[携帯モード] [URL送信]

水精石
3

「何でもない。オレの見間違えだ。ほら、じいさんが待ってるぞ」
「……うん」

 不安そうな弟を促して、階段をのぼりきった。



 忠道の指示で、二階に置かれた物を外に運び出す。二階はおもに、祖父の趣味で集めた民俗学や日本史関連の古書で占められていた。また、かつては大地主だっただけあって、江戸時代の古文書などもかなりの数があり、町史を編纂する為に、大学の教授や調査員などが訪れることもあるらしい。

 古書・古文書は虫干しするため、しばらく風通しのよい野外に置いておく。それ以外のものも埃を落とすために外に運び出した。

 すべての物を運び出すのに午前中を費やしても終わらす、一旦昼食を食べて休憩し、午後二時を過ぎた頃にようやくすべてを運び終えたのだった。

 俊も晴辰も慣れない力仕事にすっかり疲れて、庭の隅の日陰に座り込んでいた。忠道は昨日言っていたシゲさんが来たとかで、母屋に戻ってしまったので、しばらく休憩することにする。叔母が気を利かせて持ってきてくれたスイカを食べながら、俊は蔵の中で見た人影について考えていた。

 晴辰には見間違えだと言って誤魔化したが、俊は確かに見たのだった。

 いつのまにか蔵の中にいた少年。一体いつから、あそこにいたのだろう。人が入ってきた気配など、しなかった。それに、俊が一瞬目を離した隙に、消えてしまっていた。

 俊は少年の姿を思い出そうとして、それができないことに気づいた。階段の下に立っていたことは思い出せるのだが、もともと見えなかった顔は別としても、彼がどんな服装だったか、どんな体型だったのか、そのあたりが霞に覆われたようにぼんやりとして思い出せなかった。記憶力はいいほうだ。それなのに、ほんの数時間前に見た少年の姿を思い出せないなんて、普段の俊からすれば、ありえないことだった。

 急に現われて、急に消える。そんなことが人間にできるだろうか。真夏の陽射しのもとで、ふいに鳥肌が立った。

 蔵を眺めてみる。白々とした漆喰の壁に陽光が反射し、蔵は眩しいほどだった。それとは対照的に、蔵の中に所々落ちる影が気味悪く感じられた。

 俊はスイカを置くと、立ち上がる。隣りで同じくスイカを食べていた晴辰が目を丸くして俊を見上げた。

「どうしたの?」
「ちょっと、蔵に忘れ物したから、取ってくる」
「……忘れ物って?」

 俊はそれには答えず、さっさと歩きだす。観音扉をくぐりぬけて蔵の中に入ると、少年が立っていたところに自分も立ってみた。少年は足元の棚を見つめるように顔をうつむけていたので、俊も同じ様にそちらに視線を落とした。

 しかし、これといって何か特別なものがあるわけではない。その棚は祖父の蒐集した壺を納めた場所であり、いくつか木箱が置かれているだけだった。俊は首を傾げて、しゃがんでみる。すると、立った状態では見えなかったのだが、木箱の後ろに隠れるように、もうひとつ木箱が置かれているのに気づいた。

「――なんだ、これ?」

 前の木箱をずらして、それを取り出した。

 木箱はかなり古いものらしかった。上蓋に墨で何か書かれていたが、古文書に書かれているようなくずし字であったため、俊には読めなかった。

「兄ちゃん、何してるの?」

 いつのまにか晴辰がすぐ後ろに立っていた。一瞬驚いて顔が強張ったが、軽く息をつくと振り返る。

「お前、スイカはもういいのか。好物だろ。まだ食ってろよ」
「もういらない。いっぱい食べたし」
「だけど、昨日も日射病になったんだから、もう少し水分取っておけよ」
「大丈夫だよ。もう平気。それより、何してたの?忘れ物は見つかった?」

