新居で再スタート

 折原臨也さんと私では、あらゆる物事の価値観が違っている。
 例えば、折原さんは何かにつけて非日常を好むけれど、私は安穏とした日常を望んでいたり。
 大分マシになったとはいえ、妙に束縛めいている折原さんに対し、私は案外自由を好んでいたり。
 私は平和島さんや九瑠璃ちゃん、舞流ちゃんが好きだけれど、折原さんはその3人が嫌いだったり苦手だったりする。

 まあ、そんなことは誰にだってあるものだろう。同じ価値基準の人なんて、そうそうお目にかかれはしない。
 違うからこそ意見の食い違いだって生まれるが、そんなことを気にするナイーブさなどいつのまにやら私の中からは消えていた。
 
 折原さんと、一緒にいると決めたのだ。それぐらい図太くならなければ、この先やっていけない。

 やっていけない、んだけど……。


「金銭感覚を疑います」


 心躍るはずの新居前。
 私は早くもこの人の価値観について行けず、脱力していた。


「稼ぐものは稼いでるからねぇ、こういうときのために」
「……こういうときのために、の用法を間違っていると思いますよ」
「俺が必要だと思えば、そのときがお金の遣い時なんだよ」


 君のためにもなるなら、なおさらね。
 
 機嫌良さそうにそういう折原さんは、わざとらしく両手を広げて、にこりと笑みを浮かべた。
 その言葉自体は嬉しいけれど、やっぱりやりすぎだと思うのだ。無茶苦茶だと、心底思う。
 目の前にある扉と折原さんを見比べて、私は小さく息を吐いた。

 池袋の高層マンションを二部屋も借りるだなんて、本当に、どうかしている。



 ♀♂

    

 6月下旬。
 あちこち傷んでいた私の身体も大方癒え、松葉杖も手放せた頃。
 まるで私の回復へあわせたように、折原さんがそろそろ新しい居住先へ移ろうと言った。
 そこが池袋のマンションだと聞いて、私は思わず「本当ですかっ」と折原さんに詰め寄ってしまったほど、そのときは嬉しかった。
 これで知り合いがたくさんいる池袋へ、新宿からわざわざ行かなくても済むと、喜んだものだった。

 で、実際にやってきて聞かされたのが、

「今回は仕事とプライベートを分けることにしたよ」

 まさかの二部屋同時借りだった。
 新宿のマンションですら、一体どれだけのお金がかかっているのだろうと、住み始めた頃はよく考えていたのに……。
 池袋の高層マンションを二部屋、しかもひとつは最上階――なんて恐ろしい話だ。この人は私が思っていた以上に、お金持ちであるらしい。
 けれど、何をしてそのお金を得たのかという経緯を考えれば、決して尊敬の言葉を口にすることは出来ない。
 そのお金で生活をしている時点で、私も十分に褒められたものではないが……。

 ちなみに慌てて理由を聞いたところ、今後はこれまで以上に人の出入りが増えるからと言うだけで、具体的なことは何も教えてもらえなかった。
 

「別に、私は何も気にしませんよ……。次のバイト先が見つかれば、また朝から夜まで空けますし……」


 やや高い位置にある棚へ食器を置きつつそう呟くと、横から持っていた皿を全て取り上げられた。
 これぐらいなら届くんですが。そういう意味合いをこめて、軽々と食器を置いていく折原さんを見据える。
 しかし、私の思いはまったく通じていないのか、手の休まる様子はない。
 

「病み上がりは病み上がりらしく、安静にしておきなよ。すぐにお金がいるってわけじゃないんだろ?」


 以前よりやや砕けた口調で折原さんはそう言うが、私はお金のためだけに働きたいとは思っていない。


「……何もしないのが、いたたまれないんですよ」


 箱から別の食器を取り出して棚に載せようとすると、またもや横から掻っ攫われた。
 だから、私は他人だけが働いている状況に落ち着けない人間なんだってば。そういうのが理由で、バイトもやりたいんだよ。
 そんな言葉が喉まで出かけていたが、多分折原さんはそれを見越してこんなことをしているのだろう。親切なのに、まったく質が悪い。
 空になった箱を抱えて、まったくと息を吐いた。


「あのねぇ、俺がやりたいようにやってるだけなのに、君が気に病んでどうするわけ?」


 食器を仕舞い終えた折原さんは、呆れたようにそう言う。


「最上階にある仕事部屋と、それより下の階にあるここじゃあ、広さも値段も全然違う。おまけに出入りする人間の中には、明らかに君とそりが合わない連中もいるんだ。それが原因でいざこざを起こされるのは面倒なんだよ」
「……わかりました、とりあえずこの部屋の件は納得します」


