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街には魔物が憑いていた。




稀代の怪人にして奇人。気狂いと名高い狩人。名を、一条ヌイ。
派手な女物の着物を好んで纏い、大胆なまでに大きく開けた併せからは胸だけでなく腹が覗く。その腹には臍を中心に矢的が彫り込まれており、何時もそれを晒してふらふらと歩いている。一見すると白痴かおしだが、実際は寡黙なだけで読み書き計算は人並みに可能。一度真昼の街に降り立てば、飛ぶように跳ねてアヤカシを仕留める。獲物を狩るのを至上の悦びとし、異形の血飛沫に微笑み退く事を知らぬと云う。並み居る同業の荒くれ者は、一条ヌイの所業を目の当たりにすると決まってこう述べる「あれは人の業ではない。修羅か悪鬼だ」と。
此が街に巣食う狂人狩人、一条ヌイの外評判なのだが、而して内では如何なものか。答えは三者三様、基、四者四様である。東西南北十字の如く主立った道が走る街は、北東と北西、南東と南西の四つに別れており、一条ヌイはその南東地区に建つ長家に居を構えていた。
さて、街は広く入り組んでいる由、四者四様の捉え方が如何なるものか挙げてみるとしよう。
先ずは南東に在る長屋の若妻は「ヌイさんかい?ああ、よく知ってるよ。いっつも食い物食わせてやってるってのに、全然太りゃしないんだから。全く、困ったもんだよ。ああそうだ、もしかして今日まだ誰もヌイさんに飯食わせてやってないんじゃないかい!?」と言い、また南西に在る仕立て屋の旦那は「ヌイさんねぇ…なぁんか、覇気のねぇ人だよ。狩人らしくねぇっていうか、大丈夫なのかねぇ、あれで。否、悪い人じゃあねぇんだが、どうしてあれでもてるのか…一度秘訣を聞きたいもんだ」と言い、また北東に在る茶屋の女将は「確かに最初は無気味だと思ってたけど、まぁ大人しいもんさ。他の狩人に比べたらずっとましさね。ちょいとぼんやりしているが、養子のエムシってのが中々しっかりしてるからねぇ」と言い、北西に在る湯屋の主人は「慣れてきたっちゃ慣れてきたが、やっぱり隣にゃ座りたかねぇわな」と言う。実に分かり易い。
要は近くに住んでしまえばそれなりに情も湧くというもので、意外にも稀代の変人はそれなりに溶け込んでいるようだ。一部犬猫のように扱われている節がない訳ではないが、ここは割愛させて頂こう。
さて最後に、狩人が須く倒したアヤカシの数と大きさを報告し賞金を与えられるべき街役場、その中に設置された妖討伐部という機関に勤める役人に話を聞いてみた所、最高責任者以下末端までもが異口同音に「ヌイさんは心配」と述べた。その一言だけが共通で、一度一条ヌイの名を出した途端にやいのやいの「字が下手な訳じゃないんだがな」「一番重要なアヤカシの目方所か、数から怪しいしな」「面倒だと数の欄に一としか書かないぞあの人」「毎日仕留めている筈なのに月に良くて二度位しか来ないし、その日の分しか申請しない」「俺達が大体を見積もってその月の分渡しても次の日には一文無しになってる。更に言うと、何でか金を使った形跡がない」「一回あの人、渡したばかりの金そのまま忘れて帰ったぞ」「しかも取りに来なかった」等々。
全ての話や噂を総合して考えようとしても、もう、訳が分からない。
「何処行ってもそんな調子でさァ、面白そうだし、思い切って来ちまったよ」
「……」
奇人・一条ヌイはぼうっとしたまま、自宅にある布団、所謂万年床の上に仰向けになって転がっていた。黒の上に紫と赤の花が咲く振袖を留めていた濃い灰色の帯は解かれ、骨ばった両手首を頭の上で拘束している。腹の上には真っ赤な腰巻き一枚になった女が跨がっていて、彼女の体が辛うじてヌイの着物を完全にははだけさせないでいた。少し動く度に、丸く曲線を描く乳房が柔く揺れた。
