知らされた沢口の失踪から一日経った今も、杳として行方が知れない。
事件性がない事を祈りながら、沢口の携帯の発信履歴をトレースしてみたが、履歴がない状態が続いていたために事態は深刻化していた。
午後になってから、杉崎は総帥執務室に出向いていた。
「旗艦艦長が随分と無茶をしたそうですね」
聖の留守を預かるジェイドが、杉崎の部下の無軌道な行動を指摘する。軍人たるもの、規律を守ってもらわなければ示しがつかない。
ジェイドは杉崎の管理能力を問い詰めた。
「済みません。そのような事をする者ではなかったのですが」
痛い事態を指摘されて、杉崎は消沈していた。
ソファーを勧めてもやんわりと断って、杉崎は寛ぐ事を拒絶する。ジェイドはデスクを離れて、杉崎の傍に立った。
「可愛い部下の裏切りですか?」
さらに指摘されて杉崎は焦燥にかられる。
「有休扱いなのですぐに連れ戻せとは言いませんが。本人からの報告と反省文くらいは提出してもらいますよ」
「連れ戻す……?」
まるで、沢口の行方を知っているような口ぶりに杉崎は気付いた。
疑問が向けられてジェイドは意外に思う。
「ご存じないのですか?」
「何を?」
事実を迫る視線がジェイドに向けられる。
杉崎の感情が垣間見えて、ジェイドは意味深に笑った。
ただの上官と部下という間柄ではなさそうだ……と疑う。
「いえ……。自分で確認するといい。黒木大佐も同じ標的を追っていますよ」
「黒木が?……あ、局長が?」
それまで自分の部下だったはずの男が、情報局局長だったと知らされてもまだピンとこない。
「志郎……」
ジェイドは突然、甘い視線で杉崎を誘ってきた。
縋るように甘える表情は、決意に反して杉崎の動揺を誘う。
「本当に、わたしとの関係を清算するつもりですか?」
ニルヴァーナから帰還して間もなく、突然別れを言い渡された。
結局は自分から約束事を破って、ジェイドを巻き込んだ……と、杉崎は自責していた。これ以上は迷惑をかけられないし、自分の事情に巻き込む訳にはいかないと申し渡された。
ジェイドは信じられなかった。
互いの存在が互いを支えながらこれまで巧く渡り合ってきた。
公私共に支え合う関係を、ジェイドはいまさら手放せない。
未だに納得出来ないまま、縋るジェイドの心情を汲んで、杉崎はどうにもならない事情を返した。
「実は、情動のコントロールが利かないのです……。今のわたしは、本当にあなたを殺しかねない。興奮すると喉元を深く咬んでしまうクセがついて、困っています」
杉崎の欺瞞は真に迫っていて、なぜこんなケダモノになってしまったのか、とジェイドは残念でならなかった。
「パートナーとはどうしているのですか?」
「あまり興奮しないように気をつけています。しかし、あなたが相手ではそれは難しい」
なんて現実的で明快な答えなのだと、ジェイドは落胆した。
「わたしでは、だめなのですね」
悲しみを訴えるジェイドに絆されそうになりながら、杉崎は無言で頷いた。ジェイドはまだ、杉崎を手放す事など出来ないと感じていた。
淡い琥珀色の髪とすみれ色の瞳が聖と同じで、鋭い牙を持った獣と化した愛人は、諦めなければ自分の命を削る事になる。
それでもいいから……などと未練がましく迫ったなら本当に殺されかねない。今の杉崎には、そんな説得力がある。
人知を越えた存在となった。
ひとの魂を喰らう、魔物としての在り方を知ってしまったジェイドにとっては、杉崎の言葉がまやかしには聞こえなかった。
「ですが、あなたとのコネクションは大切にしていきたい。公務は共に協力していけるでしょう」
杉崎の申し出は残念である反面、嬉しくもある。
自分との関係を疎ましくて清算したい訳ではないようだ。
ジェイドは少しだけ、肩の力を抜いた。
その様子に許しを得て、杉崎は本題に戻した。
「で、なぜ黒木局長が、艦長を追っているのですか?」
沢口が何か事件に巻き込まれているのかと案じる。
ジェイドはその質問に対して、姿勢を改めた。
杉崎から離れて、広いデスクに着く。
「それは、直接大佐にお聞きするといい。個人的な事ですしね」
