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ある日、僧侶の利天は妖魅に出会った。




或いは、修羅か韋駄天であったやも知れぬ。おぞましく醜いアヤカシが跋扈する真昼、無人の街にあって、其の影は白昼夢の蝶のように舞った。裕福なのであろう家の塀を軽やかに駆け、跳躍し、落下すると同時に太刀を真下へ突き立てた。石畳の道にあって、巡る血管も生々しい肉色の異形。その、人に似た頭部を楽々と貫いた。脳の幹を破壊して、化け物が重く音を立て、巨体が地に伏す。太刀を引き抜くと同時、異臭を放つ血がぬらぬらと陽に輝きながら、僅かに傾斜した道を下った。
「やぁ、見事だ。あなたがかの有名な一条ヌイ、かな?」
それとも、その弟子の一条エムシか?聞けども返事はなく、その男はぼうっとした様子で去っていってしまった。先程とは打って変わって、心配になる位ふらふらと、まるで白痴のように頭を揺らして歩いてゆく。
短く切った髪、派手な女物の着物、目の下の隈、腹に刻んだ蛇の目。間違いない。あれが気狂いのヌイだ。
「うん、来て早々運が良い…」
僥倖、僥倖。一人ごちて、利天は歩き出した。離れた場所でまた、巨大な生き物が倒れる音がした。忙しい事だ。




「ヌイさん」「……」
「ヌイさん、こっち向いて」
「……」
「ヌイさんっ!」
段々大きく、且つきつくなる声に、隙を持て余した長家の女達がその部屋に顔を出す。中では案の定、珍妙な風体の不健康そうな男と、整った顔立ちと釣り上がった目が印象的な総髪の男が向かい合っていた。
二人の間には丁度、皿に乗った里芋の煮っ転がしが鎮座している。
「あら、駄目よ。ヌイさん、里芋嫌いだから。そうよねぇヌイさん」
部屋の中を覗いている、中でも年嵩な女がそう言った。だがヌイさん、と呼ばれた奇人は黙りこくったままだ。寡黙なのだろう。
「そうそう。ヌイさん嫌いなものは出しても手、付けないのよね。好き嫌いもそんなにないけど」
別な女がまた口を挟む。
「でも出されなきゃ何も食べない、だろ?」
あははは、分かってきたじゃないその調子で頑張りなさいね。女達は無責任に笑って各々、家事や子守に戻ってゆく。
「ああそうだ、ヌイさん、こないだはありがとね。助かったわ。また子守お願い出来るかしら?ヌイさんが抱くと、どんな赤ん坊でもよく寝るんだから」
「おい…何でもかんでもヌイさんにやらせるなよ」
「やだ、エムシったら。そっちこそ、あんたのヌイさんじゃないんだから、大概にしなさいよ」
見事に切って捨てられて、暫し言葉に詰まったまま口を開閉させる青年、エムシが我に返ってみると、ヌイは既に敷きっぱなしの布団にごろりと寝そべっていた。薄い胸が上下しているから、どうやら眠っているらしい。溜め息だけ吐いて、仕方なしにその顔を観察する。里芋は後で自分の夕餉にしてしまおう。
街きっての怪人物である一条ヌイという人間は、一日に半刻も眠らない。だからこそ一度見たらまず忘れられないような濃く深い隈が刻まれているのだろうが、然し、よくよく見てみると繊細で美しい造作の顔であるのが伺い知れる。もし一切の隈を取り払えたのならば、二枚目役者も顔負けの美丈夫になるに違いないが、だが、十年前から全く容貌の変わっていない此の人が普通に眠るようになってしまったら、他の全ても失われてしまうのではなかろうか。エムシはそう考えていた。
エムシがまだ只の、農夫の子だった頃から、ヌイはまるで無欲な子供のようだった。よっぽど相手に慣れて気が向いていなくては喋らないし、勧められねば何も食べない。何故恐ろしいアヤカシと対峙する狩人になったのかと聞けば、狩りをするのが楽しい、だの、友達と互いにずっと狩人でいようと約束したから、だのと言う。どれ一つ取っても、尋常ではない。
