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水精石
9

 翌朝目覚めると、やはり晴辰はなにも覚えていなかった。すると、あれは俊が見た夢だったのではと疑いたくなる。でも、水盤の水は確実に増えていて、ますます俊は困惑するのだった。

 当の晴辰は、忠道と昆虫採集に出掛けて、ここにはいない。出掛けに見た晴辰の無邪気な笑顔を思い出して、ため息が出た。

 どうしてこんなことになったのだろう。

 俊は頬杖をついて、考え込む。

 水精石。本当にあの石が何か関係しているのだろうか。

 あの石を見つけて以降、晴辰の様子がおかしくなった。それは確かなことだと思う。しかし、それが石のせいかというと、それははっきりとはわからないのだった。

 そういえば、はじめて蔵に入った日に見たあの少年。まるで石の在りかを示すように立っていた彼は、一体何者なのだろう。晴辰の夢にも少年が出てきたというし、彼と石には何か関係があるのだろうか。

「………」

 例えば、あの少年は水精石に思いを残したまま死んでしまった幽霊というのはどうだろう。彼には何か思い残したことがあって、それを晴辰を通じて訴えている、とか。

 なんだか陳腐なホラー小説みたいだ。

「……くだらない」

 俊はつぶやいて、足元に置いたリュックから、例の雑誌を取り出した。

 昨夜のページを開く。すべての答えは、この中にあるのかもしれない。



 その日の夜、俊は眠らずに、その時が来るのを待っていた。

 時刻は午前一時。

 そろそろだ。

 俊は横たえていた身体を起こすと、隣の布団で寝ている晴辰の様子を窺った。

 昼間、蝶やらバッタやらを追いかけて、さんざん走り回った晴辰は、夕方に俊が図書館から帰ってきた時にはもう疲れはてて座敷の座卓に寄りかかってうたた寝していた。とりあえず夕飯だけはなんとか食べさせ、その後は布団を敷くとぱたんと横になって完全に寝入ってしまった。

「……寝てるときは、まだ俺の知っている晴辰なんだよな……?」

 安らかな寝顔を見てつぶやく。

 思えば、こうして弟の顔をまじまじと見たことなど、ここ最近はなかった。まして晴辰のことでこんなにあれこれ考えたり、悩んだりするなんて思ってもみなかった。

 自分は弟にどこか冷たい、と思うときがある。

 特に中学に入ってからは、以前ほど晴辰と遊ばなくなった。晴辰が寄ってくると、うっとうしく感じることがたびたびあったし、一段階上の学校に上がったことで、小学生の弟がひどく子供っぽく見えてしかたなかった。

 自分はもうそんな子供じゃない、とでも思っていたのか。晴辰があれをしよう、これをしようと寄ってくるたびにイライラして邪険にして、突き放した。そしてそのたびに、晴辰が傷ついたような顔をするのに気づいていても、放っておいた。

 どうしてだろう。

 ようは自分のことで精一杯だったのだということか。

 授業、定期試験、部活、これからはさらに受験もある。そして将来についても考えはじめる時期だ。日々、これらのことに追われて、晴辰のことまで構う余裕はなかった。

 大人はそんな俊を見て、思春期なのだと口をそろえて言う。

 でも、と俊は思う。

 自分は思春期なのだ、といってしまえばそれまでだが、それでもそんなものに振り回されて自分を見失うのは面白くなかった。

 ──俺は、晴辰のことをどう思っているんだろう。

 そして。

「──ハル、お前は?お前はオレのこと、どう思ってるんだ……?」

 そっと手を伸ばして、晴辰の額にかかった髪をかきあげた。

 その瞬間、晴辰のまぶたが震えて、そっと開く。
 俊はさっと手を引くと、少し離れて、ゆっくり起き上がる晴辰を見た。

 晴辰は、俊の顔を見返すと微笑んだ。
 例の笑みだ。

 しかし、俊はもう動揺したり、混乱することはなかった。雑誌のつづきを読んで、俊なりに答えを見つけたのだ。

 晴辰はじっと視線を向けてくる俊には構わず、いつものように立ち上がって、縁側に向かう。そして、夜空を見上げはじめるのだった。

「……毎夜、毎夜、熱心だな。一体何を見ているんだ?」

 俊の声など聞こえていないかのように漆黒を見上げている。

 俊はしばらく答えを待って黙っていたが、いっこうに口を開く気配のない晴辰を見てため息をつきかけた。その刹那、ちらっと肩越しに晴辰が振り返る。

 とっさに身構える俊を見て、晴辰は薄く口元に笑みを浮かべると、唐突に言った。

「そらを」
「……え?」

 あまりに簡潔な答えにその単語の意味を捉えるのに数秒を要した。

「空?」
「そう、そらを見てる」

 晴辰はそう言って、再び視線を漆黒の夜空へと向けた。

「今日は月も星も見えない。いや、月のある場所は分かるな。薄く広がった雲を透かして、かすかな光が見て取れる。明日は雨かな。雲の流れが速い」

 そういえば、台風が近づいていると夕食の時に忠道が話していた。

 明け方から昼にかけて、強い風雨を引きつれて通過するらしい。

「雨は好きだよ」

 晴辰は雨が降る様子を思い浮かべているのか、目を閉じて、ゆっくり大きく息を吸った。

「景色は水煙に煙って、大気に水気が満ちる。水の中とは違った水が、冷えた風となって肌を撫ぜていく。その心地よさに目を閉じて、身をゆだねていると───」

 ふいに黙ったかと思うと、晴辰は呆然と自分の手のひらを見下ろした。

「………どうした?」

 慎重に俊が尋ねると、晴辰は呆然としたまま、何かぶつぶつとつぶやきはじめた。

「……まただ………あの景色……水…………あの光の向こうにいるのは……?」
「おい」

 俊が声を掛けてもそっちのけだ。

「……駄目だ………思い出せない…………」

 放心したようにつぶやき、それっきり口を閉ざしてしまう。

 ふたりの間にしばしの沈黙が漂った。

 疑問はいろいろとあった。だけど、彼がわけのからないことをいうのはいつものことだ。

 それにそれらの疑問の答えは、この後の俊の行動しだいではわかるかもしれない。

 俊は意を決すると、卓上にある水精石のもとに移動した。鏡のように滑らかな水面に、強張った表情をした自分の顔が映る。それを見て、不覚にも笑ってしまった。よっぽど緊張していたのか。それとも恐れているのか。彼を。

 笑ったことで少し余裕を取り戻した俊は、水底にひっそりと眠っている白い石を取り出した。水は夏場だというのにひんやりとしていた。

 石を手のひらに乗せて見る。こうして見るぶんには、どこにでもありそうなありふれた石なのに。一体どこから水が溢れてくるのだろう。

 俊はこちらに背中を見せている晴辰のほうに顔を向けた。

「……この石について調べてみたんだ」

 ぽつりと言った俊の言葉に、さして驚きもせずに晴辰が振り返る。

「へえ」

 晴辰はにこりと笑ったが、瞳は相変わらず静謐な湖面のようで、その中に感情のゆらぎは見つけられなかった。

 俊は、その瞳を見つめながら奇石を蒐集していた男の手記を思い出していた。



 ……卓上に置き、硯の上に置いてみると、石からは清浄な水が溢れだし、その様子がたいそう素晴らしいので、厚く寵愛することになった。

 そんなある日、ある老人がこの石をつくづく見て言うには───

『このように水気を生じる石には中に必ず《蟄龍ちつりょう》がいるはずである。いずれは天に昇るであろう』




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