鵠のうたう歌
14
空を仰げば、漆黒の夜空に眩いばかりに輝く星々が散りばめられ、梟の鳴き声が遠くで響いていた。穏やかな夜だった。木々の間からは月が顔を出し、森を青白く染めていく。
もしこんなことにならなければ、今頃みんなで草の上に寝転んで夜空を見上げていたかもしれないのにな……
がさがさと草を踏みしめ、荒い息づかいで、必死に走る。大きな槻の木の脇を通り抜けると、少し開けた場所に出た。月が走るおのれの姿を照らし出す。手に持ったままだった抜き身の刀が月に反射して、鋭利な輝きを放った。これではすぐに追っ手に見つかってしまうだろう。
「……どうして、こんなことになったんだ」
苦しくて、もう走れなかった。足は鉛のごとく、身体は砂を詰め込まれたみたいに重い。ついには足が止まってしまった。
香は両手を見下ろす。
硬く握り締めた右手は硬直して、刀を離すことさえできない。
鳶、鈍、茨黄、蘇芳………
「……皆、死んでしまった………」
お前たちが死んだなんて、信じられない。
今日だって、いつもと同じ朝を迎えたはずだった。いつものように朝一緒に起きて、ご飯を食べて、ふざけあったり、けんかしたり……
なあ、このままここで眠ったら、またいつもの朝にならないかな……?
鳶がいて、鈍が笑ってて、茨黄がまた憎まれ口叩いて、蘇芳がそれに頷いて───
──胸が張り裂けそうだった。
香は震える手で顔を覆った。
佐伯の言葉が頭によみがえる。
「本当にあいつの命令なのか……?あいつが、俺たちを殺せとそう命じたのか……?」
──豊彦……本当にお前が………?
その時、背後で具足の立てるガシャガシャという音やいくつもの馬の嘶き声、草を掻き分ける忙しない音がした。はっとして背後を振り返る。まだ追っ手の姿は見えなかったが、このままではすぐに追いつかれてしまう。
香はまた走り始めた。
しかし、森の中に現れた泉の前まできた時には、幾人もの兵に取り囲まれてしまった。兵はそれぞれ刀を構え、じりじりと包囲を狭めてくる。香も後ずさるが背後には泉が迫っていた。
もう駄目か……
ぼんやりそう思った。
一人の兵が斬りかかってくる。香は抵抗しなかった。月明かりに、反り返った刀身が鈍く光り、あやまたず振り下ろされる。
──その瞬間、香は見た。
草を掻き分けてやってくる、豊彦の姿を───
遠くからでも、周囲が闇に包まれていても、一目でわかった。
刀が香の胸を切り裂く。赤い鮮血が飛び散った。
……──なあ、豊彦……、お前今どんな顔をしてるんだ……?
目がかすんで良く見えないんだ。
少しでも悲しいって思ってくれてるか……?
俺、お前と村で遊んだり、けんかしたり、一緒にいたずらしたりして叱られたりしたこと、今でもよく覚えてるんだ。
──あの頃は楽しかったな……。
楽しかったっていえば、鳶と鈍と茨黄と蘇芳と俺たち六人で暮らした瑞光寺での生活だよな。
ご飯も腹いっぱい食えたし、皆いい人ばっかりだったし。
そういえば、将来についても話したっけ……
俺たちは漠然とした将来しか想像してなかったけど、鈍は大工、茨黄と蘇芳なんて商人だもんな。笑える。
そういや、鳶の夢ってなんだったんだろう?
聞きそびれちゃったな……
俺さ、忘れないよ。
何があっても、この楽しかった日々を。
絶対に忘れない。
だからさ、豊彦。
たとえお前が変わってしまっても、俺たちと過ごして一緒に笑ったことだけは忘れないでほしいんだ。
──だって、それが俺たちの生きた証だろ……?
できれば、この場でお前に会いたくはなかったよ。
それだけが心残りだな……
さよなら、豊彦……
薄れゆく意識の中で、つぶやく。
「──俺は、信じてる。お前は俺たちのこと、忘れたりしないって……」
香は最期に微笑むと、背後の泉へと落ちていった───
+++++
夢から覚めたとき、涙が流れていた。胸の奥が熱くなって、悲しみが波のように押し寄せてくる。両手で顔を覆うと、声を押し殺して泣いた。
また、あの夢を見るなんて……!
はじめて見たときは単なる映像のようだったのに。少年が斬られるのが、ただただ怖いと思った夢だったのに。それが日ごと夢を重ねるたびに、香の思いが伝わってくるようになって、やがてこの夢へと再び辿り着いた。
斬られる瞬間、香がこんなことを思っていたのかと思うと、もう涙が止まらなかった。
「……香」
豊彦は本当に裏切ったのか。最後に姿を見せたのは、自らの手で香を斬るためだったのか?───それとも……?
瑞乃は止まらぬ涙を何度も拭いながら、あらためて明日の調査を頑張ろうと心に決めた。
+++++
翌日の日曜、涼とは駅で待ち合わせていた。今の図書館では資料にも限界があり、隣町にあるもっと大きな図書館に行くことにしたのだ。
瑞乃は電車の中で昨日の夢を涼に話す。
「そうか……辛かっただろ?大丈夫だったか?」
「……うん、もう平気」
「それならいいんだけどさ」
涼はドアに寄り掛かる。その視線の先には深川山があった。
「──こうなると、香の未練はやっぱり豊彦ってことだよな……。最後の最後で信じていた人に裏切られて、そこが引っ掛かってるんだろうな……」
「……そうだね」
最期の香は微笑んでいたけれど、幽霊の香はとても悲しい瞳をしていた。それがとても切なかった。成仏できないほど、香の悲しみは深かったの……?
「……でもさ、話に聞いた限りじゃ、豊彦ってあんまり人を裏切るようなヤツだとは思えないんだよな。しかもその裏切った理由がどうも微妙だし。──血筋とか身分とか、そんなのには拘らなさそうに思うんだけど」
「私もそこが気になってる」
もし、豊彦が裏切ってないとすれば……
「怪しいのは佐伯、か……」
涼がぽつりとつぶやく。瑞乃も同じ意見だった。香と対峙していたときの、にたにた笑った顔からにじみだす嫌な感じ。思い出しただけで気分が悪くなりそうだ。
まもなく電車は、目的の駅に停車する。
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