戸籍上は養父となっているが、エムシはそれこそ微塵も、ヌイを父であるとは思っていない。ヌイにしてもそうだろう。付き纏ってくる奴が居るなという程度で、きっと自分に養子が居るとは知るまい。奇妙な関係ではあったが、一つでもヌイと同じものが欲しかったのだ。たかが苗字ではあれども。
「エムシ、居るかい?」
控え目に戸を開け、顔を出したのは中年の男だった。下町では有名な岡っ引きで、あだ名を佐吉の親分と言う。
「親分、お久しぶりです」
「おう。ヌイさんは…寝てんのか。ああ、いい、いい!ちょっとお前の耳に入れておこうかと思っただけなんだ」
起こすべきかと立ち上がりかけたエムシを制して、佐吉は続ける。
「狩人がやって来た」
ぴくり。エムシが緊張の糸を張る。
この街で、狩人は歓迎されない。何故なら既に優秀な一条ヌイという狩人が居るからで、他の狩人を必要としていない。おまけに、大抵狩人は街から街へと流れてゆく旅人であるが故か、それともアヤカシという化け物を仕留めようとする豪胆な気性故か、乱暴な振る舞いをする粗忽者が多い。ただ通り過ぎてゆくだけの癖、アヤカシが己の手に余る大物と見るや、我先にと逃げ出してしまう。その点、ヌイならば乱暴さのらの字も見当たらない上、どんなアヤカシでも被害の出ぬ内に仕留めてくれる。
普通の村や街ならば、確かに多少の狼藉に目を瞑ってでもさすらいの狩人に縋るしかない。しかし、その風潮のせいで狩人達が増長している節もある。だからこの街に来たのが変に自尊心の高い輩だと、俺を誰だと思っている、だのと喚き立てて、住人を始め、ヌイやエムシに因縁を付けてくるのだ。
「そうでしたか。ありがとうございます」
「いや、礼には及ばねぇよ。こっちも、一条以外の狩人なんざ、扱い辛くて仕方ねぇ。気ぃ付けろよ」
「はい」
以前、ヌイさんは突っ掛かってきた他の狩人に殴られた事がある。その狩人達はヌイさんが普段覇気のないのを馬鹿にしていて、いざ昼になって実力差を目の当たりにすると、キチガイよ白痴よと悔し紛れに言ったのだ。例に依って、ヌイさんが何も言い返さないものだから、調子に乗って、夜になってから人気のない通りを選んで、暴力に訴えた。幸い、勘付いた顔馴染みの者達の知らせで大事には至らず、不届き者共も悉くエムシが返り討ちにした。だが同時に、以前からそうではないかと睨んではいたが、ヌイさんが人間に対してとことんまで無抵抗であるのが明らかになってしまった。つまり、余所から来た厄介者の処理は、エムシが一手に引き受けるしかないのだった。
「ヌイさんの眠り位は、己れが守ってみせますよ」




アヤカシが現れて以来、世は反転した。
人々は陽光が入らぬように固く門扉を閉ざし、以前は恐れ忌み嫌っていた夜の闇に心を許すようになった。
「長閑ですねぇ…」
生け垣に遊ぶ雀や、咲き誇る花々を眺めていると、改めて昼というものから人だけが駆逐されたのだと分かる。鳥も獣も花も、変わらず昼の住人だ。アヤカシが食うのは人間だけで、他の生き物の脅威には成り得ない。
「然し…」
しゃらん。手にした錫杖が鳴った。歩く度に、清廉な音を散らす。
「退屈で、捗りそうにありません」
少し高台となっている寺の門扉を潜り抜け、石段を下ってゆくと、彼方に昨日出会った修羅の舞うのが見えた。並みの狩人ならば裸足で逃げ出す大物を相手に、臆する事なく挑んでゆく。下手をすると、二階建ての家より大きいのではなかろうか。アヤカシは幾本も伸びた人の腕、その掌に開いた口から更に腕を吐き出してあたかも蛞蝓が目玉を出すかの如く体を成長させて、獲物を追っている。その唾液と、粘液を纏った不気味な腕を無造作に斬り捨てながら、家々の屋根を駆け真っ直ぐに頭部を目指す。動作が実に俊敏で、聞こえない筈の足音まで聞こえてくるようだった。
