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一条ヌイは頭のおかしな男だった。




別に髪型が珍妙奇天烈だった訳ではない。
ただ、街で一番の変人だっただけだ。まるでキチガイだと見る者は言う。
毎日半刻も寝ないせいで目の下には濃く深い隈が陰鬱な印象を与える癖、何時も女物の派手な着物を好んで着た。しかし歌舞伎者の一言で片付けるには凝っていなくて、ただ家にその振り袖しかなかったから仕方なく着てきた、といった感じだった。勿論着付け方など知らぬわと言いたげに、これでもかとだらしなく着崩して、はだけた併せから腹が見えるのが常だった。その腹にはまるで猪口の底にあるような的柄、蛇の目が臍を中心に居座っていて、悪趣味に存在を主張していた。見事な色味を現した刺青が毒々しい。
そう云えば、先程髪型におかしな所はないような事を述べたが、実際は些か奇妙だったと表現せざるを得ない。何故かというと、一条ヌイの髪型は西洋風の其れであり、月代と髷という一般的な髪型からは外れていたのだ。時代を先取りし過ぎていたと言えよう。短く切った髪はさらさらと風が吹く度に靡き、青白い顔に掛かった。今でこそ普通なそれは、当時にしては奇々怪々なものとして映ったのは想像の翼を広げて貰えるとありがたい。
さて、彼の奇人・一条ヌイは今は取り潰しとなった東国大名の落胤であり、浪人であった。しかし、元は高貴な血が云々、よりも以前に奇人であった。怪人であった。そんな彼が何故街で暮らせていたのか。答えは簡単だ。
彼は、奇人である以前に、アヤカシを斬る狩人であった。
約十年前、突如として大和の國を人ならざる異形の集団が襲った。手足を持った肉色の塊どもは人を食らい、食った分だけ成長した。それらは昼間に蠢いて獲物を探し、日が沈めば山林に姿を隠した。人々は昼間は外に出られなくなり、家を高い塀で囲むだけの余裕がない庶民はただ怯えるしかなかった。
アヤカシを仕留めるには中核を壊すしか方法はない。幾つか頭の生えたものも居るが、その中で一番大きく、高い位置にある頭の中、脊髄を潰せば奴らは息絶える。しかし、言うは容易いがするのは難く。アヤカシには体中に人と同じ形の口があり、歪な手指が狩人を食らおうと襲い掛かる。どれひとつ取っても同じ構造のアヤカシはない。故に退治は困難を極める。
然し、ヌイだけは別だった。
一条ヌイは真昼に出掛けるのを好んだ。化け物の跋扈する中を出歩いて、日が落ちて人々が外に出ると辺りは血の海。生臭い腐臭を撒き散らす肌色の死体が転々と千切れて転がっているといった具合だ。ヌイが戦う姿を見た狩人達は皆一様にこう言う。
「一条ヌイは狂っている。あれは人間ではない。なによりも楽しそうにアヤカシを狩る」
勿論、街の住人達もヌイが普通でないのは見て分かっていた。だが不思議とあれだけの事をしておきながら凶暴でないのはわかっていて、得体の知れない男だなぁと茶飲み話にする程度だった。
狩人は誰しも、手頃な獲物を求めてさすらうものだが、ヌイは完全に街に塒を据えていた。だから、街は常に平和だった。並みの狩人が匙を投げ尾を巻いて逃げ出すようなアヤカシも、ヌイの手に掛かれば翌日には屍と化した。結局、住人に取ってはヌイの意図がどうであれ、街を守っているという事実こそが重要だったのだ。
「ヌイさんヌイさん、ほらこれ食いな。あんた何時もここ通る度にもの食わせてやってるのに、何時まで経っても痩せっぽちじゃないか」
茶屋の姐さんがヌイの口に団子を押し込む。が、当のヌイは大人しくされるが儘。もぐもぐと口を動かして丁寧に咀嚼と嚥下を繰り返している。
「ヌイさん、あんた傘持ってないのかい。もう秋だから雨は冷たいよ凍えちまうよ。ほら貸してやるから持ってきな。アタシが今度家まで取りに行ってやるから」
酒屋のおかみさんに傘を手渡されると、黙って受け取って素直に差して帰ってゆく。
終始が終始こういった具合で、ヌイは一部の女達に絶大な人気を誇った。或いは、犬猫を可愛がるのと同義だったかも知れぬ。
白痴かと思われたが、普通に銭を払って買い物が出来ているし、簡単な読み書き計算も出来る。喋らないのでおしなのかと思えば、時々ぽつりと独り言を漏らす。一条ヌイはそういう人間だった。
「己れは子供の時分、ヌイさんと話した事がある」
茶屋の店先で彼の怪人物について話していると、ある青年が足を止め、会話に加わった。きつい目が印象的な、整った顔立ちの束髪の青年だった。
彼が語るにはこうだ。
寺子屋に通う子供は大抵、夕暮れ時に寺子屋に行って、夜明け前に家へと帰る。夜中であればアヤカシは居ないし、もし居たとしても、石のように固まったまま、直接手で触ろうと動かない。
少年だった自分は家に帰る途中、学友達と道でアヤカシを見つけた。初めて見るアヤカシの不気味さに最初は遠巻きにしていたが、子供らしい悪戯心が鎌首をもたげて、つい枝でつついたり石を投げたりしてしまった。割かし人通りの多い道だったので、周囲の大人も夜だし大丈夫だろうと特に気にしていなかった。
だがどういう訳だか、目覚めたアヤカシは一気に凶暴な本性を露わにして襲い掛かってきた。そこに偶々通り掛かったヌイさんが、まるで仙人のように軽々と跳躍して刀をアヤカシの核に突き刺し、九死に一生を得る事が出来た。