 本当は微塵も納得できていないが、今さらどう言っても借りてしまったものは仕方がない。
 これからまた引っ越し作業をするというのも、迷惑な話だ。諦めよう。そして部屋の掃除は怠らないようにしよう。
 

「でも、それが私のバイトをしない理由にはなりませんよ。今は必要なくても、お金なんていつ必要になるかわかりませんから」


 私用で使う物ぐらいはきちんと自分の稼いだお金で買うべきだろう。
 普段の行いがあまりにもあまりになので忘れられがちだが、私も二十歳を過ぎた人間としての社会常識ぐらいは持ち合わせている。
 まあ、一般に言うフリーターでしかないのだが。

 正面切ってそう言い放てば、折原さんは聞き分けのない子どもを見るような目で私を見つめた。
 ……なんで私が我が侭を言ってるような雰囲気なんだ。


「その辺りは止めても無駄だろうからねえ……いずれは好きにやってもいいよ。でも、今はおとなしくしておいてくれない?」 
「……身体のことですか」
「それもある。あと、そのうち人の出入りが増えたら、俺が忙しくなるからね。それまではできるだけ、ここにいて欲しいんだ」
「でも、忙しいときほど、いたほうがいいんじゃないですか。逆に忙しくない時に外出した方が――」
「本当に君は、一から十まで言わないといけないんだねえ」


 ほとんどバカにした口調でそんなことを言われ、少しばかり腹が立った。
 折原さんの言い方が回りくどいのも、原因の一環だろうに。私の好みは直球ど真ん中のストレート、というか、変化球が好きな女子もそうそういないと思うけれど。
 そんなことを思いながら閉口して、私は半ば喧嘩腰にその人を見上げていた。
 引っ越し一日目にしてもうこれか。ナイーブさは捨てられても、怒りの沸点は上げられないらしい。

 そう自分自身にも呆れて小さく俯いた瞬間、不意に右肩を掴まれて、私は反射的に目を上げる。
 そのときにはもう、折原さんの顔は正面になかった。

 
「傍にいて欲しいって、言ってるんだよ」  


 耳元でそんなことを囁かれ、あともう少しで持っていた箱を取り落とすところだった。
 ……なんだろう、私、耳弱いのかな。そう関係あるようでないことを思い、耳元を這うような余韻を打ち消そうとする。
 病院前で言われたときは、ただ単純に嬉しかったのに、この感触の違いはなんだろう……。


「忙しくなれば、二人きりでいられる時間も減るからね。今のうちにと思ってさ」
「わかりましたから……そこで言うのは、やめてください」
「そこってどこ?」
「耳元ですよ、というかもう離れてくださいっ」


 箱を隔てにしてその人を押しやると、折原さんは何故かニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた。
 ……直球に物事を言ってくれるのはいい。私自身傍にいると言ったのだから、折原さんが忙しくなるまで、外出を控えめにしても良い。
 でも方法が間違ってる。これは違う。心臓に悪い。何かに呑まれそうになる。頼むからやめて欲しい。私の反応を見て楽しまないでください。
 

「やっぱり、ユウキは耳弱いねぇ」
「やっぱりって……知っててやったんですか」
「そうだよ。顔が赤くなる様子を見るのが楽しくてね」


 本気で楽しんでたよこの人っ。
 きっと今も赤いのだろう顔を隠すため、思わず手にしていた箱で頭の前に壁を作った。
 私の赤面は折原さんを楽しませるためにあるんじゃないっ、かとって別の何かのためにあるわけでもないけど。

 現在進行形でにやついてるに決まっている折原さんへ、いつこの箱を投げつけてやろうかとタイミングを見計らっていたところ、唐突に視界が開けた。 
 ――――取られた、ようだ。


「返してください、それは折原さんに投げつけるんですから」
「堂々と犯行予告しないでくれない?」


 20センチ強の身長差を利用して、折原さんは箱を頭上にあげるという古典的な意地悪をする。

 ――この悪ふざけに付き合うことがどれほど馬鹿らしいか、それは十分に分かっていた。
 しかし、ここまで馬鹿にされてすごすごと引き下がるのが、果たして正解なのだろうか。
 私は違うと思う。時には粘り強さや子どもじみているという罵倒に耐えても、やらなければならないことがあるのだ。

