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02 歌境


 ――瀧谷。

 心の中で、その名を呼んでみる。

 白夜は白く咲き誇る桜の根元に座り、数歩前に立って宵闇に沈む紺青の空を見上げている瀧谷を眺めていた。

 艶やかな黒髪が風に流れて、白く光る額があらわになる。宵闇を吸い込んだような暗青色の瞳は、くるくる動いて何かを探している。

「……あっ、ねえ、見て白夜! 今日は満月なんだね」

 東の山際に姿を現した黄金の鏡を指差しながら、瀧谷が振り返った。

 白夜と目が合うと、まだ幼さの残る丸い頬をゆるませて微笑む。

「ああ、綺麗なもんだな」
「やっぱり満月の日は力が強まるの?」
「オレは夜神――月神の眷族だからな。強くなる」

 答えながら、瀧谷の腕をつかんで引き寄せた。

「わっ……と」

 体勢を崩した瀧谷の華奢な身体を腕の中に軽々と受け止める。その途端、甘露の甘い気が辺りに強く立ち込めた。

「痛いな。急に引っ張るなっていつも言ってるだろっ」

 眉根を寄せた顔をあげて、睨んでくる。そんな表情も可愛くて、口元をにやりと弛めると、ますます不機嫌な顔をされた。

「なににやにやしてるんだよ。離せ」
「嫌だ。瀧谷の香気はどんな美酒にも勝る。とくにこんな満月の夜には、な」
「……キモいんだけど」
「なんとでも言うがいいさ」

 笑ってぎゅっと腕に力を込めると、さらに強く香気を感じた。

 それを胸いっぱいに吸い込むと、月の気を吸い込んだ時よりも強い呪力が沸き上がってくる。ぞくぞくした。

 やはり《皓月の甘露》の放つ香気は凄まじい。特に満月の夜の香気は、殊更に甘く、酔うことのない神であるこの身も、骨抜きにされそうだ。

「……やっぱり、満月の夜は俺の香気も強くなるのか…?」

 うつむいて黙りこんでいたかと思うと、瀧谷は手を握りしめながら呟いた。

「大丈夫だ。お前のことはオレが必ず守ってやるって言ってるだろ。神は誓約を破らない。安心しろ」

 背中をとんとん叩いてやると、瀧谷は力んだ拳をほどいて微かに頷く。

「ほら、しけた面するな。せっかく桜が咲いてるんだ、これほど見事な花はそうそう拝めないぜ」
「……俺、桜は嫌いだ」
「なんで」
「桜は綺麗だけど、その美しさで善いものも悪いものも引き寄せる。それがまるで……」

 瀧谷の口が苦いものを噛んだように歪んだ。

「まるで、俺自身を見ているみたいで……吐き気がする」

 甘露の魂を持って生まれたために、魂の放つ香気があらゆる神や妖を惹き付ける。それは決して幸福なことではなく、香気を得ようとする妖に命を奪われることなどザラだ。

 甘露の魂の持ち主は十も生きられないと、云われている。

 瀧谷は今年で十三歳になる。それもひとえに白夜の守護の賜物だったが、より強い妖に襲われれば守りきれないこともある。

 そういう意味では、瀧谷はいつだって命の危険に晒されているのだ。特に香気が強くなる満月の夜は、普段は押し隠している恐怖があふれだしてもなんの不思議もない。

「……大丈夫だ。絶対に守る。この身にかえても…な」
「白夜……?」

 ぽんと瀧谷の頭に手をおきながら、白夜の心は遠い過去に舞い戻っていた。

 長い黒髪をなびかせて、月の下で美しく微笑む女性――

 瀧谷と同じ《皓月の甘露》として生まれ、それと同時に優れた封印師だった彼女。そして、白夜の力が及ばず死なせてしまった、愛しい人。

 桜は彼女の愛した花だった。


 月影に白きたまゆら散らせなん
 永久に望まん君への想い路


 彼女が白夜の為に詠んだ歌だ。

 ちょうどこんな満月の晩だった。花びらがはらはら散って、彼女の長い髪に舞い落ちた。

『この歌、どんな意味なんだ?』

 問いかけた白夜に、彼女はふわりと微笑む。

『そうね……月影に白く咲く桜は刹那に散っていっていく、その光景があなたと私の間に路を作り、私の心を、あなたに永遠に届ける、って意味かしら』

『よく分からん』
『いいの、白夜が私と桜を眺めたことを覚えていてくれたら、それで』
『忘れるばずないだろ』
『……ありがとう』

 ――八千代。あの時、お前の言いたかったこと、いまなら分かる気がする。

 桜を見るたびにお前を思い出す。お前の花のような笑顔も、凛とした瞳で敵に立ち向かっていった姿も、肩を震わせて声を押し殺して泣いてた背中も、みんなみんな覚えてる。

 お前の言いたかったことって、きっとこのことだったんだろ……?

「……白夜?」

 すっかり物思いに耽ってしまった。瀧谷が首をかしげて顔を覗き込んでいた。黒い髪に白い花びらが落ちている。

「……花びら、ついてるぞ」
「え、うそ」
「今、取ってやる。じっとしてろ」

 ――八千代。オレは忘れない。お前が愛した桜がこの世にある限り、お前を想い続けるよ。オレの心、舞う花びらに乗せてお前に届くと信じよう。








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