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何かを得るという事は、別な何かで代償を支払うという事だ。当人の望む望まないに構わず、そういうものなのだろうと美奈は思う。
べべん。
乾いた空気に、三味の音が好く跳ねる。
「…怖いというより、悲しいねェ」
ほんの指一本分開けた雨戸からは、燦々と太陽の光が部屋に差した。白々しい程まっさらに、閑散とした街並みは何処か嘘臭い。夢の中に似ているような気持ちになるが、夢ではないと知っている。嫌という程思い知らされた。十年の月日は長すぎる。最早子供らは日溜まりの温度を知らず、夜の山野を恐れずに駆け回る。その昔異世界であった筈の夜が、もう彼岸ではなく此岸となっている。
では、嘗て此岸だった彼岸に産まれ育った者は?
昼に生き夜を畏れ暮らした日々を知る美奈のような世代は、未だこの世界に馴染めないでいる。生活する時間帯を決め、日暮れに目覚め夜明けに眠る習慣が体に付いても、何処かで違和感や不安を感じてしまう。一日で終わる筈の非日常が延々と終われないでいるかのような。
…これは、祭祀だ。
何かが何処かで失敗した。踏むべき手順を踏み損なった。だから、筋書きから逸脱したまま祭が終わらない。下らない妄想だ。人に話した事はない。
「あんたは、一体どれだけの代償を支払ったんだい?」
白く光の満ちる中で、極彩色を纏った男が一人、肉色の異形と対峙している。
異形、アヤカシ。人の肉を食らって、食らった分だけ育つ生き物。枠の外の生き物だ。人と同じ形の口に手足に、透ける青と赤の血の路、癒着した疵痕に似た質感の外皮。ずぶりと沈み込む刃と、噴き出す粘度の高い濁った体液。舞う、極彩。
びん、ばん、べべん。
磨り減った撥が弦を弾いた。




ボトリ。金子がたんまりと入った財布が地面に落ちた。
予想以上に精神的負担が大きかったようだ、と傍に居た役人が重い口を開く「いやな、一応お前にも伝えておこうかとは思ったんだが、本人連れて来られちゃなぁ…」人の良さそうな役人の言葉など、エムシの耳には届いて居なかった。何故。どうしてこうなった。「いや、そもそもお前の希望を許可したのも異例中の異例なんだがな、俺達はお前ならヌイさんに悪事を働く何て天地がひっくり返っても有り得ないと思ったからなんだ」「立場として考えても養子が妥当だったんだ。子は親よりも下だからな」「勿論、お前がヌイさんを大事にしてるのは誰だって知っているさ。でも条件としちゃ…なぁ?」「お前の時はヌイさんにほぼ無断でしちまったもんだし」あれやこれやと大勢居る役人達が理由を説明するが、まるで頭に入って来ない。
「ヌイさん本人連れて来られて、結婚します、何て言われたら、なぁ」
ヌイさんは否定しないというか、関心もないみたいだし、と幾分年嵩の役人が付け足した所で、エムシは我に返った。
「嘘だ…」
良いじゃないか若い母親が来たと思えばかなりの別嬪だったぞ?ぽんと肩を叩いて慰める役人を無性に殴りたくなる。
「兎に角、実際どうだかは別として、書類上一条家は三人家族だ。エムシ…頑張れよ」
何時の間にか、一条ヌイは夫となり、一条エムシには養母が出来ていた。倒したアヤカシの賞金を受け取りに来て、さあ帰ろうかと思った時に死刑宣告は下された。
戸籍簿にははっきりと、一条美奈、の文字があった。