「少々、いや、大分。予想していたよりも強過ぎますねぇ、彼。それで…つかぬ事をお聞きしますが、あなたが一条エムシ、で間違いは?」
「ああ。養父に何の用だ」
抜き身の切っ先を剃髪の後頭部に向けたエムシの姿があった。牽制の為か、既に被った笠の端は切れている。が、それも知った上で、僧侶は尚も飄々とした態度を崩さない。
「いえ、敵意ある者ではありません。故あってこの地を調査しに来たのです」
「狩人ではないのか」
「いいえ、狩人ですよ、間違いなく。ですが、僧侶であり学者でもあります」
学者も僧侶も、狩人とは結び付きもしない肩書きだ。エムシは益々、眉間の皺を深くする。
「申し遅れました。私は利天。数日の間ですが同じ狩人同士、どうぞ宜しくお願いします」
利天が振り向いて会釈をした時、丁度ヌイさんがアヤカシを仕留めた。恐らくは溢れた血でぬかるんで、今日あの道は使えなくなるに違いない。
利天という男は、学者を名乗るにも僧侶を名乗るにも些か若過ぎるように見えた。恐らくは二十二、三。おまけに、格好こそ修行僧のそれであり着慣れているようだがどうにも顔に華があり過ぎて却って胡散臭い。特にこれといって目立つ部分はないのだが全体がすっきりと纏まっており、痩せぎみではあるものの輪郭が素晴らしい線を描いている。どこぞの大店の若旦那だと紹介されたら信じてしまいそうだ。育ちは悪くないのだろうが、腹に一物も二物も抱えているのを思わせる。面倒な奴が来たものだこれなら馬鹿が来た方が余程ましだったとエムシは頭が痛くなってきた。
「所で、この街ではあのようなアヤカシが出るのは日常茶飯事ですか?昨日、一条さん…あなたのお養父様が仕留められたのを見ましたが、あれも中々の大きさでした」
「昨日の…何処で見たやつだ」
「ここから少し東に行った石畳の…ええと、」
「あれか。あの程度なら毎日来る」
肌色の球根に人の足が幾つも生えたようなアヤカシの死骸を思い出し、昨日はあれを入れて六体だったか、と確認する。アヤカシの数が何時もより少なくて、ヌイさんが退屈そうだったのだ。
「ほう、成る程成る程。では、あの程度のアヤカシはどれ位の頻度で現れますか?」
ふむふむと興味深げに軽く頷きながら、利天は懐から冊子と携帯筆を取り出して書き込み始めた。苛立ったエムシが「お前は何者だ」と聞くが「僧侶兼学者です」「何が目的だ」「だから、先程申し上げた通り調査です」埒が明かない。
「仕方がありません。あなたに聞いていても知りたい事は教えて頂けないようですし、一条ヌイさんに聞くとします」
では、と歩き出した利天の前に、蜘蛛のような構造をしたアヤカシが三体飛び出した。人の手足を継ぎ足したような姿だが、信じられない位動きが速い。大抵アヤカシは鈍重な動きのものが多いが、時折このようなものも出るのだ。素早いものが相手の時は中々に手こずる。ヌイさんは楽々斬り捨てるが少なくともエムシや、他の狩人に取っては厄介な奴だ。
「はいっ、と」
しかし、利天は襲い来るアヤカシにも動じず、正確に姿を捉えて瘤のように肥大した頭部に一枚の札を貼った。ぺし。何処か間の抜けたような音だけが残り、行く手を遮る長い脚の間をすっと潜り抜けて通り過ぎてしまう。見事な体運びだった。
次の瞬間、無防備な利天に飛び掛かるかと思いきや、残る二体のアヤカシが札を貼られた一体に食らい付いた。呆気に取られるエムシの前で、みるみる内に札を貼られたアヤカシが食い散らされてゆく。肉が飛び散るが、その肉片すらも奪い合うようにして食っている。「おい、待て!」事態を把握したエムシが同族の肉を夢中で咀嚼するアヤカシを手早く仕留めて、利天を追う。
彼奴は絶対に只の僧侶でも、狩人でもない。
嫌な予感がした。






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