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【白面】












暖かくも湿った枯れ葉の甘さが香る。
母親の匂いを僕はそれ以外に知らない。
「青」
やさしく響くその声音が紡ぐ言葉を僕はそれ以外に知らない。
「お前は、かの葛の葉様の遠い孫なのだから、何時かきっと天狐になりなさい」
閉塞的な巣の中だけが僕の世界だった。
















【白面】
















僕が覚えているのは末期の姿ばかりで、それ以前の姿は殆ど覚えてはいない。
ただ、鏡に映してみた時に、輪郭だけは似ているような気もする。毛の色は生憎と似ていなくて、母が見事な白狐であったのに対して、僕は凡庸な色に生まれた。
確かあれは春だった。山梔子の花が咲いていて、吐き気がする位甘い香りが漂っていた。花と同じ色をした毛皮にじわり、血が滲んでいって、やがて冷たく苔蒸した岩の上に滴った。
赤く染まる寸前、濃い金色の月が暗闇の中にぽっかりと双つ浮かんでいた。此方を見詰める瞳に殺意はなく、ただ単に見ているだけのようだった。
古びた声が告げる。
「…――弱き者よ」
始めて与えられた呼び名は、確かに間違いではなかった。
「弱き者よ、お前の幼さと、そしてお前の母の美しさに免じて命を許そう」
漆黒の毛並みに、鋭い牙が浮かび上がる。喉笛を一撃で食い千切られた獲物は半開きの目を虚ろに濁らせる。


「行け」


こうして僕は母の命と引き換えにして世に解き放たれた。
人の姿に化けた母狐の喉を一瞬にして捉えたのは妖狼で、皮肉にも天敵の言葉で自由を得た。生まれ直したと例えても良い。躊躇いはなかった。言われるが侭に振り向きもせず走った。当て所もなく。
必死で走る内に、人間の子供に化けていた筈が、何時の間にか狐の姿に戻っていた。息が上がるにつれて心拍が上がり、恐怖が遅れてやって来た。
何て、ちっぽけな体だ。
恐怖は先程目にした死に対してではなかった。こんな体躯で生き抜く過酷さを思って恐怖した。僕を守る殻はもうない。母が死んだ時点で縄張りはないものとされる。
駆けて駆けて駆けて、四肢が磨り減りそうな位に駆けて、夜通し山を逃げ惑った。ひたすら逃げていれば夜の果てに辿り着けると、何故だか頑なに信じた。
山を追われた獣は里に降りるしかない。人の姿に化けて、物乞いの子供の振りをして食い繋いだ。
人に紛れるのは簡単だった。言葉が足りないのはすぐに補われた。使っていれば嫌でも馴染む。人の臭いが毛皮に染み付くのと同じように。
幸いにも僕は小賢しく生まれた。愛玩を誘う姿に化ける事も出来た。母が唯一教えてくれた妖術だった。他の物事を知るには人の記した書を漁らねばならなかった。字も、じきに覚えた。平仮名、片仮名、漢字、文字を使えるようになると、人の中では各段に生き易くなった。途中からは普通の人間の振りをした。
呪や術についても学んだ。多くの言葉を使って法師も宮司も騙して得たいものを得た。
狐は生まれて五十年の内に、千人の人間から精気を得ねば妖狐になれぬ。雄であるならその精気は女のものでなくてはならぬ。妖狐になれねば天狐になれず、天狐になれねばかの葛の葉狐と同じ――神狐にはなれない。
生きる目的など他に見当たらず、世界など己など、何も知らなかった。目に映るのはひたすらに風景だけで、他には何もなかった。なかった、のに。












ゆらゆらと潮騒のように、蒼白い炎がさざめいていた。
静かな波音のように思えるのは重なる音の一つ一つが嘲笑と失笑で、僕は意味を理解していながら理由すらもわからない。
やってみようかと思っただけだった。出来心、とでもいうのか、何故とかいう理由云々は分からなかった。まだ僕は曖昧な生き物で、動機すらも茫洋として未成熟だった。
「倭国の狐風情が。身の程知らずにも程がある」
「人の子すら孕む者が居る国の、狐に何が出来るものか」
真っ暗な瞼の裏の闇、頭の奥の、胸の奥に沈む深淵の、灯火。狐火が祭櫓を囲む提灯のように、僕を包囲している。狐だけが使う会合所。魂寄せ。僕の姿は僕にしか見えず、相手の姿は炎としてしか見えない。強いもの程燃え盛る。この魂は未だ、ちっぽけだったに違いない。
大陸の狐の内、一人が静かに囁いた。地面を滑るように、真っ直ぐに言葉はやって来た。


