少しずつ変わる朝
 遠くで昨日設定したばかりの着信音が鳴っていた。
 しかし、あまりに重い意識と身体に最初は何が鳴っているのか分からず、煩いだなんて苦情だけが頭に思い浮かぶ。
 諦めの悪い音に目覚ましなんて掛けていただろうかと渋々目を開けると、室内はすでに日光で照らされていた。白い壁紙にそれが反射し、やけに眩しい。
 そこでようやく自分の携帯電話が鳴っているのだと気付き、枕元においてあったそれを急いで手に取る。

 着信相手は折原さんだった。
 何故だろうと首を傾げてから、ハッと携帯に表示されている時刻に気付く。


「10時半……」


 ――明らかな寝坊だ。
 別に起床時間が決まっているわけではないのだけれど、朝食の用意は自分の役割だと思っている私には、十二分に寝坊と言える時間だった。
 下手をすれば学校に遅刻したときよりも慌てて通話ボタンを押すと『おはよう』と向こう側から、余裕綽々の声が聞こえてくる。何故だかとても上機嫌だった。


「おはよう、ございます」


 そう返事をしながら布団を出て、折原さんの機嫌の良さに引っかかりを覚える。
 昨日は普段と変わりなかったはずなのに、むしろ平和島さん云々の話で気分を害していても不思議ではないのに、一体何があったのだろう。
 折原さんが機嫌の良くなる物には、不安ばかり抱いてしまうのだけれど。……それに私は何か、忘れているような気がする。


『君にしては随分遅いね』
「すみません……」 


 タンスから着替えを取り出して少し口ごもると、向こう側から笑みを含んだ声が聞こえてくる。


『別に君を責めようと思って起こしたわけじゃないんだ、そんな声で謝らないでよ』
「でも、朝食が」
『それはもう用意して待ってるから、すぐに出てきて』


 何でもないような折原さんの言葉に、まさかこんな時間まで待っていてもらったのかと驚いた。先に食べていてくれて良かったのに。
 そうしてすぐに行きますと返事をしようとしたとき――。


『早くユウキの顔が見たいからね』
「…………」


 私の無言もスルーして、折原さんは通話を切った。対する私はボタンを外す手を止めて、え?と固まる。


 本当にどうして折原さん、今朝はこんなに機嫌がいいんだろう……。
 


 ♀♂



「……食べづらいんですが」


 テーブルを挟んだ向かい側。
 信じられない程和やかな笑みを浮かべて、折原さんはじいっとこちらに視線を注ぎっぱなしだった。
 他に人がいるなら自意識過剰という逃げ道があるのだけれど、生憎ここには私しかいない。あまりに理由が分からず、ちょっと怖いぐらいだった。
 
 実は具合が悪いとか、そんな典型的なオチじゃないだろうなと思いつつ口を開いても、その人は「気にしなくていいから」と笑うだけ。いやいや。
 

「気にしますよ。というより、折原さん機嫌良過ぎませんか」
「別に良すぎるって程、良くはないよ。むしろ気落ちしてるぐらい」


 これで気落ちしていたら、本当に嬉しい時はどんな折原さんが見れるのだろう。ムービー撮影しなくちゃ、なんて嘘だけど。
 冗談にしてはあまり面白くないというより気味が悪いので、私の目つきも当然険しくなっていく。

 
「本当に何があったんですか」
「君も疑り深いねぇ」
  

 そうわざとらしく息を吐いた後、折原さんはやれやれとテーブルに頬杖をつく。 
 もう毎度の事だが、何故こうして折原さんを問い詰めると私は聞き分けのない子供のような扱いを受けるのだろう。


「俺さ、今日から上にいる時間が増えると思うんだよね。だから今のうちにユウキの顔見ておこうと思って」


 理由はそれだけだよ。
 きっぱりと言い切るその人に、私は「そうなんですか」と相槌を打つ。いや、理由がそれだけというのも反応に困るけど。
 でも、思っていたよりもかなり早かった仕事再開(仕事自体は再会以前からやっていたようだけど)に少し残念な気がした。


「寂しい?」
「多少」
「そう、よかった」


 何が良かったのだろう。いつも以上につっこみ所満載な折原さんに戸惑いつつ、聞かなければいけない事を尋ねる。


「何時ぐらいに下りてきますか」
「そうだな……とりあえず波江さんが帰るまでだから、遅くても9時過ぎってところかな」
「あ、波江さんが来られるなら、私もちょっと、」
「今日はダメ」


 上の仕事場に行きたいと続けようとしたのに、折原さんは笑顔でそれを制した。有無を言わせない笑みという奴だ。


「ユウキとはあんまり会わせたくない知り合いが大勢来るんだ。だから、別に意地悪で言ってるんじゃないだよ?」
「それは分かりましたけど……どんな人達ですか、それ」


 まったくもって嫌な予感しかしないけれど。
 そうずっと皿に置いていた食パンに口を付けて、出かけた溜息を飲み込んだ。
 対して折原さんはと言えば、少し考えるような時間を空けて、頬杖をついていた腕を変える。


「少年院帰りで社会復帰したばかりの男とか明らかに俺を恨んでる武闘派の女の子とか?」
「……折原さん、生きて帰ってくださいね」


 一か月前に腹部を刺された人が呼び集めるような人種ではない気がしたけれど、折原さんの仕事相手に口を挟もうだなんて今さらにも程がある。
 コップに注がれていたオレンジジュースを飲みほして堪え切れなかった溜息を吐けば、「うん、ユウキの元に帰ってくるよ」なんて言葉を惜しげもなく口にする。
 恥ずかしい人だ……。
 

「ユウキは今日も外出?」
「ええ、休日ですし、帝人くんとか杏里ちゃん達へ会いに行こうと思ってます」


 自分でそう言ってから、また何か忘れているような気がした。帝人くんや杏里ちゃん絡みで、何かあったような……。
 ううんと首を捻っている私に、折原さんは「そう」と目を細めてから、少しこちらに身を乗り出してきた。思わず何だろうと少し身構える。


「じゃあ、昨日ぐらいの時間帯には帰ってきて」
「ええと……」
「俺が帰ってくるのが遅いからって、約束破らないでね」


 静かにそう言った折原さんへ、私は半ば強制的に頷かされる。
 さすがにそれが嫌だなんて言わないけれど(一か月前の経験から夜道を歩くのはまだ気が引ける)、少しばかり気圧されるのも事実だ。  
 しかし、折原さんは私の反応に満足してくれたのか、身体を引いて「俺も出来るだけ早く帰ってくるから」と当たり前のように笑みを浮かべた。

 
「気をつけて」



 (少しずつ変わる朝)



 ずっと見てるから、なんて冗談だけど。嘘だけど。

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