トラウマ再び

 結果から言うと、私は稽古を受けずにしばらくは見学という形をとらせてもらえることになった。

 どういう理由からくる意気込みなのか(多分折原さんという言葉に反応してだろうけれど、むしろそうでなければ困る)、
 私に稽古をつける気満々だった師匠さんが、なぜ意見を変えたのかと言うと――。


「初心者相手に何考えてんだよ、兄貴」


 つい先ほどまで私の目の前に立っていたその人に、颯爽と回し蹴りを叩き込んだ女性のお蔭だった。
 髪の短いボーイッシュな印象を受ける彼女は、私よりも少し年上に見えた。醒めた瞳の中にもしっかりと芯の通ったものが伺えて、武道をやっている人だというのが一目でわかる。
 ……いや、師匠とまで呼ばれている男性に回し蹴りをしかけ、あまつさえ転倒させたという光景を見てしまったのだ。何かやっていなければおかしい。

 そうして私が唖然としている中、舞流ちゃんはニコニコと「さすが美影コーチ!」と声援を送った。


「話聞いてれば怪我も治ってないって言ってんじゃないか、そんな奴に稽古なんてつけられるわけないだろ」
「……つーことは、美影。お前、さっきから盗み聞きして、うおうッ!?」


 畳に転がっていた師匠さん目がけて容赦なく足蹴りをかまそうとした美影さんだが、寸でのところで師匠さんが左に転がってそれを避けた。
 一概に足蹴りとは言っても、スピードは素人のそれと段違いだった。仕掛けた美影さんも凄いが、それを避けた師匠さんも、さすがは舞流ちゃんに師匠と呼ばれる人だ。
 というかこの二人、兄妹なんだよね。一連の会話を聞いている限り……。

 雰囲気が全く似ていないなぁと少しずれたところへ感心していると、美影さんがわずかに眉を潜めて師匠さんを見下ろした。


「自分の兄貴がトレーナーの仕事もしないで見慣れない奴とくっちゃべってるんだ、働けって言いに来たんだよ。このバカ兄貴」
「くっちゃべってなんかいねえっつーの。俺は貞操の危機に瀕してるその子に護身術をだな、っておまっ!?」


 やはり無言で低姿勢での蹴りを入れようとした美影さんに、師匠さんは素早く立ち上がって距離を取った。
 こんなに手に汗握る兄弟喧嘩を、私は未だかつて見たことがない……それを喜ぶべきなのかどう思うべきなのか。
 先ほどよりいっそう冷めた目つきで師匠さんに一瞥した後、美影さんは不意にこちらへ目を向けた。
 一瞬睨みにも近い何かを感じてびくりとしたが、次の瞬間には先ほどまでの醒めた表情に戻っていた。


「あんたも少しは反抗しな、こんな奴の言いなりになるんじゃないよ」
「実の兄をこんな奴呼ばわりかよ!?」
「兄貴が言い方ってもんを学んだら、改めるさ」


 そう言って小さく息を吐いた美影さんは、思い出したように「兄貴」と師匠さんへ口を開いた。


「次見る予定の稽古が終わったら、そのまま上がる」
「あ?ああ……つーことは、夜には出るってことか。でも珍しいな、お前が夜に外出するなんてよ」
  

 私の隣を通り過ぎようとした美影さんは、師匠さんの言葉に一瞬だけ立ち止まった。
 しかし、結局何も言わずに部屋を出て行ってしまった。



 ♀♂



 夕方 池袋某路地



 美影さんの言葉(というより実力行使)が効果てきめんだったのか、明日からも好きなように見学すればいいと師匠さん――いや、影次郎さんに言ってもらえた。
 もちろん怪我が治り次第お金を払って(まだ貯金は尽きていない。あくまで『まだ』だけれど……)、体を動かすために通うつもりだが、他の人の練習風景を見ているのもなかなか楽しい。
 特に舞流ちゃんが影次郎さんと稽古をしている様子は本当に格好良かった。……たまにあったセクハラ問答は、聞かなかったものとして。


「今日はユウキさんが見てくれてたから、いつも以上にはりきっちゃったよ!」
「努(頑張ってたね)」


 私の隣を歩きながら上機嫌に笑う舞流ちゃんに、九瑠璃ちゃんが小さく頷いた。
 
 舞流ちゃんの稽古が終わった後、どうせなら途中まで一緒に帰ろうという話になって現在にいたるのだけれど……ううん、新しい住居を知られても良いのかダメなのか。
 でも、折原さんは絶対に嫌がりそうだから……やっぱりやめておこう。それなら二人には悪いけれど、このあたりで別れた方がいいかもしれない。    
 そう考えてひとつ頷き、私は二人に声をかけた。


「じゃあ、私はそろそろ帰るね」
「なんで!?」


 勢いよく振り向いた舞流ちゃんは、言葉通り目を丸くしていた。どうしてこんなに驚かれているんだろう。


「イザ兄まだ帰ってきてないんだよね!?それならうちに泊まりに来てよ!」


 ねえねえとこの子からせがまれるように言われてしまうと、すぐにはダメだと言えなかった。
 隣で九瑠璃ちゃんもコクコクと頷いているし、それはとても嬉しいんだけど……今日は折原さんに聞かなければいけないことがたくさんあるのだ。
 それはあの人の元に帰らないと、教えてもらえない。


「今日は用事があるから無理だけど、また今度泊まらせてもらうから……それじゃダメかな」


 そう言って手を合わせると、舞流ちゃんは少し拗ねたようにむくれてから、


「絶対だからね!」


 と言って、指切りを強要された。その行為自体は可愛いのだけれど「嘘ついたらクル姉と服交換!」という歌詞はどうだろうと思った。
 ……服ってまさか、学校に着て行っている体操着じゃないよね?もはや希少価値があるともいえる、あれと交換ってわけじゃないよね……。
 そう内心不安に思いながら二人と別れ、私は今の自宅であるマンションのロビー前までやってきた。
 そこで部屋番号を入力してから鍵を差し込み、ロビーの扉を開けてエレベーター乗り場へと向かう。
 すると、扉の空いているエレベーターがあったのでそこへ向かおうとしたのだが、少し近づいたところで中に人がいることに気が付いた。
 

「あ、すみませ――」 


 待たせてしまったのだろうかと頭を下げて、エレベーターに乗り込んだ時だ。


「何階かしら?」


 そういってこちらに微笑みかけた髪の長い少女の瞳が、一瞬赤く揺らめたいような気がした――。
 


 (トラウマ再び)



 愛してる愛してる愛してる愛してる、ああ『彼女』だわ!

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あきゅろす。
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