鵠のうたう歌
3
そこへ、ふいに草を掻き分けて走ってくる者がいた。森の静寂は一瞬にして崩れさり、その者が立てる大きな音で満たされた。がさがさと草を踏みしめ、荒い息づかいで、何かから逃れるように必死に駆けてくる。
目を凝らして音のする方を見ていると、大きな槻の木の脇から黒い影が飛び出した。月の光に照らされて、その人物の顔が見て取れる。
それは、あの《雨宿りの木》で出会った少年だった。
少年は手に大振りの刀を握り締め、後ろを何度も振り返りながら走っている。その顔は月の下でもはっきり分かるほど青ざめていた。
「……どうして、こんなことになったんだ」
少年は走る速度を緩め、ついには立ち止まってしまう。両手を見下ろして、いまにも泣き出しそうに顔をゆがめて、声を震わせた。
「……皆、死んでしまった………」
よく見れば、彼の手の平も着物も赤黒いもので汚れていた。
「本当にあいつの命令なのか……?あいつが、俺たちを殺せとそう命じたのか……?」
その時、背後で具足の立てるガシャガシャという音やいくつもの馬の嘶き声、草を掻き分ける忙しない音がした。少年は振り向くと、まだ追っ手の姿が見えないことを確認して走り出した。
しかし、森の中に突如現れた泉の前まできた時には、少年は幾人もの兵に取り囲まれていた。兵はそれぞれ刀を構え、じりじりと包囲を狭めてくる。少年も後ずさるが背後には泉が迫っていた。
一人の兵が少年に向かって切りかかってくる。
月明かりに反り返った刀身が鈍く光り、あやまたず振り下ろされた。
「──」
少年が何かつぶやく。しかし、その声は瑞乃には届かなかった。
──そして少年は斬られ、そのまま背後の泉へと落ちて沈んでいった。
目が覚めると、ひどい汗をかいていた。
部屋の中は真っ暗で、時計を見るとまだ午前三時を過ぎたところだった。
人が殺される夢など初めて見た。心臓が変な風にどきどきして、手の平は微かに震えている。
瑞乃はゆっくり息を吸って吐きだした。それを何度も繰り返していると、その気配に気づいた黒猫の紫苑が顔を上げる。
ベッドの隅で丸くなっていた紫苑は、どうしたの、と問い掛けるように首を傾げた。瑞乃はその小さな黒猫を抱き上げると、ようやく落ち着くことができた。温かい。
怖いくらいリアルな夢だった。夢の細部を思い出し、また体が震えた。
瑞乃はベッドのわきに置かれた机の上を見る。そこには、あの勾玉があった。勾玉は窓から差し込んだ月光に反射して、緑色に光っている。
少年に出会い、勾玉を拾った夜にこんな夢を見るなんて……
瑞乃にはそれが単なる偶然とは思えなかった。
+++++
翌日、登校して教室に入ると、自分の机に鞄も置かず真っ先にある席に向かった。そこには先に登校していた少年が、机に突っ伏して眠っていた。
彼の名を雨宮涼という。
「おはよう、涼くん」
雨宮涼という少年は、大抵寝ているか、ぼーっとしているかのどちらかだった。常に持ち歩いているウォークマンは彼のトレードマークで、授業中でもなんでもお構いなしに音楽を聞いている。
無論、入学当初は先生方に何度も厳しく注意されていたらしいが、言っても言っても、聞いているのかいないのか分からないような、ぽーっとした顔で見返され、おまけに全然ウォークマンを外す気配がない。
そしてついには、ウォークマンをしていることと寝ていること以外には、別に授業を妨害するわけではないので、最終的に先生方がさじを投げたという兵(つわもの)なのだった。
だが、そんな涼にもある秘密があった。
彼の祖父、辰之助は探偵事務所を営んでいるのだが、一般的な探偵業の他に、裏家業として言葉の響きだけでもかなり怪しい心霊相談所なるものを行っているのだった。
しかし、そんな裏家業をしているにも関わらず、辰之助にはまったく霊感とか霊力とかいうものがなかった。
そこで登場するのが彼の孫の涼だ。祖父と違って強い霊力を持つ涼は、その力を祖父に見込まれて、毎日こきつかわれているのだった。
──なぜ、瑞乃がそんなことを知っているのかというと、辰之助と瑞乃の祖父禎次郎(さだじろう)が昔からの知り合いだったからだ。だから瑞乃も昔から涼の諸事情は知っていた。
「──ちょっと聞いて欲しいことがあるんだけど……」
そう言って、涼の肩をゆさゆさ揺する。しかし涼のことだ、こんなことでは起きるわけがない。瑞乃はもう少し力を込めて肩を揺すった。
「涼くん、起きてよ」
「………ん……」
涼は腕にうずめた顔をわずかに持ち上げたが、何を思ったか、また眠りにつこうとする。
「ちょっと待った!また寝ない」
すかさず瑞乃の手が涼の肩を先程よりさらに強く揺するが、涼はぴくりともしない。それどころか、規則正しい呼吸を繰り返し、完全に眠ってしまう。
「もう、いつもこうなんだから」
瑞乃はため息をつきながらも慣れた様子で鞄を足元に置くと、涼の耳からイヤホンを取り去り、思いっきり息を吸い込んだ。
この行動を見て、周りにいたクラスメートはすばやく耳を塞ぐ。
「こらーっ!朝っぱらから寝なーい!!起きろー!!」
瑞乃の大音量は教室はおろか廊下にまで響き渡る。
耳元でこんな大声で叫ばれれば、普通の人は堪らず飛び起きるだろう。しかし、涼は肩をぴくりと動かしたかと思うと、じつにのろのろとした動きで顔を上げただけだった。
「…………」
しばし無言でぼうっと机の上を見つめる。
周囲の見守る中、涼はゆっくり身体を起こすと、傍らに立つ瑞乃に気がついて顔を上げた。
「………あ、瑞乃。おはよう」
欠伸をしてから、涼はかすかに微笑んだ。
いつものことながら、こののんびりした態度に脱力しつつ、瑞乃はもう一度あいさつしなおした。
「……おはよう、涼くん」
「どうした?何か用か?」
気を取り直して、昨夜の夢のことを話そうとする。
しかし、口を開く前に後ろから肩を叩かれた。振り返ると、そこには幼馴染の小西知香が立っていた。
「おはよう、瑞乃。いつものことながら、素晴らしい声だねえ」
「──知香。おはよう」
瑞乃のあいさつに笑顔を向けると、知香は涼にも声をかける。
「雨宮君もおはよう」
「……おはよう」
ぼうっとした覇気のない声で答える涼に、知香は不思議そうに問いかける。
「あのさ、いつも思うんだけど、瑞乃のあの声を耳元で聞いて、なんともならないの?耳がキーンとした事とか、驚いて心臓が止まりそうになった事とかないの?」
「ちょっと知香、それどういう意味よ」
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