詳細な情報は、もう伝えられないと云う事か……と、杉崎は察した。
個人的関係を清算した自分には、公務以外の情報は譲渡されないのだと知る。
さすがは副総帥だ。見事な切替だと杉崎はむしろ感心した。
「あなたさえその気になったら……またいつでも特別にお教えします」
ジェイドの胡散臭い微笑みで煙に巻かれた杉崎は、礼を残して執務室を後にした。
△ □ ▽
統合本部ビルの最上階からオフィスに向かいながら、杉崎は物思いに沈んでいた。
ニルヴァーナから帰還して、以前と変わらない日々が戻ってきた。
沢口との関係も、付かず離れずの距離で安定して、元通りの状態を保っていたはずだった。
それなのに、沢口はまた体調を崩してしまった。
今回の変調が、故意ではない事は分かっている。
沢口の様子が以前とは違う事に気付いていたとしても、それは、杉崎自身が変わってしまった事への違和感に過ぎないのだと思い込んでいた。
少し痩せて、軽くなったと思えた。
沢口が倒れるまで、その事に気付かなかった自分を叱責する。
思えば、沢口の態度の端々に戸惑いと迷いがあったと、今になって初めて思い当たる。忙しさに追われて、沢口を見ていなかった。
自分は全てを許されているのだと、愛する存在に甘え過ぎていたのかも知れない。
逃げられて当然か……と、杉崎はさらに落胆した。
オフィスに戻ると、総帥執務室に行った後はいつも何だかんだと絡んでくる立川が、今日はやけに素直に帰り支度をしていた。
意外だったので訊ねると、「静香と旅行してくるから……」と、明るい声が返ってきた。
「今夜から南国ビーチでバカンスよ。極道にあるまじき幸せを堪能してくるぜ。……ふふん」
大天使の美貌を持ち、オリーブがかった金色の髪とラベンダーブルーの瞳が見る者を魅了してやまない。それが、締まりのない顔で、珍しく浮かれ気味にときめいていた。
「なにが『ふふん』だ。」
杉崎は毒突いてもみたくなる。
自分が沢口を見失っている時に、こいつは色ボケに成り下がっている。というか、こいつは沢口の事が心配ではないのか……と、杉崎は憤慨した。
立川は杉崎の表情から、その心情を読み取った。
「病室は綺麗に片付けられていたんだろう?なら、アイツは自分の意思で脱走したんだ。事件性は考えにくい」
立川は杉崎の感情を袖にした。
「俺よりも静香を選ぶのか」と、杉崎は理不尽な感情を立川に向ける。
「可愛い冗談言ってんじゃねぇよ」
面白くない感情を前面に出す杉崎の顔を、片手で掴んで歪ませながら、立川はそんな我が儘を笑って躱した。
そして、見下すように目線を合わせて迫ってきた。
「――ホントに犯すぞ」
脅しのテクは半端じゃない。杉崎は感心しながら呆れていた。
「とことんケダモノだな」
立川の在り方は以前とは全く違っていて、骨の髄まで極道に浸かっている。なのに、公務では完全に覆面を貫いて、以前と変わらずに過ごしている。それが杉崎には信じられなかった。
確かに、元々がそんな在り方だったのだから、今更苦を感じないのだろう。それにしても、プライベートでの極道ぶりは本当に板についていて、何だか残念な気分になる。
こんなに美しいのに、なぜこんなケダモノなのか。
それは聖の在り方ととてもよく似ていて、本当に残念でならない。
杉崎は、そんな取り止めのない事を考えていると、不意打ちで頭突きを喰らっていた。
「バケモノがよく言うぜ」
鼻先を付き合わせたまま、勝ち誇ったような眼差しが驚いた杉崎に注がれる。そして、何事も無かったかのように離れていった。
立川は、オフィスのドアを開けてから、痛む額を押さえてしかめっ面で立ち尽くす杉崎を振り返って、長い牙を覗かせる口元でニヤリと笑った。
「折角の休暇なんだ。あんたも楽しめ」
立川は素っ気なく杉崎を突き放して、オフィスから去って行った。
杉崎は立ち尽くしたまま、立川を送り出して閉まるドアを見つめて、不愉快な表情で顔を歪ませた。
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