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逃げるなよ。彼女は言った。
掠れたハスキーヴォイスが未だ浦原の耳に残り、言葉の刃を心の奥深くまで突き刺した。

ロスの朝は早い。明け方近くの5時を手前に東の空はうっすらと明るくなり始める。実際の日の出は6時を過ぎてからだが、始発のレッドラインを利用するオフィスワーカー達は空が明るくなる前に行動するので時間より早くロスの朝は訪れるのだ。
締め切ったブラインドのスラットを開き、空を映し出す。まだ暗い夜の残り香を含んだままの雲が悠々と立ちこもる。浦原は淹れたての珈琲で暖を取り、ベッド脇のサイドテーブルに置いた灰皿を引き寄せて煙草に火を点けた。
逃げるなよ、ハスキーヴォイスが脳内にエコーする。

「貴様の気持ちは貴様だけの物だ。だからワシはどうこうしろとは言わない。だけどこれだけは言っておく。喜助、逃げるな。後悔は逃げた後にするのではない、逃げ切った後にするものなのだ。だからお前はまだ、後悔するには少々早い。当たって砕けてからにしておけ」

最後には豪快な笑いで綺麗にまとめた彼女の不敵な笑みが脳裏を掠めて浦原は小さく笑った。

「…全く……ずけずけと言ってくれる…」

当たってから砕けろって……それってフラれる前提の話しじゃないスか。不貞腐れた様に言った浦原を見て夜一は最後まで不敵な笑みを崩す事はしなかった。それでも、彼女の言葉は鋭利な刃みたく心を真正面から突き刺しては浦原を動かす。言葉の魔力とはどうにも恐ろしい。後悔するのは不様に逃げ切ってみせた後にでもしておけ。と彼女は言うのだ。もう、逃げたくないと言った浦原にとってこれ以上の辛辣な言葉は無かった。

じじじ、と焼け付く音を反響させながら一息吸い込む。吐き出した紫煙が目前でゆらゆらと揺れながら明け方の空を白く染め上げた。現在時刻は5時40分過ぎ。週末も仕事に駆り出るワーカーホリック達は、直に明るくなる空を眺め何を思うだろうか。
浦原は暫し呆然と窓から空を眺めていた。短くなった煙草を灰皿へと押し付け火を消し、新しいシガレットを咥え火を点ける。神経がざわざわと騒ぐのは柄にも無く緊張しているからだ。
ベッドの上、浦原の隣に位置したスマートフォンはひたすら沈黙を守っている。心なしか携帯にも無言の圧力を仕向けられているみたいで、循環する血液が逆流してしまいそう。
もう一息、今度は深く吸い込んで深呼吸をしながら紫煙を吐き出す。
まず、何を言えば良いのだろうか。
逃げないと誓った手前、初めの一歩が踏み出せないでいる。明日、否もう今日か。今日の夜中にかけようか。瞬時に弱まった心が後回しにしようと狡賢く計算した。後回しにしたら決意が揺らいでしまう事を十分に分っているつもりだが、煙草を持つ指先が微動に震えているのを視野に入れて思わず笑い声を上げてしまった。
神経質だけど綺麗な指だな。と彼は言った。言った後で何を、と顔を真っ赤にして俯いてしまった彼を思い出す。

「情けない」

そう、自分はこんなにも情けない。
膝上に肘をつき、両手で瞼を多いながら押した。耳元近くで煙草の葉っぱが焼け付く音が聞こえる。ジジ、ジジジと。静かだがやけに神経に障る音だ。
閉じた瞼の裏側を占める色彩は橙色。燦々と光り輝く太陽の色に似た彼の髪の毛と、少しだけ照れた、けれどどこか困ったかの様に笑んだ彼の姿が浮かぶ。
一護を思い出す度に痛む胸は愛しいと言う気持ちの証。柔らかくも激しい痛みに心が麻痺して更に愛おしさがこみ上げてしまう。
すき。その気持ちは今も変わらず、浦原の心中を占めていた。
灰皿に投げ捨てた煙草は押し潰して火を消したにも関わらず、まだ小さな火種が残っている。鈍く燻っているが気にも留めずにiphoneを手に取り、新しく登録した電話番号をタッチした。


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