べん、べべん、べぉん。


宴もたけなわ、客はほろ酔い、夜に咲く月下美人も蕾を綻ばせ、首尾は上々、といった具合に、
「お美奈!」
ばぁん!鬼の形相をしたエムシが、襖を叩き割らん勢いで飛び込んできた。
「おや、エムシさん」
「お、まえ…あれは一体どういう事だ」
全く動揺していない美奈に対して、烈火の如く怒り狂うエムシ。その場に居た者は皆なんだなんだ痴情の縺れか?いや違うよく見ろエムシだああならヌイさん関係かやれやれ。一通り手順を踏んでから納得し、刃傷沙汰にはならないと判断して笑い合う。
「お役所に行ったんでしょう?そういう事ですよォ」
「そうもこうもない。一体何を企んでる」
「そりゃァ、まだ秘密」
しィ。紅で真っ赤にした唇の前に一本、指を翳して内緒のを表す。
何が狙いなのか、皆目見当が付かない。態度から金が目的でないのは確かだが、かといって愛という答えでも有り得ない。では残る理由はというと体だがこれも…いや、もしかしたら有り得るかも知れないが、何処か腑に落ちない。先日やってきた傍迷惑な修行僧を思い出して、また何か厄介な事をしでかす気ではあるまいか。
「嫌だねェ。別に何も悪い事なんかしやしないってェのに」
にっこりと微笑んだその表情が余りに美しくて、却って胡散臭い。嘘を塗り固めたような顔だ。この女を信じてはいけない、とエムシは断じた。
「…妙な真似をしたら…分かってるな」
「ああ、首なり腕なり、好きに切り刻んでくれて構やしないさァ」
目の奥の深い場所に本物の覚悟が刻まれているのを見て取って、それなりに真摯ではあるのだなと思う。一体何に対する誠意であるのか、覚悟の善悪に関する事は分からない。だが芸者がその腕を賭けるというなら、今の所は油断しない迄も、その部分だけは信じてやって良いだろう。
「邪魔をした。続けてくれ。申し訳なかった」
「いいやァ、あたしの撒いた種さ」
一礼して座敷を後にした青年が退室するなり、艶のある三味線の音が朗々とした歌声と共に流れ出した。


べべん、ばん、べぉん。


真昼の道、乾いた土埃の舞う中に、年端も行かない少女の姿があった。まだ柔らかい腕の中には白黒模様の子猫がにぃにぃ、喧しく鳴いている。
「おやおや、あんた、よっぽど馬鹿か勇敢かのどっちかだねェ」
「…だぁれ?」
くす。笑って、藤色の着物の女が膝を折る。少女の頬を撫でる。
「だだの芸者さ。昼間は出歩いちゃあいけないって、おっかさんに習わなかったかい?すぐ帰んな」
「だって、みいが」
「猫は昼間の生き物さ。ちょいと外に出た所で死にゃしない。アヤカシは人以外食わないからね。分かったら早く行きな。二度と昼間外に出るんじゃないよ」
少女は見知らぬ女に叱られて、目を潤ませながらも決して泣くまいとしていた。良い子だ。囁いて女が、背中を叩いて急かしてやる。ととと。軽い足音で駆けてゆく。
「さァて、勇敢な子には、ちょいと手助けしてやろうかねェ」
美味そうな雛が居るぞと察知した、醜い異形がやって来ていた。歪に細長い肉の塊に、人の手足が文字通り無数に、左右非対称に生えている。百足に似てはいるが更におぞましい其れが、向こうの方から涎を垂らして追ってくる。
女は布に包んでいた三味線と懐に入れていた撥を取り出して、掻き鳴らした。白い猫の皮が大きくはないが味のある音を奏でる。素人が聞いても分かる、素晴らしい技巧だった。また、どんな玄人も知らない曲である。
「ああ、良い子だ…あたしの音で踊りな」
女の奏でる音が届いた途端、アヤカシは長い体を折り返し、来た道を戻り始めた。蛇行する醜悪なうねりに対して、三味線の音色が酷く堅牢に響く。
と、アヤカシの手足がぐにゃり。曲がって、倒れ伏した。ぴくりとも動かなくなる。
やっぱり、鼻が利くのかねぇ。
「こんにちは、ヌイさん」
「……」
アヤカシの頭が向かった路地から、血に濡れた太刀を握る色男が現れた。今日はまるで、彼岸花のように真っ赤な地に、鞠と紐が散る振袖姿だ。えらく目出度い柄なのに、目出度さの欠片も見られないのが面白い。
「あはは、余計な事しちまったかィ?」
無表情な男だと思っていたが、案外そうでもないらしい。玩具を取られた子供のようにぶすくれている。眉を潜めているのに威厳がない。威厳がないのに、艶っぽい。無垢の色香が薫ってくるようだ。
「さっき、馬鹿な子が彷徨いててねェ。そのまま帰すのも可哀想だから、少し散らしたんだ。ごめんよ」
じゃァ、元に戻そうか。


