[携帯モード] [URL送信]

鵠のうたう歌
2


 まさか雨が降るなんて思ってなかった。

 瑞乃(みずの)は学生鞄を頭上にかざして傘代わりにしつつ、どこか雨宿りできる場所はないかと小走りになりながら、さっと周囲を見渡した。しかし、この辺りは閑静な住宅街でコンビニすらない。

 どうして、今朝傘を持って出なかったのか。

 今更だが、心底悔やまれる。雨に濡れるのはべたべたするから嫌いなのだ。

 濡れた長い髪が頬に張り付くのをさっと払いのけながら、瑞乃はイライラと今日の出来事を思い返した。

 そもそも学校が悪いのだ。

 どうして梅雨入り間近というこの時期に運動会などやろうとするのか。そのせいでただでさえ美術は苦手なのに、そこしか空いている係りがないという理由で美術係になってしまうし、応援ボードを作るからと大量のダンボールを家から持って来させられるし、そのせいで両手がふさがって傘を持つ余裕すらなかったのだ。

 ふいに、くしゃみが出た。制服が湿って肌寒い。ぶるぶるっと背中に悪寒が走る。風邪をひいたらどうしてくれるのだ。

「……もう学校のバカー!」

 学校は何も悪くない。傘を持ってこなかった瑞乃が悪いのだ。そうと分かっているが腹が立つ。

 その後も学校に対する文句をぶつぶつ言いながら走っていると、建ち並ぶ家々が一旦途切れて、公園が姿を現した。

 その場所が目に入った途端、瑞乃は迷わずそこに駆け込んだ。ブランコに滑り台、その他には砂場と古びた木製のベンチがひとつしかないという小さな公園だったが、ここには《雨宿りの木》がある。

 瑞乃は目的の木を見つけると、その下に駆け寄り、ようやく一息つくことができた。鞄からハンドタオルを取り出してブレザーやスカートなど、あちこち拭く。その間にも雨足はますます激しくなり、当分止みそうになかった。

 瑞乃は《雨宿りの木》の幹に背中を預けると、途方に暮れながら灰色の空を見上げた。

「……どうしよう、困ったな」

 制服のポケットから携帯電話を取り出してみるが、この時間帯は家には誰もいないはずだ。瑞乃は三人家族で、父も母も働いている。いつも先に帰ってくるのは母だったが、それでも午後六時を過ぎないと帰ってこない。

 近くに祖父も住んでいたが、さすがに迎えに来てもらうのは気が引けた。

 携帯画面のデジタル時計はまだ午後五時三分だと告げる。

「あと、一時間か。それまでに止んでくれるといいけど……」

 仕事が終わって疲れている母を煩わせたくなった。

 しかし、瑞乃の願いもむなしく、雨はますます激しく降り注いだ。

 夕暮れ時だというのに誰も通りかからない。静まり返った公園に響くのは雨の音だけで、なぜだか急に侘しい気持ちになった。雨に打たれたブランコや滑り台は、わけもなく淋しい気持ちにさせる。

 瑞乃は雨がかからないように、さらに幹に身体を寄せた。

 この木は、瑞乃が幼い頃からすでに《雨宿りの木》と呼ばれていた。なぜそう呼ばれるようになったかは定かではないが、子供たちが雨宿りしている姿をよく見かけるのは確かだ。

 ぼんやり木の枝先から落ちる滴を眺めていると、ふいに近くから誰かの声が聞こえた気がした。はっとして辺りを見回すが、どこにも人影は見当たらない。

「……気のせいかしら?」

 首を傾げてつぶやくと、またすぐ近くで声がした。

 今度は聞き間違えではない。少し掠れた感じの声で、この木の裏側のほうから聞こえた。

 瑞乃はそっと幹から顔を出すように、裏側を覗いてみた。

 すると。

 そこにいたのは、こちらに背を向けてうつむいた、瑞乃と同い年くらいの十六、七歳の少年だった。

 いつからそこにいたのだろう。来たときには気づかなかった。少年はすっかり雨に濡れそぼって、髪からは滴がぽたぽたと落ちている。

 そして奇妙なことに、その少年はまるで絵巻から抜け出てきたような着物姿で、襖(おう)を着込み、足には脚絆、手には手甲という出で立ちだった。

 ――─信じてる…………

 今度は何を言っているのか、はっきり聞き取れた。

 信じてる。

 ただ、その一言だけだった。少年はまるで自分に言い聞かせるように、その一言をひたすら繰り返し口にしているのだった。

 ここは声を掛けるべきだろうか。

 瑞乃は戸惑いながら、とりあえず一度仕舞ったハンドタオルを引っ張り出すと、再びそっと少年の方を見る。どのタイミングで声を掛けるか、それともそっとしておくべきか。悩みながら、何気なく見た少年の腕に目がとまった。

 両わきに力なく垂れた腕。

 それを見た瞬間、どきりと心臓が跳ねた。

 指先が透けている。
 よく見ると、指だけではなかった。膝から下や右肩の辺りも透けている。

 幽霊。

 ぽんとその単語が頭に浮かんだ。

 その途端、恐怖がお腹の辺りからせり上がって来て、瑞乃は思わず後ずさった。ローファーの靴底がざっと音を立てて地面をこする。その音に、はっとしたように少年が振り返った。

 目が合う。

 その瞬間、目の前に恐ろしく澄んだ泉が現れた。周囲は大きな木々に囲まれ、空を仰げば漆黒の夜空に冴え冴えと星が輝いている。

「……──え?な、何、どうなってるの……?」

 泉の前にあの少年が立っている。悲しげな瞳で瑞乃を見つめて、何かつぶやいた。

 聞き返そうとした瞬間、景色が霞んで、何が起こったのか理解できないまま、気づくと瑞乃は《雨宿りの木》の下に立っていた。ざーっという雨音が辺りに響いている。

 少年は悲しそうに瑞乃を見つめていたかと思うと、ふっと瞼を閉じた。

 ───信じてる…………

 そうつぶやくと、すうっとその姿は薄れて消えてしまった。

 瑞乃は呆然として、しばらくの間、動くことができなかった。

 なんだったのだろう、今の現象は………

 少年の立っていた場所を見ると、地面は今し方まで誰かいたかのように濡れていた。そして、そこには緑色の小さなものが落ちていた。しゃがみ込んで手に取って見てみると、それは緑色の半透明の石でできた勾玉だった。

「どうしてこんなものが……」

 そう言いながら、頭ではあの少年の持ち物だったのではないかと思えてならなかった。

 信じてる。

 その言葉を繰り返していたけれど、いったい何を信じているというのだろう。あんな悲しそうな瞳で、つらそうに顔をゆがめながら。

 瑞乃は思いを断ち切るように勾玉から目を離すと、それをポケットにしまった。

 ───そして、その日の夜、瑞乃は不思議な夢を見た。


 +++++

 
 まるで映画を見ているようだった。

 瑞乃は目の前に映し出される光景を、ただぼんやり眺めていた。

 そこは深い森の中だった。もうすっかり日は落ちて、夜の帳が辺りを支配している。空には眩いばかりに輝く星々が散りばめられ、梟の泣き声が遠くから響いてきた。穏やかな夜だった。木々の間から月が顔を出し、森を青白く染め上げていく。



[次へ]

第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!