勿論ヌイさんは何時もの無関心と無口を如何なく発揮して何事もなかったかのように去っていってしまったのだが、自分はどうにも命の恩人が気になる。だから暫く、ヌイさんの腰巾着のようになり付いて回るようになった。
最初こそ空気のように扱われていたが、しつこく質問を繰り返す内、二人きりで、ゆっくりと訊ねればヌイさんが返事を返してくれるようになった。
「ヌイさん、ヌイさんの名前って女みたいだな」
「…ヌイ、は、異民族の言葉で、ほむら、だそうだ」
「ほむら?」
「あぁ、炎、ではなく、焔、の字を充てると聞いた。俺には、その異民族の血が流れているらしい」
それだけ喋ると、ヌイさんはまた口を閉ざしてしまった。
以降、自分はなんとなく、あのヌイさんが口を聞いてくれたのが嬉しくて、益々べったり付き纏うようになった。果てはヌイさんに付いて朝方も外を出歩く始末。
日のある内に外を出歩くようになってからは、ヌイさんがアヤカシを狩る姿も見るようになった。成る程、噂には聞いていたが、本当に楽しそうにアヤカシを仕留める。返り血を頬に散らしながら、三国志の勇士や戦国の武将もかくやという働き。軽業師のそれに近い、形のない動きで次々と仕留めてゆく姿はまさに、修羅か羅刹のようだった。一切の情け容赦ない手に対して、嬉々とした表情は寧ろ、破壊の快楽というよりは、泥遊びに夢中になる子供の其れに近かった。それを踏まえると確かに、ヌイさんは狂っていた。振るう刀には、微塵の悪意もないのだから。
「なぁヌイさん、何でヌイさんは狩人になったんだ?」
動かなくなった、気味の悪い死体をつつきながら訊ねた。
「…ともだち」
「へ?」
「ともだちが、居た。むかし。狩りがすきで、それで、あちらだけが死んだ」
「それで仇伐ち?」
いや、と首を振ってヌイさんは続けた。
「…ずっと、狩りをしていようと、言った。お互いに。だから…」
と、ヌイさんは言葉を濁して、もう口を開く事はなかった。次から次へと、死んだアヤカシの死骸を食う為に別なアヤカシがやってきたからで、それを斬るのに忙しかったからだ。
つい喋り過ぎてしまったと思ったのだろう。ヌイさんは翌日から自分を撒いてしまうようになった。これは予想でしかないがその友人とやらが腹の刺青に関わっているのではなかろうか。青年はそう〆縊ると、すっと話の輪から外れて雑踏へと紛れていった。
「ああ、そうだ!思い出した!あいつだよ。今の若いの。ヌイさん、女に袖引かれたら、特に嫌がらねぇだろ?所が男に対しても同じらしいんだ。まぁ要は色恋沙汰にまるで興味もねぇようだが、物好きってぇのは何処にでも居るもんだ。ヌイさん大抵女にもてて男にゃ気味悪がられるのが常なんだが、昔、文字通り唾付けようとした野郎が居てな。ヌイさんの部屋…ああ、ヌイさん長家に住んでんだが…に押し掛けて口吸ってたとこに偶々通り掛かったガキが居て。そいつがもう怒る怒る。大通りまで聞こえるような声で怒鳴って、箒で野郎を追い掛け回したんだよ。あん時ゃ見物だったなぁ、女どもが物投げるはガキは石投げるわで…今のがその箒のガキだよ。随分大きくなったが、目はまるで変わってねぇ。そうだな確か…元は農家の四男坊だったのが、何年か前に狩人になって一条、エ、エ……」
「エムシは…」
と、いつの間に来ていたのか、噂の当人が立っていたものだから、皆度肝を抜かれた。いち早く我に返った商人が、青年の行った方を指差すと、黙ってふらりと行ってしまった。
誰も聞いた事がないという一条ヌイの声は存外涼やかで響きの良い、所謂美声であった。成る程、あの声でぽろりと何か零されれば、ころりと落ちてしまうやも知れぬ。女達がヌイの元に色めき立って通う理由も分かるというものだ。
「で、狩人になって、一条エムシってぇ名乗ってるらしいんだが、ありゃあ、もしかしたらほんとに養子かも知れねぇな」
あながち、あのガキの片思いでもないらしいなと苦笑する親父に、一条ヌイは見た所二十も半ばにしか見えないがと聞くと「どうしてだか、十年前から殆ど見た目が変わってねぇんだ。まぁヌイさんがああだから、もう俺達に取っちゃ土地神みてぇなもんだぁな」と軽く笑って返された「違ぇねぇ」周囲もひとしきり笑った後、皆散り散りに仕事へと戻ってゆく。隣の部下が「一条ヌイ、噂とは少し違いますね」暗にどうするべきか伺ってくるが、これはもうどうしようもないだろう「仕方がない。上様には一条ヌイは矢張り狂人で何時御方に牙を剥くやも知れない輩でありましたと言うしかなかろう。またその弟子の一条エムシは師に輪を掛けて狂犬のような男であったと書いておけ」「あい分かりました。では上様専属の守護を探す旅、まだ終われそうにありませんね」「厳しい旅だが仕方ない。街民から土地神よと言われている者を奪う訳にはゆかぬ。それにあの様子では殿中の謀には無力であろう。アヤカシに強くとも人に弱いのでは意味がない」「成る程。適材適所という訳で」「それに…」「何です」「同姓だけでなく、エムシを名乗るあの青年の事を思うと、な」「?」尚も眉を寄せる部下に、男はこう言った。


「エムシ、は、異民族の言葉で、刀、を意味するからな」






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