びん、びん、ばぁん。


「…どうなってる」
跳ねたばかりのアヤカシの首を蹴飛ばしながら、エムシは呟いた。
最初はアヤカシの動きが妙だと思った。何時もなら街の中心に向かって進むというのに、何故だか途中で引き返していって、街の外から見て六里程の位置でぴたりと動かなくなる。獲物を見ても置物のように微動だにせず、簡単に殺される。此方としては仕事が楽で結構だが、それ以上に不気味だ。まさか、利天が何か細工でもしていったのだろうか。あの生臭坊主ならやり兼ねない。
取り敢えず、目に付くアヤカシを大方片付けたら、大十字路に行ってみようか。
考えた途端、次に仕留めようようと目を付けていたアヤカシが、動き出した。生姜のように凹凸の深い体に、無数の口と目玉が付いている。地面に接する場所には夥しい数の赤子の手がびっしりと生えている。存外素早く、這うように動く。
「うぉっ!」
真っ直ぐに美味そうな肉――エムシに突進してくるアヤカシは、形状故に中核が分かり辛い。迷った末、ええい儘よと両断して、やったかと振り向く。が、
「…不味い」
増えた。
斬った場所に中核は無かったらしく、肉の断面と滲む血をうじゅうじゅと蠢かせて、アヤカシはそれぞれ新たに薄く赤い皮膚を作った。成る程、左の塊に元の中核があったのか。納得するが、向かって右側、新しく増えたアヤカシは生まれたばかりで何処が中核か分からない。普通に考えて断面辺りだろうが生憎と面積が広すぎて予測すら付かない。ヌイならば一発で見抜いて仕留めるのだろうが、狩人となってまだ四年のエムシには判らない。いや待て、昔にも確か似たような事があった筈だと必死に記憶を辿るが、回想に至った瞬間にさぁっと血の気が引いた。
そも、エムシはヌイの姿を見て狩りのやり方を覚えたのであるが、ヌイがこのようなへまをする事はまず無い。エムシ少年が失敗するのも最初はままあったが、即座にヌイがそれを電光石火の早業で仕留めていたのだ。加えて、達人たる養父兼師は寡黙である。
つまり、普通の三流狩人なら誰もが知っているであろう対処法を、エムシは一切知らない。幼い頃の自分を呪いたくなる。中核が判らない相手は取り敢えず斬ってみる。失敗する。新しい中核が完成する迄時間稼ぎに逃げる。中核が出来たら斬る。もしも中核の判らないアヤカシが素早かったら、これも逃げる。兎に角逃げる。隙を見付けてヌイさんが来る。ヌイさんが倒す。何時もこれで完結していたのだ。我ながら浅はかと言わざるを得ない。
「と、いうか…!」
己れは、この年になっても最後はヌイさん頼りなのか…っ!
自らの不甲斐なさ愚かさに、エムシは腹の煮えくり返る思いがした。この程度のアヤカシを仕留められなかった挙げ句、走って逃げるとは。
「くそっ…己れは…って!速い!」
二体のアヤカシは信じられない速度を以て迫ってくる。そうだった。アヤカシの厭な所は何より、鳴き声を発しない所なのだ。一々振り向きながら逃げねばならず、神経を使うのだ。しかも未だ解明されてはいないがアヤカシには同族と意志を繋げる力があるようで、更に畳み掛けるようにして別なアヤカシも追い掛けてくるのが常だ。すると読み通り牛二頭分もある、ひしゃげた握り飯のようなアヤカシが、行く手を遮るようにして現れた。天辺には花が咲くかのように六つ程大小の頭があるが、内一つが際立って大きい。中核の位置は一目瞭然だ。
「邪魔だ」
刀を肩より上に構え、弾かれたように跳び、宙返りながらその頭を一閃の元に割った。追ってきていた二体は障害物に阻まれて短い足を藻掻かせる。よし。一人頷いて、エムシは大十字路へと急いだ。






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