水精石
5
水は水盤の内側に描かれた花を目印にして入れた。水が増えれば一目でわかるようになっている。
真剣な表情で石を見つめる弟を見て、よく飽きないな、と思った。今のところ、石から水が生じた様子はない。石は一見、単なる丸くて白い石でしかなく、じっと見ていても面白いものではなかった。
俊は軽くため息をつくと、押入れを開けて布団を引っ張り出した。それを敷くと、まだ八時半過ぎだったが、さっさと横になる。すると、ようやく晴辰が顔を上げた。
「兄ちゃん、もう寝るの?」
昼間の力仕事が響いて、体はくたくただった。
「お前も早く風呂に入って寝ろ。明日も蔵の整理するんだからな」
「うん」
晴辰はようやく立ち上がると、着替えを持って座敷を出て行った。
翌日。
目を覚ますと、七時を少し過ぎたところだった。隣の布団を見ると、晴辰がタオルケットに包まって寝ている。昨夜の様子から、ともすれば一晩中起きて石を見ていそうだった晴辰だが、ちゃんと寝ていたとわかると安心した。
水盤は座卓の上に置かれている。覗き込んでみたが、水が増えた様子はなかった。
俊は着替えると、布団をたたんで顔を洗いにいく。洗面所へ行く途中の廊下で叔母に会ったのであいさつした。
「あら、俊君、おはよう。もうすぐ朝ごはんだからね」
そう言って叔母はにこりとしたが、ふいに何かを思い出したように頬に手をあてた。
「どうかしたんですか?」
俊が尋ねると、叔母は曖昧に微笑んだ。
「いえね、昨日の夜のことを思い出して。ちょっとハル君の様子が気になったものだから」
「ハルが?」
「ええ。夜中に目が覚めて、水を飲みに行ったの。そうしたら――」
早紀子は座敷から光が漏れていることに気づいた。
(あら、まだ起きているのかしら?)
時刻はもう午前一時を過ぎている。もしかしたら電気を消し忘れて眠ってしまったのかもしれない。そう思ってそっと座敷を覗き込むと、庭に面したガラス戸の前にパジャマ姿の晴辰が座っていた。俊はもう眠っている。晴辰が俊より遅くまで起きていることに意外なものを感じながら、早紀子は声をかけた。
『ハル君、もうずいぶん遅い時間よ。明日も蔵の整理をするんですってね。もう寝たほうがいいんじゃないかしら』
すると、じっと窓の外を見ていた晴辰が早紀子の方を振り返った。
『……うん、そうだね。もう寝るよ』
そう言って、晴辰は微笑んだ。
「――それだけなんだけど、なんていうのかしら、その時のハル君の笑顔がいつもと違う気がしたのよ」
「いつもと違う?」
「ええ。ほら、ハル君の笑顔って元気いっぱいで明るいでしょう?それが、昨日の夜のハル君は大人のように穏やかに微笑したように見えたの。だから、びっくりしちゃって」
俊だってそんな晴辰を見たら驚く。大人のように笑う晴辰なんて想像もつかない。
「でも、よく考えてみれば、ハル君も今年で五年生だものね。そろそろ大人びてくる年頃なんだから、そう驚くことでもないのかもしれないわね」
そう言って一人納得すると、叔母は台所に戻っていった。
俊の方はというと、当然そんなことでは納得できなかった。俊から見た晴辰はまだまだ子供っぽい、兄の後を付いてまわる小さな弟でしかない。
顔を洗って座敷に戻ると、晴辰はまだ眠っていた。その寝顔は見慣れた幼い顔で、なぜだか、ほっとした。だが、次の瞬間には安堵した自分に腹が立った。なぜ、弟の寝顔を見てほっとしなければならないのか。訳が分からない。
俊はイライラしたまま、晴辰の肩をつかんで揺さぶった。
「おい、いつまで寝てるんだ。起きろ」
思わず出た大声で、布団の傍で丸くなっていったカタシロが飛び起きた。俊の声に驚いた仔犬は、何が起きたのかわからないといった様子で辺りを見回していたが、危険なものは近くにいないとわかると俊のもとへ駆けてきた。
その間にも、俊は肩を揺さぶっていたが、晴辰は起きる気配がない。カタシロが頬を舐めても軽く身じろぎするだけだ。
この様子に、俊は眉をひそめる。いつもの晴辰は、寝起きはいいほうだ。肩を軽くゆするだけで目を覚ますし、その後の行動もわりかし速やかにこなす。それが、今日は何度揺すっても起きないのだ。
「ハル、もう朝ごはんの時間だぞ。カタシロも飯が欲しいってさ」
しかし、晴辰は起きない。
俊はため息をつくと、晴辰を起こすことを諦めて、カタシロにドッグフードをあげると朝食を食べにいった。
居間には、すでに忠道が座っており、丸い卓袱台の上には朝食が用意されている。あいさつを交わして、さっさと食べ始めると、忠道が冷奴に醤油をかけながら尋ねてきた。
「晴辰はどうした?」
「まだ寝てる。あいつ、昨日は遅くまで起きてたらしいから」
「なんじゃ、まさかずっと石と睨めっこでもしとったんか?」
「さあ、それは知らないけど、叔母さんが夜中にハルが起きてるのを見たんだって」
「ふーむ」
「あの様子じゃ、当分起きないな」
よく考えれば晴辰は夜更かしだけでなく、昼間は蔵の整理をしたのだから疲れていたはずだ。寝過ごしても仕方ないのかもしれない。そう思いながら真っ白いご飯を口に運んでいると、居間と隣り合わせの台所から叔母が顔を覗かせた。今の会話を聞いていたようで、
「じゃあ、俊君、後でハル君のご飯も持っていってあげて。今、お盆に載せるから」
と言って、すぐに見えなくなった。
「すみません」
俊は台所に向かって頭を下げた。
朝食を終えると、廊下をうろうろしていたカタシロに水を飲ませてから、お盆を持って座敷に戻った。
襖を開けると、布団に横になっている晴辰の姿があった。身じろぎもしないのでまだ眠っているのかと思ったが、座卓にお盆を置いて振り返ると、黒い瞳と目が合った。
「──なんだ、起きてたのか」
眠っていると思っていたから少し驚いた。
「……早く顔洗ってこいよ。朝飯、ここに置いておくから食べ終わったら流しに持っていけよ」
聞いているのかいないのか、晴辰はどこかぼんやりした顔で俊を見ていた。
「……兄ちゃん」
「なんだよ」
「あのね、夢を見た」
「は?夢?」
「うん」
とても不思議な夢だったんだ、と晴辰はつぶやくように言った。
眠れば夢のひとつやふたつは見るだろう。晴辰がどうして急にこんなことを言い出したのか、俊は図りかねた。黙って話を聞いてみる。
晴辰はぼんやりした表情のまま話し始めた。
晴辰の話はこうだ。
何もない暗闇の中にぼんやり立っていると、向こうから誰かが歩いてくるのに気がついた。晴辰の方へとゆっくり歩いてくる。じっとその人影を見ていると、その人影はどんどん近づいてきて、まっすぐ晴辰の方へとやってくる。次第に姿がはっきりしてきて、それが兄と同い年くらいの少年であるとわかった。その時になって、ようやく晴辰は自分の身体が動かないことに気づく。彼はもう目と鼻の先まできていたが、まるで晴辰の姿が目に入っていないとでもいうように、歩みを緩めることなく近づいてくる。駄目だ、ぶつかると思わず目をつぶったが──
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