大丈夫だよ大丈夫だから

 今日エレベーターで見かけた罪歌に見覚えがあることを思い出したのは、夕食を作るために包丁を取り出した時だった。

 確か折原さんと仲違いをして新羅さんたちのマンションに居座っていたとき、罪歌と死闘を繰り広げただろう平和島さんが彼女を運んできたのを見たはずだ。
 何か深い傷があったというわけでもないが、気を失っていた彼女は新羅さんの治療を受けた。そして目を覚ますまで、あのマンションにいただろうと思う。
 思う――というのは、私が杏里ちゃんのお見舞いへ行っている間に彼女は帰ってしまったらしいのだ。だから私は彼女と一切言葉を交わしていない。
 
 そんな彼女がなぜ、このマンションにいたのだろう。
 その疑問に答えてくれるのは折原さんだけで、帝人くんに何か吹き込まなかったか、私はもっと折原さんのお得意先について知るべきではないかと言う相手も、その人だけだった。
 何か靄のかかったものを抱えて待ち惚けること数時間。折原さんが帰宅したのは10時を少し過ぎたころだった。


「折原さん、疲れてますか」


 夕食の片づけを終えた後、ソファで寝転がっている折原さんに真上から声をかける。
 携帯を掲げて何事か操作をしていたその人は、私が声をかけると上げていた右手を下ろして、薄く笑みを浮かべた。


「ユウキの催促はたまに回りくどいね」
「折原さんほどじゃありませんよ」


 そう軽口を叩いて瞬きをすると、折原さんは「それは相手がきみだからさ」と意地悪気に言って体を起こす。
 

「それだと、まるで私が悪いみたいじゃないですか」 
「うん、そうだよ」


 ユウキが悪い。
 なぜか私を批難しながら、折原さんはソファに正しく腰掛けて空いている隣を叩いた。座れということだろう。
 相変わらず理不尽な言葉はもうあきらめるとして、ある意味指定席ともいえる場所に腰を下ろし、普段通りの笑みを浮かべているその人に「それで」と口を開く。


「あの罪歌は、何なんですか」
「用心棒」
「――よう、じん」


 ぼう?
 予期せぬ単語を出されて首を傾げると、折原さんはこちらに振り返って「そう、用心棒」と頷く。
 

「一か月前のことで、さすがに俺も反省したんだ。自分の身ぐらい守れると思ってたけど、世の中そう甘くはないらしい。俺だって無暗に死にたくはないから、人の手を借りることにした――それだけだよ」
「で……でも、なんで罪歌なんですかっ」


 驚きと動揺で少し身を乗り出し、私は比較的大声を上げる。
 操られていない罪歌の子はただの一般市民であって、あの女の子も本当は凄くいい子だったりするのかもしれない。杏里ちゃんだって罪歌だと知っているけれど、斬りかかられたことは一度もない。
 だからそんなに危惧しなくてもいいんじゃないか――なんて言えるほど、私の器は大きくないのだ。杏里ちゃんは杏里ちゃん、あの子はほとんど見も知らない女の子。それをどうして同じように考えられるだろう。
 今回はただ折原さんの身(延いては自分の身)を案じての意見だ。


「折原さんなら罪歌以外にも、もっと別の人がいるんじゃ――」
「ユウキ、ひとつだけ訂正」


 そう言って小さく目を細めた折原さんは、普段よりも淡白な声音で言った。


「俺は罪歌を宿している彼女にこそ協力を仰いだけど、罪歌そのものなんかに好んで頼った覚えはないから。勘違いしないでね」
「……はあ」


 人間至上主義の折原さんらしい訂正だけれど、最近そういう節を見ていなかっただけにどこか懐かしい感じがする。
 

「それに、彼女はきみを斬ったりしないよ。そういう条件だからね」
「その条件をのんで協力する代わりに、その子へ何か情報をあげるとか……そういう取引でもしたんですか」
「大正解。まあ、人間である彼女が行動する分には、どうしようと構わないんだけどさ。俺ときみを操られるのだけは困るから」

