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甘やかな痛みを貴方へ



彼は麝香の香りがする。一護は黒の羽織を手に持ちながらスンと鼻を鳴らした。
常に吸っている煙管からも同様の香りが立ち込めているから、きっと彼には頭からつま先まで麝香の香りが染み込んでいるのかもしれない。甘いのにどこか寂しげなその香りが一護の胸中に渦巻く。少しだけ冬の夜を思い出しそうになる。やっぱり、どんなに甘いと形容しようが寂しいのに変わりは無い。
掛け直した羽織をもう一度手に取り、顔を埋める。
休みの日には作業着にこの羽織を肩に掛けてゆっくりと読書に耽っていた。記憶の中の浦原の右手にあるのは常に煙管で、くゆりと細長い紫煙を燻らす。その様がとても優美に見える。男は少しだけ乱暴に出来た紳士さながらな風情だった。
垂れ気味の目が甘い。その薄くて決して血色が良いとは言いがたい唇も、持ち前の声色も、神経質で細長い綺麗な指先諸共。浦原喜助を包み込む全ての物が甘いと思わせる程度には男は策に長けていた。
この部屋だってそうだ。主が居ないのにどこかしらにあの甘い香りが残っている。

「………なんだか…」

彼がこの部屋のどこかに隠れて自身を伺っているかの様な感覚。
残り香と言うのには些か香りが強すぎた。
浦原喜助が現世に出て早1週間が経過。仕事だからと言う理由で一護を残し、自身の部下数名を引き連れて隊舎を後にした。着いて行くと、子供めいた我侭は言えず仕舞い。
なるべく早めに戻ってきますね。そう言ったのに、もう1週間だ。ウソツキ。
心中穏やかじゃない感情が芽生え出したのは彼が言った早くて3日の3日目が過ぎ去った後から。初日は与えられた自室で寝ていたが3日目の夜から以降、浦原の自室で就寝している。女々しい気持ちがドス黒い色彩に変わる前に、早く帰ってきて欲しいと切に願うが言葉には成さない。言葉にした途端、強すぎる想いは自身を蝕むと一護は身をもって知っているからである。

「…ぬし、さま……」

スン、と鼻を鳴らす。その仕草がやけに子供っぽい。

「主様、」

甘い香りが鼻腔を燻り脳内ビジョンが示す色彩がやけに俗めいている。思い出す彼の仕草と指の動きと吐息の熱さ、そして声色のなんと色気めいている事。
一護さん。
彼に名を呼ばれるだけで震え上がるこの身体は酷く浅ましい。
ハァ。漏れ出す吐息は桃色だと言うのに、今日も一人寝をしなきゃならないのかと思うと胸が締め付けられた様に苦しい。うっかり、気を抜いてしまえば彼の名前を大声で叫んでしまいそうになる。名を呼んで早く温もりが欲しいと確かな手触りが欲しいと言ってしまいそうになる。
グッと下唇を噛み締めて唾液と一緒に思いを飲み込んだ。一護にしては我慢強く待った方だと思う。

「主様」

最後に強く名前を呼んで羽織を掛け直そうとしたその時である。

「ゴラァ!クソガキいいっ!ひよ里様のお帰りやでえ!!出迎えせんかいっ!!」

嵐と形容するに相応しい濁声と共にスパンと勢い良く開いた襖から見慣れた顔が現れ、一護は瞬時に眉間へと皺寄せをする。

「……ひよ里…もう少し静かに出来ないのか?」
「ああ?!誰に向かって口聞いてんねんっ!ひよ里様やぞ!!」

一応、オンナだろう?そう言わんばかりの一護の強気な瞳を見たひよ里は、一護と同じく眉間に皺を寄せてこめかみに血管を浮かばせた。

「なんや、うちらがおらん言うてサボってたんか?喜助の部屋ん中でメソメソぐしぐし泣いてたんか?ああ?一護ちゃん」
「…なにそれ。ってかオマエ一人で帰ってきたの?仕事、放り出したんだ?また」
「ざけんなよクソガキがっ!喜助の羽織ひとつ掛け直しできんと、なあにを偉そうに言うてんねん!」

犬猿の仲でもある二人の間、目と目を合わせて互いに喉を鳴らす。
ぐるるるる、と音がしそうな空間。嫌いなら視界に入れなきゃ良いじゃないか、何を好んで嫌悪する相手に自ずと突っかかってくるのだろう。一護はひよ里を睨みながら思った。

「喜助がおらんとシャンと出来んのか」
「……片付けならしていた」
「偉そうに言い訳かい?」
「…していた!」

とうとう堪忍袋の緒が切れ、声を荒げた一護を目前にしたひよ里が大層あくどい面持ちで笑んだと同時、その姿を一瞬の内で消し去った。流石、副隊長とでも言うべきか否か。

「あっぶな!何してんのひよ里さん!」
「あ……」

来る。本能的に殺気を察知した一護が構えの体制を取った時、瞬歩によって身体を浮かせたひよ里の軌道を読み取り、その身体を腕の中へと収めて軽やかに言葉を成した浦原が見慣れない格好のまま一護の前に現れた。
久しい。随分と懐かしく感じる彼の姿と声。たった1週間、されど1週間。

「なんやねん喜助!邪魔や!退きいっ!ってか離さんかいっ!」
「もう…なんでこう元気一杯なんスかひよ里さん……あ、黒崎さんタダイマです」
「……か、…えり……なさい」

開けっ放しの襖に片手を添え、空いた方の腕でひよ里を抱く。小脇に抱えられた形となったひよ里は顔を真っ赤にさせながら叫んで、手足をバタバタと振るうがそれを物怖じしない風情で一護へと微笑みかける。柔和に笑んだ瞳が記憶の中のソレを変換するみたいに新たに色を刻む。

「思ったよりも長くかかっちゃいました、すみません」
「…いえ…大丈夫、です…」

右足を前に、左足を後方に。そして拳を握った構えの形を慌しく直し、姿勢を正して向き直る。

「っと……あと少しだけお仕事しちゃうんで、先に夕飯は済ませておいて下さい」

行きますよひよ里さん。と面持ちは穏やかだったのに忙しいに変わりは無いらしい。
小脇に抱えたままの状態で部屋を後にする浦原の背中を一護は暫し眺めていた。

「なんっ!!ちょ!やから下ろせや喜助っ!!」
「もう!これ以上暴れたらお姫様抱っこしますよひよ里さんっ!」

あんなに、それこそ名前通り猿が喚いている様に煩かったひよ里がピタリと静まった。大人しく腕に収まった状態のまま、小脇に抱えられ後ろを振り返って真っ赤な舌を目一杯出し、一護に中指を立てて見せた。
畜生、ひよ里のヤツ。一護は心中で舌打をして更に眉間の皺を増やす。

「……姫抱っこ、…か…」

そう呟いた一護の声は冬の冷たい風がどこかへ掻っ攫っていった。


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