 例えば楽しそうにニヤついている折原さんの顔面に段ボールを投げつけるとか。


「こんな小学生みたいな意地悪をして、何が楽しいんですか。それに身長差があると言っても、平和島さんに比べれば、10センチも違うって私知ってるんですよ」
「それにわざわざのってる君も十分に小学生だね。さらにその30センチ下をいく君なんて、下手したらあの筋肉バカは見つけられないかも知れないよ?小さすぎて」
「そうですね、確かに身長は低いですが、それでも生きていけます。そして私より背の高い折原さんは、そのうち正臣くんに身長抜かれるんですよ。見下ろされるんですよ」
「だから何だい?俺は自分の後輩が成長していく様子を見られて幸せだね。君はこれまで見下ろされ続けてるから、その気持ちが分からな、」「疲れました」


 きっと波江さん辺りならこの先何時間と折原さんを罵倒し続けられるのだろうけれど、私にはこれが限界だ。
 伸ばし続けていたせいで重い腕をさすりながら、私は大きく息を吐いた。ここまでノンストップで喋り続けたのは、いつ以来だろうか。
 よく考えればこんなことに付き合うより、もっと大人の対応をするべきだったんだろう。
 「え?何やってるんですか?」みたいな。波江さんレベルの冷たい目線で。次回へ繋げる反省としよう。

 
「君さ、波江さんに影響受けすぎじゃない?」
「弟さん以外の男性へのあの対応は、同性から見ると恰好良いんです」
「あんな人を手本にしちゃ駄目だよ」


 心の底から思っているような口調でそう言いながら、折原さんは段ボールを開けて真っ平らにしてしまった。 
 別に今さら横取りしてぶん投げようだなんて、考えていないのだけれど。
 

「言い忘れてたんだけどさ」


 まるで何事もなかったかのように話を切り出した折原さんは、組み立て前の段ボールを適当な場所に置いて、ズボンのポケットから何かを取り出した。
 

「……何ですか、それ」


 形状は鍵のように見える。というか、そのまんま鍵だ。
 しかし、何に使うのだろうと私が首を傾げていると、折原さんが一見朗らかな笑みを浮かべて、


「君の部屋の鍵」


 あげるよと言いながら、こちらにその鍵を差し出してきた。
 私は一瞬何を言われているのか分からず、半ば呆然とその鍵を受け取った。

 私の部屋の鍵?


「え、この部屋自体の、鍵じゃないんですか」
「違う違う、君の寝室の鍵」
「……鍵が、ついてるんですか」
「そうだよ。よかったね、これで毎晩部屋の模様替えをしなくて済むじゃないか」


 そう言ってにこやかに微笑む折原さんと真新しい鍵を見比べ、私はようやくこれが喜ぶべき事だと気が付いた。

 この一年間、いや一年半以上望んでいた物がついに!
 折原さんの言うとおりだ、これで毎晩家具を扉の前に置く習慣から解放される!
 多分、私が信用できると判断してくれたからだろう。お互いに傍にいることを決めたから、さすがにもう渡しても大丈夫だと思ってくれたんだろう。
 まあ、私は自分の就寝後の折原さんの行動を、信用していないのだけれど。

 もらった鍵を両手で握りしめ、


「ありがとうございます、折原さんっ」


 そう早口で伝えた後、私は早速自室へと向かった。
 


 ♀♂



「喜んでもらえて、なによりだ」


 上機嫌な足取りで部屋を出て行ったユウキの背を見送り、臨也はひとりそう呟いた。
 そして当分彼女が戻ってこないだろうことを見越した上で、鍵を取り出したポケットから、もうひとつ――まったく同じ型の鍵を取り出す。


「まあ、スペアもあるんだけどねぇ」


 ――波江さんと同等の罵倒を言えるようになったこと以外は、格段に甘くなっているなぁ。
 
 先程までのやりとりを思い出し、臨也は鍵を弄びながら、純粋に嬉しがっている笑みを浮かべた。 
 2ヶ月前なら耳元で囁こうが傍にいて欲しいと言おうが、赤面しながらもそうそう自分の意見を譲ろうとはしなかっただろう。
 臨也の言っていることは全て自分をからかっているだけだと判断し、そんなものには流されないと言い張っていたに違いない。
 そう思えば、ユウキが本当に自分を信用し始めていることが嬉しくて堪らなかった。

 
「外出なんかしないで、ずっとここにいればいいのに」



 (新居で再スタート)



 変わっていたり、変わってなかったり。      

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