「ん、話には聞いてたけど、あんた、珍妙な格好しちゃいるけど男前だねェ。その隈も見ように寄っちゃ色気があるよ」
ちゅっ、ちゅっ、女が放つ噎せ返るような色香に反して、降らせる口付けはえらく可愛らしい音がする。戯れのようなそれをヌイが嫌がらないのに気を良くして、豊満な乳房を薄い胸板に擦り寄せる。
「ふふ、やわこい唇」
嫣然に微笑んで、女はよしよしとヌイの頭を撫でた。




「……」
絶句。茫然自失。硬直。
「あ、固まってる」
「エムシ、あんた生きてるかい?」
そう、今のエムシの状態を表すとしたら、先述した三つの言葉の全てに当て嵌るだろう。何せ、自宅である長屋の戸を開けた姿勢のまま硬直し、かれこれ四半刻が経過している。
青年の目の前に広がる光景はまあ、凄いものだった。散々たる有り様というのの見本に出来そうだ。
「ヌ」
敷いた布団はものの見事に乱れて波打っていたし、濃い灰色の帯は何故だか畳の上で蜷局を巻いている。
「ヌ」
白い肌を覆っている筈の黒地に紫と赤の花が咲く振袖は掛け布団と絡み合って蟠る。
「ヌイさんっ!」
まるで此の世の終わりを迎えたかのような表情を浮かべる釣り目の青年、エムシはやっとの思いで腹の底から養父の名を呼んだ。
「あ、生きてた生きてた」
「怒鳴れんならまだ大丈夫さね」
呑気にはい大丈夫心配ない撤収撤収ああそうだ炭買って来なきゃ、などと見物に集まっていた近隣住人という名の野次馬達が次々散じてゆくが、そんな事はどうだって良いのだ。
問題は、布団と絡み合う着物の中身であり、更に言うとその中身が今正に布団を辛うじて腰に引っ掛けただけの状態で寝ているという事実だ。否、引っ掛けているというよりは偶々引っ掛かっていたと表現すべきだろうが。
「誰だ…庄屋のおキヨか?それとも揚げ屋の濱名か?いや、もしかしたら北町後家のまきゑかっ…?」
ガクッ。エムシは膝から崩れてその場に膝を着いた。頭を抱えて、養父を頭から丸呑みした女が誰か当たりを付けようとするが、如何せん数が片手で収まらないので予想が付かない。やられた…久々にやられた。まさか家でかそうか。油断した。
「そのどれでもないわよ。まずここらじゃ見ない顔。如何にも玄人って風な、仕立ての良い紫の着物着てたわ」
「蛭がまた増えるのかっ…!?」
早速炭を買ってきたのだろうはす向かいに住む若妻がああ忙し忙し、と、通りついでに言い捨ててゆく。
見目麗しい花々を蛭と切り捨てるのは如何なものかという意見もあるが、エムシに取ってヌイに群がる女は蛭以外の何者でもない。放っておけば精気も金も吸い尽くすのだから、蛭だろう、エムシはそう公言して憚らない。半分は確かに真実だろうが、もう半分は只の養父馬鹿である。
「ん?」
ころり。ヌイが珍しく寝返りを打ち、新雪の如くまっさらな背中を向けると同時、枕の下からはらりと一枚、紙切れが落ちた。
「芸妓お美奈、北町六ノ八…」
北東の端を差すその住所を見て、エムシは眉間に深い皺を刻んだまま立ち上がり、先ずはヌイさんが風邪を引かぬようにと布団を掛け直し着物を畳んでおく。律儀なのは結構だが、ここで襲い掛かる度胸があればねぇ、と長家の住人達が憐憫の眼差しを向けているのを青年は知らない。




さて、北町六ノ八という場所はすっきりとした飴色の、こぢんまりとした家が建っているのだが今時分家主は不在であった。
何故ならその自宅よりもずっと南の、所謂南西地区にある座敷に呼ばれて三味線を弾いていたからで、エムシが目下最大の敵と胸に刻んだ芸妓お美奈とは会える筈もなかった。無駄足に終わったのである。
「いや見事見事。その筋で第一と称せられる紫お美奈の演奏が聞けるとは」
