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Trick or treat!
5


 手探りで床を探していた婦人の手を取って、そこに眼鏡を乗せる。
「ありがとう」
 婦人は眼鏡をかけると、顔を覗き込んでいた僕をまじまじと見返した。
「まあ、靴磨きの坊やじゃないの」
 婦人は少し驚いた顔をしていたが、僕が手を差し出すとその手を借りて、立ち上がった。その時、作業台を片づけていた彼に気づいて、あらっと声をあげる。
 彼の方も婦人が立ち上がったのに気づき、申し訳なさそうに近づいてきた。
「すみません、帳簿が少し汚れてしまったみたいです」
 差し出されたそれは、彼の言う通り、左下の隅がインクで汚れていた。
 婦人は帳簿を受け取ると、眼鏡の端を持ち、目をすがめるようにしてページをめくっていく。その間、僕は落ち着かない気持ちでその様子を見つめていた。
 やがて、婦人は帳簿をパタンと閉じた。
「老眼って嫌ね」
 顔をしかめたかと思うと、婦人はにっこり笑った。てっきり怒られると思っていた僕は、拍子抜けした。
「えっと、……大丈夫でしたか?」
 戸惑いながら帳簿に目を向けると、婦人は頷いた。
「ええ。今、確認したかぎりでは、書き付けた箇所は無事だったわ」
「……良かった」
 ほっとしたら、急にお腹がグウーッと鳴った。
「わっ」
 慌ててお腹を押さえたけれど、もう遅い。婦人は、あらあらと言って笑い出した。おまけに彼も吹き出すものだから、僕は顔が真っ赤になった。ああ、もう、消えたい。
 ひとしきり笑って、アークライト婦人は目尻の涙を指で拭い、
「さて、今夜はどのような用事かしら? あなた方の格好からして、お菓子をもらいにきたんじゃなくて?」
 と、微笑んだ。
 すっかり目的を忘れていた僕は、はい、と返事をして、何故か、そこで“気をつけ”の姿勢を取ってしまった。
「おいおい、アークライト婦人は学校の先生じゃないんだから、そんな畏まらなくても」
「あ、ついクセで」
 僕の担任のケプラー先生が礼儀に厳しい女性で、そのせいで気の抜けた時なんかに、ふいに大人の女性に話し掛けられると、つい気をつけの姿勢を取ってしまうのだ。
 それにしても、このクセが学校の先生によるものだとよくわかったな、とちょっと不思議だった。
「ケプラー先生を知ってるの?」
 僕が尋ねると、彼は肩をすくめた。
「まぁね。昔この辺に住んでたことがあったから」
「え、そうなの? どこ?」
「アリエス通り」
「ホント!?」
 僕の家もアリエス通りにあった。
 古い家が並ぶ石畳の小道。それがまるで北天に輝くアリエスに向かって続いているように見えることから、その名がついた。
「じゃあ、僕ら同じ学校に通ってたんだね。だから、ケプラー先生のことも知っていたんだ」
「うん」
「そっかぁ。それじゃあ、もしかすると、一緒に遊んだこともあったかもしれないね」
「……そうだね」
 そう思うと、今日のこの出会いは、どこか運命めいたものさえ感じる。きっと彼も同じ気持ちに違いない。
 そう思って彼の方を期待をこめて見たけれど、予想とは逆に、彼はその瞳に悲しみの色を浮かべて、僕を見ていた。
 その表情を見た瞬間、僕は笑顔のまま固まってしまった。
「……どう、したの?」
 訊いたが、彼はさっと表情を一変させ、さっきの様子はウソだったかのように、見慣れたいたずらっぽい笑顔を浮かべた。
「あの、」
 僕、何か悪いことでも言ってしまったのだろうか。
 だが、そう口にする前に、奥へお菓子を取りにいっていたアークライト婦人が戻ってきた。




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