水精石
11
「……台風の中を、か?」
「大気に水気が満ちてちょうどいいんだ」
「場所は?」
「裏山の泉。俺は台風の風雨をつたって天に帰る。泉の水気と大気に満ちる水気を得て、俺は昇天する。あの場所に帰るんだ」
「そうか」
俊はその時は一緒についていこうと決めた。彼が天に帰った後、晴辰を家につれて帰らなくてはならないし、彼が天に帰る瞬間を見てみたいと思ったのだ。
俊は縁側に視線をやった。
窓の外は台風の訪れを知らせるように、徐々に風が吹きはじめていた。
少しの仮眠の後、目覚めて隣の布団を見ると、晴辰の姿はなかった。
瞬時に目が覚める。
うっかり寝過ごしたのか。間に合わなかったのか。もう行ってしまったのか。
様々な考えが頭を巡りながらも、慌てて時計を見ると、予想に反してまだ午前四時半を少し過ぎたところだった。外を見ると、風は吹き荒れてビュービュー音を立てていたが、雨は降っていない。
そうだ、水精石は?
布団から這い出して、水盤の中を覗き込む。すると、そこには白い石が眠っているように静かに沈んでいた。
ほっとため息が出た。まだ、彼は帰ってはいない。
とりあえず服を着替え、俊は水精石を取り出すと、家の中を探してみた。しかし、どこにも彼の姿は見当たらない。玄関に行ってみると、晴辰の靴だけがなくなっていた。
裏山の泉。俊の脳裏にさっとその光景が広がった。そんなに広くはない、せいぜい学校のプールの半分くらい。昔、忠道に連れられていったときの記憶だ。
俊も靴を履く。玄関の戸を開けた途端に風が顔を打って、思わず立ち止まってしまう。風は水分を含んで生暖かく、見上げた空は灰色の重たい雲に覆われていた。今にも雨が降り出しそうだ。
俊はさっと玄関の戸を閉めると、走り出す。
早く行かないと。
頭の中はそれでいっぱいだった。いくら彼の本体がこの水精石の中にあるといっても気が気じゃなかった。なぜだかこのまま彼も晴辰も消えて、もう二度と会えないのではないかという気がした。
泉はそう遠くない。近所の人が通るのか、枝は掃われて下草もあまり生えていない、ひと一人が通れるほどの狭い道が泉まで続いている。
俊は水精石を握り締めながら裏山を駆け上がった。
すっかり息が上がって、汗が額から流れる。開けた場所に出たと思ったら、目の前に泉があった。そこにパジャマ姿の晴辰もいた。いや、彼だ。
彼は振り返ると、肩で息をする俊を見て笑みを浮かべる。
「ごめん。また弟の身体を借りた。最後にもう一度、地上に足をつけて歩いてみたかったんだ」
そう言って、彼は天を仰いだ。
ぽたり。
つられて空を見上げた俊の頬に雨粒が落ちた。
ぽたり。
大粒の重たい滴だった。ようやく雨が降り出したのだ。雨足はたちまち強くなって、景色を水煙の中に包んでいく。
「これが雨か……」
雨は彼の上にも降り注いでいる。
それはまるで乾いた大地に降り注ぐ慈雨のように、彼の身体に染み込み、彼を生気であふれさせていくようだった。
地上の雨に感激している彼を見て、とても不思議な気持ちになった。龍は龍神ともいい、雨をもたらしてくれる水の神だ。その神がはじめて触れる雨に、喜びをみいだしているなんて。
彼はしばらくじっと雨に打たれていたが、ふいに俊を見た。
「──石を。持ってきてくれたんだろう?」
「ああ、うん」
俊は握り締めていた石を晴辰の手のひらに乗せる。
彼はそれをぎゅっと握ると、泉のほうに向き直って歩き出す。靴先が何のためらいもなく水の中に入る。
「おい!」
驚く俊に振り返って、彼はちらっと微笑む。足は止まらず、どんどん泉の中に入っていく。
「大丈夫さ、君の弟には危害を加えない。安心してくれ。本当は君にこの石を泉の中に投げ入れてもらおうと思っていたけど、気が変わった。俺も水に浸かりたくなったんだよ」
「………これも最後だから、か?」
「そう、わかってるじゃないか。地上の水気も悪くない。この雨も、この泉も、なかなか心地よかったよ」
そう言って、彼は笑みを深くすると、泉の中央部まで進んでいった。水深は晴辰の身長の胸辺りまでしかなかった。
息をつめて見守る俊の前で、彼はゆっくり水精石の乗った手をひるがえした。石はたぷんと音を立てて、ゆらゆらと底に沈んでいく。
風が強くなる。雨足も激しくなる。遠くで雷が鳴った。激しい風雨に目を開けていられない。
「さよなら」
彼の声が微かに聞こえた気がして、なんとか片目だけ開けた。
その瞬間、カッと真っ白な稲光が走る。
白い光の中に黒い影が天に向かって伸びた。なにか巨大なものが身をくねらせながら昇っていく。
しかし、それもほんの一瞬だった。光が消えると、その影も消えてしまった。
ざーっという雨の音が身体に響く。
影の残像が目に焼きついて離れなかった。だが、その影がなんなのかを考える前に、泉の中央にいた晴辰が急にがくっと力が抜けたように倒れるのが見えた。
俊は突然のことに驚いて、はっと息を吸い込む。気づけば身体は勝手に動いていて、沈みそうになっている晴辰の手を掴んでいた。
「おい、大丈夫か?しっかりしろ!」
俊の声に反応するように、晴辰がうっすら目を開ける。
「……に……い…ちゃん?」
「ああ、そうだよ。お前は晴辰だよな?」
抱えあげられた晴辰は、不思議そうな顔をする。それだけでじゅうぶんだった。俊はほっと胸をなでおろして改めて弟を抱えあげた。
空を見上げる。
彼は帰ったのだ。望んでいた場所に。そこには彼の望んだ景色が広がっているだろうか。会いたいと願っていた人に会えただろうか。
俊の目には分厚い灰色の雲しか見えなかった。
だが、きっと彼の望みは叶う。そう信じている。
その後。
びしょ濡れで帰った俊と晴辰は、そろって風邪をひいた。叔母には大層心配され、忠道には怒られた。台風の日に外に出て、濡れるだけ濡れて、一体何をやっていたのかと。
しかし、俊は黙っていた。話しても信じてもらえるとは思えなかった。いや、忠道なら信じてくれたかもしれないが、なんとなく秘密にしておきたかった。
隣の布団に寝ている晴辰に目をやる。目は覚めていたようで、俊の視線に気づくと、顔を向けてきた。
「……なんで僕、裏山にいたんだろう?」
額にはられた冷えぴたが気になるのか、それを触りながらつぶやく。
「本当になんにも覚えてないんだな」
俊が苦笑すると、きょとんとした顔をした。
「兄ちゃんは知ってるの?」
「まあな」
それだけ言うと俊は晴辰に背を向けた。
弟には話してやろうと思う。早々に石がないことにも気づくだろうし。
明日の帰りの電車の中で、聞かせるというのはどうだろうか。話を聞いたら、自分も龍を見たかったと拗ねるかもしれない。彼が表に出ていた間の記憶は残っていないようだし。
そう思うと、自然に笑みが浮かんだ。
拗ねた晴辰は頑固だ。
アイスくらいならおごってあげようと思った。
end
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