計画的な接触方法
夕方 池袋某高層マンション 最上階
矢霧波江にとっての野崎ユウキという存在は、はっきり言ってしまえばどうでもいいという一言に尽きた。
もっともユウキに限らず自分の弟関係以外には淡白でドライな言動が目立つ波江だったが、そんな彼女でも今玄関先で繰り広げられている光景にはさすがに戦慄が走った。
「無理です本当に無理なんですアレはッ、アレだけはどんな修羅場をくぐっても無理なんです!杏里ちゃんは別ですけどそれ以外の罪歌は洒落になりませんっこれは今すぐ平和島さんを……!」
「シズちゃんなんて呼ばなくても大丈夫だから、ひとまず落ち着こうか」
口ではそう呆れたようなことを言っている臨也が浮かべている表情――それがどうしようもないほど嬉々とした笑顔であることに、波江だけは気づいてしまった。
当のユウキは臨也に真正面から抱きついているせいで、目の前の男がどんな表情を浮かべているのか全く理解していないようだ。
不意に訪れた幸運を喜んでいるというより、事が計画通りに進んでいることを満足がっているその表情へ、波江は昼間に感じたことを再び呟く。
――本当に、どこまで落ちるつもりなのかしら……あの男。
数分前にユウキから電話があったからと玄関へ向かっていく様子を見たときは、まさかこんな算段を立てているとは露ほども考えていなかった。
3か月ほど前に彼女が罪歌とどのような関わりを持ってしまったのか――それを前々から知っていただけに、そしてこれから来る客を理解していただけに、事の全貌が波江にははっきりと見えてしまった。
恐らく臨也はユウキと今日ここに来るはずだった罪歌のひとり、贄川春奈を元から鉢合わせさせるつもりだったのだろう。そうでなければあんな意地の悪い笑みを浮かべているはずがない。
まったく相手の恐怖心も利用して自らの歓びを得ようとする臨也の行動には、相変わらずとも陥落し続けているとも言えた。
「まあ、こういうわけだからさ。波江さん」
冷ややかな様子で室内から二人を眺めている波江へ、不意に臨也が言葉を投げかけた。
そしてその悠々とした笑顔を見ていると、よほど三か月前のことがトラウマになっているのか柄にもなく臨也にひしと抱き着いているユウキに、同情の念を抱いてしまった。
「俺はユウキを下に連れて行くから、しばらくの間留守番よろしくね」
「それはべつに構わないけど、早く帰ってきてちょうだい」
あんな連中の相手はしたくないわ。
いくら同情の念を抱こうとも、決して行動に移そうとは思わない。そんな波江に臨也は満足げな笑みを浮かべた。
♀♂
恐らく罪歌だろう少女にエレベーター前で出くわしてしまった直後、私はベストタイミングでやってきたエレベーターに飛び込むことで、なんとか危機を脱した。
しかし一か月前の階段転落もそうだが、三か月前の記憶だってまだ色あせていない。私があのときに感じた恐怖は、ホラーの系統として最高の位置に存在しているのだ。そうそう忘れられるはずがない。
そう半ば混乱した頭でどこが一番安全かと考えたとき、一番最初に思い浮かんだのが折原さんがいるだろう仕事場だった。
仕事中だったらどうしようという気遣いは当然できず、とにかく鍵を開けてもらわなければとその人の携帯へ直接電話をかけた。
ちなみに、何を喋ったのかはいまいち覚えていない。ただ折原さんが「じゃあ鍵は開けておくね」と返事をしてくれたことだけやけにはっきりと覚えている。
後はエレベーターで最上階一階手前で降りてから(もし仕事場に来るならそうするよう、折原さんから何度も言われていたのだ)、足を庇うこともできず全力で階段を駆け上がった。
そうして開けた扉の前に立っている折原さんに前回同様体当たりをかまして、なんやかんやと諌められながら下の階にある部屋へと戻ってきたのだった。
……いやなんというか、正気に返ると恥ずかしいことこの上ない。
「俺は怯えてるきみも恥ずかしがってるきみも、両方好きだけどね」
「……忘れてくれるとありがたいんですが」
絶賛デレ期が到来しているらしい折原さんにどう対応していいのかわからず、いつも通り杜撰な態度をとってしまうのは私のアドリブセンスが悪いからだろうか。
ソファの隣に腰かけているその人をちらりと確認すると、思い切り見られていたのですぐに目を背けてしまった。……ううん、一年以上暮らしてもこの人の容姿にはぎくりとしてしまう。
「ユウキがこっち向いてくれたら、忘れてあげてもいいよ」
笑みを交えた言葉に、ああこれはと内心額を押さえた。
折原さんとの駆け引きで勝てたことなんか、数えるほどもない。
「絶対に嘘でしょうそれ」
「俺がきみに嘘ついたことなんてあった?」
「散々ありましたよ、三か月前の罪歌のときだって――」
私を騙してひとりにしたのは折原さんだったじゃないですか。
そういい返そうとしたとき、ひとつ重要なことに気が付いた。むしろどうして今まで忘れていたのかと言える内容だが、まあ今過ぎたことを責めてもどうしようもない。
そのことに関してある可能性を考えると寒気がし、おかげで頭が冷えてスムーズに折原さんの方へと振り返る。
「というか、そうですよ。罪歌がどうしてこのマンションにいるんですか、折原さんが知らなかっただなんてことないでしょう」
「……まったく可愛くない反応だねえ、相変わらず」
やれやれと息をついて深くソファにもたれたその人は、こちらに目を向けたまま「まあ確かにそんなのがこのマンションにいたら、俺たちは別の場所に移っていただろうさ」と言った。
「でも、彼女はこのマンションの住民でもないし、きみに危害を加える存在でもない。だから安心していいよ」
「それって、どういう意味ですか」
歯切れの悪い言葉に少し体を乗り出して尋ねると、折原さんは不意に上半身を起こして顔をこちらに近づけた。
いきなりのことに身を引くこともできず、私の真ん前で微笑んだその人は「今日帰ってきたら教えてあげる」と静かに言った。
♀♂
「あら、思ったより早かったのね」
どうせ30分は帰ってこないだろうと踏んでいた波江の予想に反し、臨也は10分程度で仕事場へと戻ってきた。
その様子は出て行った時と変わらず上機嫌だったが、この男が上機嫌であることに募るものなど不安しかない。
波江の言葉に「まあね」と答えながらデスクにつく臨也を目端で追い、波江は淡々とした言葉を口にした。
「ユウキが心配だからとか何とか言って、帰ってこないかと思ったのに」
「そんなの24時間365日彼女と離れてるときはいつだって心配さ。でも、仕事はやらなくちゃいけないからね」
「あ、そう。私はその回答だけで十分だわ」
視線を臨也から手元の資料に向け直し、波江は素っ気なく言葉を返した。
対する臨也は唐突に声のトーンを低くして、
「それに、ユウキの安全はとりあえず保障されてるからね。あれでも心配無用なんだよ」
そう酷く苦々しげな口調で呟いた。
さすがに訝しく思って波江が顔を上げると同時に、室内へ来客を知らせるチャイムが鳴り響いた。
(計画的な接触方法)
……今は別の意味で心配だ。
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