「嫌ですねェ、そんな大層なものじゃァございませんよ」
上品な紫色の着物に爛熟の身体を包み込み、猫の皮を張った楽器を抱き撥を持って奏でる指は細く白い。美奈は口でこそ謙遜していたが、内心は得意満面だった。我ながら冴えた演奏だったと、ぽってりとした唇を綻ばせる。矢張り良い男と共寝をすると指先の切れが違う。
酷くぽんやりしているが、あれは中々どうして掘り出し物だ。ああいう可愛い男も悪くない。
座敷代もはずんで貰えたし、と美奈はほくほくだ。思った通り、此方に引っ越してきて正解だった。凄腕の狩人が常駐しているから、この時代には珍しく士農工商全ての者がしっかりと溜め込んでいる。景気が良くなければ芸者は商売上がっただ。前の街では大店だろうと昼間店を守る用心棒を雇う為に何処もかつかつ。所謂狩人貧乏で、芸者遊びをするような豪商は一握りしか居なかった。
「おや、噂をすれば影ってのはこの事だねェ」
ふと、少し先にのたくた歩く、ひょろ長い派手な振袖姿を見付ける。
「一条の旦那」
袖を摘んでやれば、隈の染み付いたけれど精悍な顔が美奈を覗き込んでくる。
「それとも、ヌイさん、ってェ呼び名の方がお好みかい?」
問うても、返事も何もしない。犬猫か子供みたいな男だ。やる事はやれたから成長の障害でもなかろうが、大人でも子供でもない生き物、といった感じだ。言うなれば、幾つもある枠の外の生き物というか。
その意味では、アヤカシと変わんないねェ。
「ふふふっ…ヌイさん。あたし、あんたの事気に入ったよ」
まだ時間は丑三つ時。夜が明けるにはまだまだ早い。少しここらで遊んでみようか。
「これから甘い物でも食いに行こうじゃないか。勿論、あたしの奢りでさァ」
両の腕を痩せっぽちな硬い腕に絡めてやれば、素直に流されるまま流されて、甘味処に足を進める。
ほいほい知らない女に付いて来る何て、馬鹿だねェ。ま、あっさり脱がされてやる事やらされた時に分かってたけど。
すると、不意にヌイの体が左に傾いた。釣られて、美奈の体もヌイに寄りかかるようにして左に傾く。美奈が掴んだのと反対の腕を、いきなり誰かが引いたのだ。
「全く、油断も隙もない…」
前触れもなくそんな事になって多少面食らってしまったが其処は芸者だどうにかして涼しい顔を作る。
「あら、こっちも良い男だねェ」
現れたのは、見るだに若さ故の潔癖さが際立った青年で、少々釣り目がきついが多分に整った顔立ちをしている。確かに二枚目なのだが、如何せん色気が無さ過ぎる。生憎だが食指を伸ばす気にはなれない。あと十年すれば丁度食べ頃といった具合か。
「…芸妓のお美奈っていうのは」
「そうそう、あたしの事さァ」
盛大に眉を寄せた青年に、初心だねェ、と美奈は笑ってみせる。
「己れは一条エムシ。一条ヌイの息子だ。養父に妙な真似をするのは止めて貰えないか」
「おやヌイさん、あんた息子が居たのかい」
てっきり独り者かと思っていたよ、と言う美奈に、エムシがもう何度目になるか知れない説明をする。
「これでヌイさんはもう三十路も半ばを越えているし、己れは養子だ。分かったら養父を離してくれないか」
ヌイはどう見たって精々二十四、五にしか見えないが、十年前もそうだった。一向に老けないだけで、もう三十も後半だろう。が、エムシを始め、誰一人としてヌイの年齢を知る者はない。もしかしたら四十を超えているのやも知れないが、恐ろしいので余り深く考えないよう心掛けていた。
「ヌイさん、あんた人魚の肉でも食ったのかい?」
それは己れが聞きたい位だ。
「……」
相も変わらず、ヌイは答えない。






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