   
 だから、そのことに関しては何の心配もいらないよ。
 そう付け加えた折原さんに、私はわかりましたと頷いた。こんなことで嘘を吐く人ではないのだから、信じてもいいはずだ。
 
 じゃあ、次は――。


「折原さん」
「なに?」


 ひとつこの人を問いただしてみよう。


「帝人くんに……というより、帝人くんたちに、また何か仕掛けたりしてないですよね」
「どうして急に?」


 一貫した笑みを浮かべている折原さんは、自然にそう切り返してきた。焦るわけも驚くわけもなく、どちらかと言えば嬉しそうに首を傾げる。
 その様子へ少し違和感を感じながら、今日帝人くんに会ったことを説明した。


「そのときに彼が、折原さんのことを親切で優しい人だって言ったんですよ。どう思いますか」
「んー……きみには最近、優しくしてるつもりだけど」
「それはそうですね。でも、折原さんってタダで『いい人』にはなってくれないでしょう」
「酷いなあ、人を守銭奴みたいに」


 苦笑気味にそう言う折原さんへ、私は小さく眉を潜めた。


「お金じゃありませんよ。正臣くんと沙樹ちゃん、正臣くんと杏里ちゃんと帝人くん、茜ちゃんや私自身だって――」


 あなたへの楽しみという代価を払ったんですから。
 そう続けようとした言葉は、背中を打ちつけた衝撃で掻き消えた。打ち付けたといってもソファ上でのことだ、痛くはない。痛くはない、けれど……。


「あの……折原さん、これは」
「そうだね、いい眺めだよ」


 何を肯定されたのかわからないが、蛍光灯の光を背にして影の降りたその人の表情に、私は小さく悪寒がした。
 どこがどう変化しているのかは説明できないけれど、とにかくその人の浮かべた笑みによくないものを感じた。
 しかし逃げ出そうにも両手首を抑えられて組み敷かれているせいか、動くのは頭と胴体だけ。脚は折原さんに乗られているため、使い物になるとは思えなかった。


「あのさあ、ユウキ」


 退いてくれという前にそう言葉をかけられ、思わず口を閉じる。
 それと同時に先ほどまでとは明らかに違う声音へ、体が強張った。
 

「きみの言うとおり、俺は見たいと思ったものにそれ相応の投資をしてるだけだ。帝人くんたちにも勿論実行してる。そしてこれからもやめるつもりはない。でも、ねえ……ユウキ」


 不意に上半身を支えていたその人の腕が崩れて、必然的に身体が密着した。
 そのせいで左右で心臓が鳴っているような感覚に襲われ、一時的に会話の内容が頭から飛んでしまう。真面目な質問をしているのに……っ!
 私がひとり慌てている中、耳元に顔を埋めていた折原さんは吐息交じりに言葉をつづける。


「それでも、きみ自身をそこに含めるのは間違ってる。俺はきみと一緒にいたいから優しくするんだよ。そこだけは違うんだって、覚えていてほしいんだけど……そうもいかないみたいだねえ」


 ぞくりと絡みつくような言葉に喉が詰まる感覚がして、一度離れてほしいのにその頼みを口にすることもできない。
 嫌悪とは違う不安めいたものへ身をよじると、両手首に加えられていた力が強まって、形の定まらない声が漏れる。


「ユウキは何も気にしなくていいんだ、俺の仕事や粟楠会、他の取引先のことも気にする必要なんてない。これ以上余計なことに目を向けないでよ、ねえ」


 どうして言葉にしていない、私の疑問にこの人が答えているのか――いや、ちっとも答えになっていないし、言っていることは怖いぐらいだけれど……疑わないわけにはいかなかった。
 縮こまっていた舌をどうにか動かして「なん、で」と尋ねると、表情の見えない折原さんは小さく笑って、


「きみには俺だけを見てほしいから」


 ――じゃあ、おやすみ。



 (大丈夫だよ大丈夫だから)



 これ以上離れないで

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