 晴辰を退けられないとわかって、俊は溜め息をついた。

「別に。何かおもしろい物がないか、見てただけだよ。忘れ物はもう見つけた」
「僕も一緒に見てていい?」
「勝手にしろ」
「うん」

 晴辰が頷いて、俊の隣りにしゃがむ。

 俊はそっと蓋を取り外した。覗き込むと、なかには手の平にすっぽり収まるくらいの磁器の焼き物が納められていた。

 取り出して見てみると、真っ白いガラス化した表面はつるりとした光沢を放ち、ひんやり冷たかった。この磁器にも蓋があり、中に何か入っているようだったが、蓋が開かないよう紅い紐で何重にもぐるぐる巻きに括ってあった。その上、驚いたことに、その磁器の中にはどうやら水が入っているらしかった。揺らすたびに、たぷんと音がする。

「――開けるぞ」

 言って、俊は紐をほどいた。ゆっくり蓋を持ち上げる。蓋の裏側についていた水滴が、ぽたりと床の上に落ちた。

「………石、かな。これ?」

 晴辰が首を傾げながら言った。
 
「それになんで、水が入ってるんだ?」

 磁器の器には、水に浸かるようにして真っ白い石が沈んでいた。それを取り出して、手の平に乗せてみる。石は乳白色の丸い石で、まるで河原の石のように角がない、まろやかな形だった。

「なんの石だろう。こうやって立派な入れ物に入っているってことは、やっぱり宝石とか、そんな石なのかな」
「さあな」

 あの少年が見ていたのは、この石だったのだろうか。

 俊は石を器に戻すと、蓋をして、元通りに紐でぐるぐる巻きにして封をした。

 慎重な手つきで、俊が磁器を木箱の中に戻していると、蔵に向かってくる足音が聞こえた。ゆったりとした足取りから、すぐに祖父の忠道だとわかった。勝手に蔵の物をあさったりして怒られるかな、と思ったけれど、俊は慌てずに忠道が来るのを待った。

 骨董仲間のシゲさんを見送った忠道は、ご機嫌で孫達の待つ蔵へと戻った。心ゆくまで古伊万里の話に花を咲かせたことで、骨董の話となると途端に相手をしてくれなくなる家族や孫達に溜まっていた鬱憤も晴らせて、ご満悦だった。観音扉からひょっこり顔を出して覗き込むと、階段下の棚の前にしゃがみ込んでいる俊と晴辰を見つける。

「そんなところで、なにをしとるんじゃ?」 

 その声に、俊はゆっくり顔をあげる。そして、入り口に立つなにやら機嫌のいい祖父を発見して、とっさに訊ねるなら今だと悟った。

「ねえ、蔵の中を見てたら、こんなのが出てきたんだけど、これなに?」

 磁器の入った木箱を忠道の方に差し出した。

「なんじゃ?」

 忠道は寄ってきて、俊の傍らにしゃがみ込む。晴辰が木箱の蓋を指して、首を傾げた。

「これ、なんて書いてあるの?」
「どれどれ……」

 忠道は眼鏡を取り出して掛けると、目を細めて蓋を眺めた。

「あー、はじめの文字は水……つぎが、精かの。精神とかの精じゃ。最後は石じゃな」
「すごい、おじいちゃん。よくこんな難しいの読めるね」

 ミミズがのたくったような文字は、言われてみればそう読めなくもない。しきりに感心する弟に、俊も密かに同意する。これを読めるなんて確かにすごい。しかし、字はわかったけれど、なんて読むんだろう。

 すいせいせき?

 それとも、すいしょうせき、だろうか。

 何度もすごいを連発する晴辰に、ちょっと得意そうに祖父は笑う。

「まあな、勉強すれば誰でも読めるようになるもんじゃよ」
「そうなの?僕でも読めるかな?」
「そうじゃの、もっと漢字をたくさん覚えてたくさん勉強すれば、読めるようになるじゃろう」

 そう言って晴辰に笑い掛けた忠道だったが、ふと眉を寄せた。



[次へ#]

あきゅろす。
無料HPエムペ!