「可哀想に。生きて死ぬ為だけに産まれてきたのだね」


可哀想に、と、その言葉を頭の中でなぞって、途中で、もう、何も、考えられなくなった。瞬時に瞼を開ける。夜空がある。銀箔を散らしたような天の川。虫の音。飛び起きる。魂魄は肉体の中にきちんと収まっている。収まっているのに、あそこに置き忘れてきたような気がした。人の姿のまま、走り出した。走り出さずにいられなかった。叫びたかった。血を吐く程に叫んでしまいたかった。だが叫ばなかった。叫べば、気が狂うと感じた。だから踏み留まった。
可哀想に。
誰が?
生きて死ぬ?
ああそうだ。
ただ、その為だけに?
「誰が、そんな―――…!」
巫山戯るな。巫山戯るな。巫山戯るな!
「誰がっ……!」
狐の姿に戻るのすら忘れて、偽りの平たい前歯で唇を噛んだ。薄い皮は直ぐに裂けて、生暖かい血が顔を滑りながら乾き、冷めていった。塩辛い。鉄臭い。
誰が?
僕だ。
「畜生」
涙など目の奥で蟠るばかりで役に立たない。
僕はこうして運命付けられた。意義のなかった生涯が、命が、あの瞬間に呪われた。漸く始まった。走り出したものはもう止まらない。決められてしまった。魂が、名の、意義が。
丘山青。
妖も、人も、一切合切有象無象、何物をも凌駕するものでなくてはならない。その為の名だ。決めてしまった。自分自身で。巡り合わせによって。
恐らく嘲笑には多分に恐れも混じっていただろう。まだ幼い仔狐一匹、独学で妖術を使ってのけたとは、脅威とするには充分だ。
執念の日々が始まった。全てに復讐するように全てを見ようとした。妓楼の屋根裏に潜んで手練手管を学び、貪欲に吸収した。美男に化ける術を覚えて、成長途上の餓鬼ながら、人の女を騙して片端から抱いた。生気を絞り尽くしては捨てた。色事は存外簡単で、次第に普通の人間の振りをして祈祷師を欺く技量も身に付けた。寺の檀家録を改竄して戸籍を得た。時代が進んで維新が起きても、適度な頃合いを見計らって国家認定の人に成りすました。
昼は人から生気を奪い、夜は合間合間に妖を食らった。誰も僕を疑わない。どうだ、見ろ、お前達が海を隔てた大陸で呑気に胡座を掻いている内に、たかが倭国の餓鬼だと侮った、無為の生き物が育ったその行く末を、見るが良い。


「丘山」


低い、凡庸ながらも力強い声に呼ばれて、振り向いた。食べかけのうどんの鉢をうっちゃって、振り向く。隣に何人か居る“学友”の内の一人が、椿、と青年の名を口にした。悪友同士特有の軽い語り口と気安さの中に、尊敬がちらほらと見え隠れする。
「なんだい?」
「いや、すまない。先に食っていてくれ」
他の人間が口々に何の用だと質問するが、青年は適当にはぐらかすばかりで答えない。周りも頭が回らないなりに何か察したのだろう。三々五々散ってゆく。
威圧感はないが、人を先導する要素を持ち合わせるこの青年の名を、椿欽十朗という。人間とは思えぬ程に生気が強く、女でないのが惜しまれる。妖に取っては将に極上の獲物。おまけに何か協力な守護が付いているらしい。淀みを一切寄せ付けない。
せめて、姉か、妹でもあれば良いのだが――…
「些か突拍子もない話なんだが、お前を鬼道の専門家と見込んで、一つ相談に乗ってはくれないか」
「一体何の話だい?」
出汁のよく効いた汁を一口啜って、箸を置く。向かいの席に腰を下ろした青年が、神妙な顔で本題を切り出した。
「実は、俺の妹…紅子というんだが…が、何かに憑かれているようで、相談に乗って欲しいんだが…」
しめた。家主自らが招いてくれるとは、僥倖だ。これで椿家の守護は正式に招かれた客を拒絶出来ない。敷地に入れて、成り行きを見守るしかないのだ。家守とは、堅い殻でしかない。
こいつの妹ならば、さぞや美味いに違いない。こいつの妹さえ食らえば、恐らく、一気に妖狐と成れる。
魂も魄も、全て食らい尽くしてやる。総て余さず食らい尽くして飲み下し、この身に、肉に変えてやる。
「そうだね…まずは、行ってみなければ何とも言えないな」


に。と狐は牙を覗かせてほくそ笑んだ。








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あきゅろす。
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