【ignorance】
[3]
 
 * * *



 女はまた、懐中時計を覗いた。肩の上で真っ直ぐ切り揃えられた黒髪に、茶の差した切れ長の眼。黒のトップスにポケットの多いベストを羽織った、一見麗しい女である。
 これで何度目か、数えるのも嫌になる程の溜め息を、またひとつ。約束の時間はとうに過ぎている。この場所で夕方、落ち合う筈であったのに。
 日は没し、女は一人、町外れの換金所の前で待ち続けた。

 次々と店の照明が灯り、途絶えた人通りがまた増え始めた頃。ようやく、待ち人は苦笑いを浮かべながら現れた。

「あ、シナギ見っけ! ごめんごめん…待った?」

「アァ〜〜〜ス〜〜ロ〜〜〜!!!!!!!!」

 怒号。地獄から足を鷲掴み引き摺り墜とす、死神の奇声。アスロは悪寒を感じる。が、遅い。既に背後に回り込まれ、腕が延び、ヘッドロック、体重が掛かり、ああ何だこの技は、目が霞む……

「何処をほっつき歩いてやがったんだこの亀野郎っ!!! 私がどれだけ待ちくたびれたと思ってんだ、ああ゛!? もう日が暮れちまっただろうがぁ!!」

「ギブギブ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいいいー!!!」

 絞め続ける女…シナギの腕を必死に振りほどこうとする。やっと解放され、アスロはげほげほと咳込みながその場に崩れ落ちた。

「ほら、お前の分を出せ。早く」

「はい…」

 目にうっすらと涙を浮かべながら、懐から紙切れを出してシナギに手渡した。受け取ったシナギはそれに記された文面に目を走らせると……額に青筋。

「ひぃっ」

 悪寒再び。しかし今回、嵐はやって来なかった。喩えるなら、静の炎。ああアスロ、あなたはどうしてこうなのかしら。無言の攻めが続く。わざと笑顔をつくってみせるシナギの、口元の筋肉が引きつっていた。だがやがて、何かを諦めたように肩を落とし、口を開いた。

「……でも、こればっかりはあなただけを責めるわけにはいかないわね。悪いのは、そう、この経済」

 吐き捨て、シナギはアスロを残し、目の前の建物の中に消えていった。
 ここは換金所。この国…王都ヤーレコム独自の制度も入り交じった施設で、報酬手形や小切手を相応額の現金と交換する所である。



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あきゅろす。
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